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2013年5月

2013年5月29日 (水)

物語性

 BioWareがDAI(Dragon Age: Inquisition)に関する情報を出すまで、このブログは冬眠中というか、生命維持装置で生かされているような状態です・・・。
 ゲイダーさんもサヴァティカル休暇を終えたようで、フォーラムにも登場してきていますが、例によってファンの憶測につっこみを入れるだけで、目新しいことは語っていない。

 申し訳ないが、自分のメモがわりのようなネタを書くことにします。

 「物語性」について、ネットには(あきらかな嘘、思考停止言説を含め)適当なことしか書いていないため、自分なりの解釈としてゲイダーさんのいう「売り口上」、ストーリー(物語)の要点、売りを簡単にすんなり伝えることができることと書いてみた。その程度の伝達によって多くの人々の興味をそそることができること。
 「お前も適当なこと書いてるじゃねえか」と指摘されるのもしゃくなんで、まじめに調べなくちゃなあとは思い、少し下調べをしてみた。

 映画の世界などでは、”narrative”(物語)に対して”narrativity”という概念が盛んに論議されるそうで、どうやらこの言葉を「物語性」と訳したらしい。意味は「製作者がストーリーを提示し、観客がその解釈を行う、その双方のプロセス」となっていて、前提は「物語の解釈は受け手(観客)の主観的なものである。同じストーリーが異なる受け手によって異なる受け止められ方をする」ということだ。

 「ふつう」に感じるかもしれない。当たり前だよねえ。カップルでも友人とでもいいから同じ映画を観に行って、帰りに食事がてら感想を述べ合っていると、まるで違うところに感動している(あるいは自分の感動した部分が無視されている)経験ってふつうにありますよね。もし完全に同意したら、赤い絆で結ばれた運命の相手同士か、「結局あなたって私の話を全部頷いているだけなのね」という話になるわけで。

 でも上の一文には(自説を補強するわけですが)重要なこと、「受け手」のことが書いてあります。私の解釈では「誰かに伝え、伝えた相手の興味をそそること」ことを主眼にしていました。
 さらに補強。

http://wikis.sub.uni-hamburg.de/lhn/index.php/Narrativity

 UCSBの英文学の先生の論文です。ここでは、「物語」そのものは「記号論的対象物」”semiotic object”であるが、その物語に「物語性がある」こととは「物語に対する詳細かつ個人的な解釈・感想などを惹き起こす(インスパイアする)ことができる」”being able to inspire a narrative response”ことを指すという区別がされている説が紹介されている。
(”narrative response”とは一般には、例えば感想文やエッセイなどの形で自分の考えを詳らかに示すこと。あちらの大学で用いられる記述式試験(宿題)のこともそう言う)

 すなわち、ここでも物語性があるかどうかは「受け手」の主観を前提にしていることになる。

 またこの説によることで、物語は、従来付与されていた形式的な要件定義である「複数の出来事の有無」(Event and eventfulness)、「一貫性」(Coherence)、「人間または人間に類似した存在の登場」(Character)などの縛りから解放されるのだという。

(eventは特定の条件を満たした物語中の「状況の変化」を指し、eventfulnessは物語中のある「状況の変化」がeventと見なされるほど重大であるということを示す。Eventfulnessはその状況の変化のrelevance(関連性)、unpredictability(意外性)、persistence(持続性)によるとの説がある)

 ネットなどで「物語性」として一般に用いられているのが上の形式的定義、「複数の出来事(物語にとって重大であるとみなされる状況の変化)が無理なく繋げられた、とある主人公の物語であること」である。
 これは、そこには何らかの「物語」があることを示しているに過ぎないわけで、物語性については実は何も語っていないといえる。
 
 物語性を受け手に対するインスパイアがあること、ととらえることで、文字による記述という縛りもなくなるし、たとえば(出来事が描かれないことが多い)歌唱や詩作や(通常は連続した展開が存在しない)絵画にも適用できるし、さらに通常は欠いているようなあるメディアの異種メディアとの間の参照性も獲得することができる。(歌唱・言語を伴わない)器楽演奏などについては議論があるところだが、それらも十分な物語性を有しているという説もある。

 「物語性がある」こととは、その物語(あるいは潜在的に物語性を有すると期待される何らかのメディア作品など)に触れた受け手側が、自分自身でその経験を物語的に再記述・再構築してみたくなる、説明・解釈してみたくなる、そういう感情を惹起するということ。
 
 先に、手塚作品のいくつかについて物語性があることを示すためできるだけ短い文章で書いてみました。私がやっていたことが、まさに上のような再記述・再構築なのでしょう。
 (物語にフォーカスしているなら)ユーザー・レヴューも、アニメ・コミック・ゲーム回りの(コスプレを含む)二次創作なんかも、同列に論じていいのかもしれない。

 また、人間はみな生まれながらに物語を語りたがる存在(ストーリーテラー)であるという、どこかで読んだ言説にも通じるものがあります。

  私個人はだいぶすっきりしてきました。
 
 ちょっと待て。物語性があるということは、端的に言えば自分でレヴューをしてみたくなるということか。
 まあ、それも含むのでしょうね。レヴューっても広いから常にそうではないだろうけど。
 であれば、お前が言っている「批評性」があるということと近いということか。

 違います。

 批評性とは定型を嫌うことであるとしておきました。だから入り口ではたぶんに「形式的」です。定型的なもの、陳腐なもの(trope)には批評性がないと言いました。
 でも、そういったものにも物語性は十分にありえます。当たり前の「メロドラマ」(いわゆる昼メロに限らず、扇情的だが中身が陳腐なものすべてを含む)が今でも作られ続けているのは、そういう作品に触れて自分自身でその経験を物語的に再記述・再構築してみたくなる、説明・解釈してみたくなる人々が十分に存在するからです。そういう人々にとって、その特定のメロドラマ的作品は立派に物語性を有しているということです。
 「真・女神転生IV」の作品自体に批評性はたぶんないでしょう(3DSというプラットフォームを選んだことへの物語外部の世界での批評性はあるだろうが)。でもあの物語について何か伝えたいと思った私にとっては物語性が感じられたわけですね。

 例えば、上のリンクで例示されている童話「赤ずきんちゃん」を取り上げてみると、我々大人にとっては陳腐で聞き飽きた、むしろパロディかヴァリエーションでも作りたくなるくらい当たり前になっている物語です(ハリウッド映画では「赤ずきん」のパロディもあるし、最近は「白雪姫」のヴァリエーションとなる映画も作っちゃいましたね)。もちろんパロディやヴァリエーションを作りたくなるということは作品が物語性を十分有していることの証明であるし、現にあの物語は幾多の変遷、ヴァリエーションを経てきて今日の内容になっているのだそうだ。
 でも、あの物語にはじめて触れるお子ちゃまたちにとっては、素のままで十分に物語性を有しているといえるわけですよね。
 
 もっと、ぐちゃぐちゃに悩みまくるのかと思ったら、意外に短く済みました。
 もちろん上の説はまだまだとっかかりです。物語性にしても、批評性にしても、ここで示した定義めいたものは一つの学説であり、決着がついているものでも、とてもそんな簡単に割り切れるような代物でもありません(だったら、ネットに定義が書いてあるし、そんなんだったらだいたい話題にする意味のあるネタではない)。
 
 短く済んだのでおまけ。赤ずきんちゃんつながりで、女の子とオオカミのとある物語でも紹介しましょう。作者は英国スコットランドの著名な短編作家であるサキ。物語性も批評性もあると思うんだけど、どうかな。紹介するお話はその名も「ストーリーテラー」(笑)。

 おまえの要約などじゃなく全文が読みたいというなら、下から英文で読めます。むしろ作中登場するストーリーテラーの(そしてサキ自身の)真骨頂はお話の細部にこそ発揮されているので、本当は全文を読むのがお勧めだ。日本語版は探していないが、もしかしたらどこかにあるかもしれない。

http://www.classicshorts.com/stories/Storyteller.html

 この小説は実際には枠物語。暑い昼日中、テンプルコブ駅に向かって走る列車の、とあるコンパートメント(客室のようなもの)には、女の子ふたりと男の子を連れた親戚の叔母が見知らぬ独身男性と乗り合わせている。

 ひとときもじっとしておらずに次々と質問をし続ける男の子と、童謡の一節だけを延々と繰り返して歌う小さい方の女の子の騒々しさに辟易した叔母は、目の前の男性が立腹しているに違いないと気を揉んでしまう。子供たちの気を引くため(あるいは男性の手前)、叔母は子供たちを集め、善行をなしたおかげで命の危険から救われた少女の、教訓めいた大変つまらないお話を聞かせる。
 
 だが大きい方の女の子が発した「良い子じゃなかったら助からなかったのか」という問いこそ、実は男性が心の中で発していたものとまったく同じであった。「それでも助かっただろうけど、みんなそんなに急いで助けに駆けつけなかったかも」という叔母の自信なさげな答えに対し、女の子は「今まで聞いた中で一番バカバカしいお話だった」と盤石の確信とともに宣言する。

 突然男性が言葉を発し、叔母に対してストーリーテラーの才能があまりないことを揶揄する。憤慨した叔母は、難しいから自分の代わりにやってみたらどうかと男性に告げる。

 以下は、その独身男性が子供たちにしてあげたお話である。

 とんでもないほどお行儀がよかったその女の子は、善行を示す金ピカのメダルをひとりで三つも貰って、いつも首からぶら下げていた。その評判が国の王子の耳にも届くと、女の子は王室が街の近くに所有する広大な庭園の散策を特別に許された。色とりどりの魚が棲むいくつもの池、美しいオウムやハミングバードのいる森などをひととおり堪能した彼女は、善行をなしたおかげでこのようなご褒美がもらえたことにご満悦であった。

 やがて庭園に放し飼いされていた豚を目当てに大きなオオカミがやってきて、シミひとつない真っ白なエプロン姿の女の子をずっと遠くから即座に見つけた。女の子は善行などしなければこんなところに招かれることはなかったと心から後悔しながら精一杯逃げ、植込みの深い茂みの中になんとか隠れた。近くまで追いついたオオカミが付近を嗅ぎまわるが、茂みは深く、また匂いのきつい草が生えており、女の子を見つけることができなかった。

 諦めかけたオオカミが豚の群れのほうに戻ろうとしたとき、女の子の身体はあまりの怖さのため震え出し、「従順」のメダルが「良い素行」のメダルと「時間厳守」のメダルに触れてちりんちりんと鳴り出した。
 後から見つかったのは、靴と、衣服の切れ端と、善行を示す三つのメダルだけであった。 

 「今まで聞いた中で一番素晴らしいお話だった」と大きい方の女の子が盤石の確信をもって宣言したように、男性の物語は子供たちに絶賛される。子供たちにとってはもっとも相応しくない種類の話であったと抗議する叔母に対し、十分間も子供たちを黙らせることができた点で自分のほうが勝ったと告げ、男性はテンプルコム駅で列車を降りていく。これからかなり長い間、子供たちに相応しくない話をせがまれるだろう憐れな叔母の不幸を気の毒がりながら。

 

2013年5月28日 (火)

カルマ

 ハンドヘルド機の世界に限ったことかどうかわからないが、JRPGがキャラクター画像数枚の紙芝居+声優の力量に依存した世界が長く続きすぎではないか、と先日書いていた。
 露骨な言い方をすれば、もっともお金のかからない(それが言い過ぎなら費用が容易に予見・抑制できる)分野にクリエイティヴィティを押し付けているのではないかというお話。絵師と声優の個人芸の世界ですね。

 奇遇なことに、産経新聞「テレビ還暦60年」という企画記事の中で、似たような話題に出くわしました。
 共時性があると呼べるのかどうかわからないが、なんだかおもしろいので紹介します。

http://sankei.jp.msn.com/entertainments/news/130528/ent13052807580001-n1.htm

 記事の骨子は、「虫プロ時代(昭和30年代後期)の手塚治虫氏は、ディズニーなど主流が用いていたフル・アニメーションではなく、当時試行段階であったリミテッド・アニメーションという手法を換骨脱胎して、画期的な『アニメ』なる技法を確立した」というものです。
 本当の趣旨は「手塚氏が発明した和製『アニメ』は、物語性を前面に押し出すことによって、ディズニーなどと隔絶した独自の世界を築きあげ、新たな『産業』を生み出した」ということでしょう。

 セル画を大幅に削減し、動画を使いまわし(いわゆる「バンク」ですか)、キャラクターなどの一部だけを動かす和製「アニメ」は、フル・アニメーションが必要としていたスタッフ200人に対してたった7人程度で作品を量産することができる驚異的な「生産性」を実現した。

 一方、その世界を体験したフル・アニメーション出身者(杉井ギザブロー氏)は「紙芝居じゃないか」と困惑したそうだ。

 だがそういう危惧も、作品の「物語性」が前面に押し出されることによって問題なく感じられるようになったと杉井氏は述懐している。
 現に、虫プロで手塚氏と働いたことのある富野由悠季氏は「手塚先生は漫画家でもアニメ制作者でもなく、物語作家」と指摘している。

 もちろん、手塚氏は虫プロという企業の「経営者」でもあったわけで、なにより「生産性」も重視せざるを得なかったことは疑うべくもありません。当時のアニメーターは航空機パイロットなみの高給職であったそうです。虫プロ倒産の原因も競争激化と労務費高騰・労働問題だったとか。

 昨今の国内ゲーム市場では100万本売れる作品など数えるほどしかなく、成功の尺度はせいぜい20万本、下手したら10万本がいいところ。「紙芝居」JRPGも「生産性」追及の結果という側面もあることは容易に想像できます。

 でも言いたいことは「だからダメ」とか主流、AAAタイトルじゃないからダメということではありません。
 ましてやJRPGの原点は和製「アニメ」、手塚治虫氏にあったのではないかという話題でもない。そんなことを真顔で延べたら「当たり前な話をするやつ」みたいに扱われてしまう。そんな当たり前でも簡単な話でも全然ないのに、日本人はとかく簡略化して結論づけすぎで、なんかロックはビートルズに始まりそれで決まりみたいにわけわかんない話もずっとまかりとおっているし、そうした圧倒的多数意見を前に反論するのも疲れてしまうのです。

 とりあえず話を締めるなら、フル・アニメーション=AAAタイトルのような手法と、和製アニメ=紙芝居JRPGのような手法は双方成立しうるのではないか、というところでしょうか。
 富野氏の発言にある「同じ漫画絵を動かすにしても、これだけ幅があると知った」という部分があたりますね。

**********

 でも、それだけじゃ面白くないですよね。少し蛇足的に話を進めてみます。

 富野氏はまた「物語性を前面に出せば動かなくても面白い」とも語っている。本場や国内主流(当時の東映動画)のフル・アニメーション作品は物語性を前面に出してはいなかったと暗に言っていることになります。

 たしかに彼がアニメーションの先達としてお手本にしていたカートゥーン隆盛期のウォルト・ディズニー(企業)も、あるいはその競合を目指したMGM傘下のハンナ・バーベラ(代表作はトムジェリ)なども、描く物語はすでに広く知られている古典か、「定型的」なメロドラマか、そもそも物語不在。またあちらのカートゥーンはどうしても新聞漫画の類比で扱われていたので「社会風刺」の要素を自然に持ち込む風潮もあった。社会風刺漫画は当然ながらマンネリズムの産物です。

 手塚治虫氏が作品で強調したという「物語性」とはなんなのでしょう。ネットで「物語性」を調べても嘘や適当な売り口上がいっぱい書いてあるだけで、辛うじて新見南吉氏のエッセイが参考になるくらいです。こうなったら自分で考えるしかない。

 ほんのちょっとだけ、その物語のさわりや導入部を伝えるだけで多くの人々の興味を得ることができること、というのはどうでしょう。当然、定型(troup)やマンネリズムではそうならない。

 手塚作品のすべてが成功したわけではないですが、成功したものはそのようにして「伝える」ことができそうです。そこには一種の仕掛けというか必勝法があった。

 そういう作品群の主人公たちを一言で表現してしまえば「カルマ(業)」を背負っている。
(こんなの常識だと思っていたので改めて書くのは恥ずかしいかなあ、と思って検索してみたが、カルマそれ自体を描いた「火の鳥」や「ブッダ」などの作品はともかく、全然ヒットしない・・・。非常識になっちゃったのかなあ)

 ここの説明は正直荷が重いのですが、まずカルマと「宿命」が違うことを言わないといけない。カルマ本来の意味はあくまで自分の行為であって、物事の原因を指し、宿命はその結果。「カルマを背負う」という表現は単純に「ある行為をなす場合、その結果は良かれ悪しかれ自分で背負うことになる」というだけの意味。つまり「因果応報」、「自業自得」。

 ところが日本語の場合は「宿命を負っている」という意味で用いられることも多い。特に現世でなんらかの不自由な立場や困難な状態(結果)に置かれている場合、自分の前世や親の世代の行為を原因とした宿命であるに違いないという意味で用いられるのが一般的である。「親の因果が子に報い」というやつ。厳密に言えばこれは拡大解釈であるそうだ。宿命が結果だとすれば自分の力では変えられないものだが、カルマは行為であるので本来自分で変えていくことができる。そして変えた分だけ結果に応報されるものであるはずだから。

 手塚作品の主人公の多くは、生まれながらにして自分では原因をあずかり知らない、どうすることもできない、凄惨な果報を背負わされている。このネガティヴな果報(悪業)そのものではなく、それを克服していく行為のことを、ここではカルマと呼ぶことにします。

 悪業を背負った主人公が善なる行い(正義など)をなしても、それは凡人が人としてより高みに上っていく(零点から正符号方面に移動)ことを意味するのではなく、わけもわからず背負わされた負の果報を精算していく(負から零点に近づけていく)ことを意味する。
 主人公が常人離れした才能・能力を有している場合でも、むしろそういう場合にこそ、それを帳消しにして余りある負の値が予め与えられている(ブラックジャックなど)。

 最もわかりやすい例が「どろろ」の百鬼丸でしょうか。剣士である百鬼丸は親の因果によって生まれる前から全身各部位を四十八の妖怪に奪われており、それらを医師から授かった義肢・義眼・テレパシー能力などで補っている。百鬼丸は、その妖怪たちを探し出して成敗することで対応する生身の部位を奪還することができる。
 当初は義肢などに武装を仕組んだ類まれなる剣士として登場するが、妖怪退治が進むにつれてどんどん生身の部位が増え、「ただの人」になっていく。一種のアンタイ・クライマックス。

 これだけで物語としては「勝ちゲーム」ですよね。残念ながらコミックはあまりに暗すぎて流行りませんでした(また、創作のきっかけが水木しげる氏の妖怪もの人気に嫉妬したものだという説があり、水木氏から「一番病」患者と診断されたというお話もあります)

 わかりにくいけど似た形なのがアトム。
 ある天才科学者が早逝した息子を悼むあまり、その子をモデルにして人間と「ほぼ」変わらない心(感情)を宿したロボットを生み出すが、やがて人間のように成長しないことへの嫌悪が募って結局サーカスに売り払ってしまう。

 アトムの物語は、百鬼丸のように生身の身体部位を獲得することで「ただの人」に近づいていくのでもなく、童話のピノッキオのように最後には生身の肉体を獲得するのでもなく、「ふつうの市民」として扱われるために必要な市民権を獲得するための苦悩を描く。実際にはもうひとつ、人間として足りない部分の心(感情)を獲得していくテーマもあるのだが、例えば「恐怖心」という「ふつうの感情」を身に着けることで、戦士としては「凡庸」になってしまうことも明らかにされる。

 他の作品について延々と続けるのもどうかと思いますので、適当なところでやめておきます。すべての主人公がカルマを背負っているわけでもないし、一部には宿命と区別がつきづらいものもあります。手塚氏お得意の「男装」もので言うなら、妖精の勘違いによって男の心で生まれてしまったサファイアの場合、背負わされているのはカルマなのか宿命なのか曖昧。それでも彼女が物語の中で獲得していくのは「ふつうの女性」としての恋愛。
(例えば「ベルばら」のオスカルの人生は明確に「自らも受け入れている如何ともしがたい宿命」として描かれていることとの違い)

 男装つながりで言えば、どろろの場合、自らの身体に刻み込まれているのは大盗賊の父親が隠した財宝のありか。これは宿命でしょうかカルマでしょうか。彼女が獲得していくのは薄汚い盗賊家業からの脱出。不自由のない安穏な(ひとりの女性としての)生活。

 私の説明がへたくそなのは置いても、いずれも何を説明すべきか容易なのにも関わらず、他にはなかなか例を見ない物語群と言えるのではないでしょうか。もし、似ている話を知っているよ、というものがあるなら、手塚氏自身が手本にした伝奇・伝承ものか、あるいは手塚作品のパクリ(オマージュ)のどちらかである確率が高いと思います。

 ただ、一時期のアニメや活劇ものでは、この「カルマ背負っています」もの、それからそれらと類似した「宿命もの」(スポ根もの含む)のコンセプトがあまりに濫用されてしまったため、それ自体が「定型」になっていってしまったという皮肉もあったのでした。

 また、この「物語性」をあまりに過剰に追及する手塚氏の姿勢に虫プロ時代の宮崎駿氏が大変批判的であったという話もある。ある作品の脚本で宮崎氏が「なんでここで主人公が死ぬ必要があるのか」と手塚氏を詰問したところ、「だって、そのほうが感動的だから」とのたまったというエピソードは、私もちょくちょく使わせていただいています(笑)。宮崎アニメは人がなかなか死にませんしね。

 手塚氏が「物語性」を強調していたやり方は、特殊かつ過激であった。今日眼にするコミックやアニメのたぐいでは、主として「反面教師」として役立てられているのではないかと思う。
 ご本人ですら、生前「マンガなんて残らんよ」とのたまっていたわけだし。「当時の形では」という意味ですけどね。

 ブッダつながりでいえば「諸行無常」ですね。"All is impermanent."

(さらに蛇足)

 アメコミの主人公は、もともと「苦悩って何?」、あっけらかんとして「能天気」と決まっていたのですが、やがて時代の要請もあって心の闇の部分を付与されるようになっていきました。
 ただし、和製アニメのように「カルマ」を背負わされる例はほとんどありません。
 あちらの主人公たちが背負わされているのは「トラウマ」。あるいは生来の(inherited)「弱点」。完璧さをその一点のみ欠いている、人間らしさの表現として描かれるのがふつう。ダークナイト、スーパーマンなどなど。
 インディアナ・ジョーンズのとってつけたような「蛇嫌い」のトラウマなんてのもありましたね。

2013年5月27日 (月)

貴方たち殿方って いざという時に だらしないのよね。

 プレイ途上のゲームについてとやかくいうのはやめていたのですが、「真・女神転生IV」については、「新作」でもあるので、なんか書きたくなりますね。これは意外と珍しいことです。どうやら自分なりの「縛り」があったようです。

1.批評に値するのか。

 まず物語自体に「批評性」(とりあえず定義もせずにぶち込みます)がないものは実際何を書いてもしょうがない。ファンブログになる。ファンブログそのものに問題など全然ないけど、私のような者がそれをはじめると際限なく続くし、自分で書いていて面白くない。

(批評性については、「ぎりぎり削ぎ落とせば『定型性に対する倦厭』のこと」であるという内田樹氏の考えなどが参考になる。もちろん何かを書く際に定型から逃れることなど、はなからできない。内田氏によれば「定型から逃げ出そうとすれば、シュールレアリスト的饒舌かランボー的沈黙のどちらかを選ぶしかないと、モーリス・ブランショは言っている。私も同意見である」とのことで、私がこの場末ブログでやっているささやかな抵抗ですら「饒舌」か「沈黙」のどちらかでしかない。上の引用文の正しさを自ら見事に証明してしまっているわけですが、あまりに「沈黙」過剰なのもどうなのかなと思ったりしたわけで)

2.お前はなにを今更言っているのだ。

 アトラス系の「P4G」や「デビルサマナー・ソウルハッカーズ」などは、基本過去作のリメイクですから、(自分がプレイするのは初めてでも)何を書いても「今更かよ」感が漂うわけです。またどうしてもオリジナルが制作された時代(背景)と昨今、とりわけ2011年以降の時代(背景)との「ギャップ」にばかり目が行ってしまうこともあります。

 例えば以前も触れたペルソナ4の「テレビ=お茶の間という幻想」、「昭和=美化されたありもしなかった過去」、あるいはデビルサマナー2の「パブリック・ヴァーチャル・ネットワーク」と「ハッカーズ」。作り手が意図的かどうか別にして最初のリリースから時代が移り変わると「賞味期限切れ」の内容になりかねないテーマ群。一方で時代の変遷とともに脹(ふく)よかな香りと芳醇な味わいが醸成される(されたように見える)こともあるにはある。
 逆にDQシリーズのリメイクなどは「時代性すら埒外として無視」している点に対してこちらのお相伴する愛想もあらかた尽きている。

 これも仕方のない話で、「物語要素」が薄いほど、その裏返しで「様式美」が強く感じられるほど、ヴィデオゲームは共時性を喪い、通時性を獲得して「古典」になりうる資格を得るから。
 RPGというジャンルから「物語要素」を削ぎ落とせば残るのは「様式美」だけになる。幾多の名作はそうだったわけで、Wizardryライクなダンジョン・クロウラー、Diabloクローンが量産されたのも、オリジナル作品がそれ自体で原型の「様式美」を確立してしまっていたから。

 スペース・インヴェーダー・ライクやスーマリ・ライク、FPSなどの大量生産を見ればわかるようにこの話はまったくRPGに限らない。なぜなら物語要素を削ぎ落とされたRPGはもうRPGとしての大部分を喪っているので他のジャンルの作品と変わらない、というか劣化した他ジャンル作品と同列になるから。

 マンネリズム(mannerism)とは、元々芸術表現などの「様式」のこと。あまたの作品が「クローンだ」、「マンネリだ」と批判されるのは、表現方法の様式がオリジナル(や模倣した作品)と共通していて(クローンと呼ばれる場合「酷似」していて)新味に乏しいということ。

(物語(芸術)一般については、「通時性」を獲得するためにはそれぞれの作品が生み出された時代固有の「物語要素」、ディテールが必要であるという逆説的仮説があることも紹介しておきます。この仮説が正しいのであればヴィデオゲームは未だ「芸術」の域には到達していないことになるのですが)

3.レヴューはプレイし終わってからしてください。

 自分で買ってもいない、目にもしていないゲームのレヴューの意義は(ファンボーイのヘイトを含め)よくわからないが、とりあえず最後までプレイしていないもの、トロフィーを全部集めていないものに対するレヴューが「いけない」理由ってのも見当たらない。「即売り」した人にはそうする理由があった(そうしない理由が不在だった)わけで、それもひとつのフィードバックでしょうし。

 ましてや、プレイ時間ミニマム60時間、本当にクリアするには200時間超を要する昨今のCRPGで、一体誰が「最後までプレイできるのか」という問題もある。レヴューが(PSNの場合なら)プラチナ・トロフィーを獲得した者だけに偏っていいわけないし、プラチナ・プレイヤー層は何を意味している(代表している)かっていう問題もある。

(なのに某所レヴューではいちいち「自分プラチナです」と断っている者がいる。それってファシズム、自主的な言語統制の世界に陥っているってことを自覚していないのかどうなのか。「私には発言する権利がある」と主張する人は、無言でそう主張している私も当然含め、「お前には発言権はない」という機会を虎視眈々と狙っているのだ)

 むしろ私がプレイ途上のゲームについて批評することを避けていた理由は、物語中心で見ていく場合、いくら途中で「マンネリ」とか「手なり」とか批判していても、それ自体が「メタ的に」伏線だったり仕掛けだったり、罠だったりするわけで、何の準備もなく手ぶらで(しかもひとりで)バビルの塔に乗り込むのは大変危険であるから。まんまと落とし穴に落ちたことを自分で告白・表明するのは「喜劇」になりうるけど、他人から指摘されるのは「悲劇」だ。んー、「悲喜劇」か。
 
 つまり「批評性がある」、「古典作品群に名を連ねそうな」、「自分が十分プレイし終わった」作品しかレヴューしてはいけない、みたいな「縛り」が自分にはあったようだ。
 簡単な話です。文芸批評ってそういうものだと思っていたから(実際には読みもしない書籍についての書評が横行しているそうだが)、それと類比的に扱っていただけ。意味するのはそのくらい古臭い人間であるというだけ。

 最初の二つは英語ゲームサイトで頻出するような賛辞、”Outstanding Creativity!”(傑出した創造性・新規性)、”Instant Classic!”(発表即古典の名に値する)、二つ合わせて”Extravagantly Awesome!”(途方もなくスゴイ)に対応していて、三つ目はレヴュアー・サイドが資格を有していることを示す(プラチナ・トロフィーはその一例)。英語ゲームサイトの「賛辞」こそマンネリズムの極致なんですけどね。

 もちろん商業ゲームサイトのレヴューには、そのゲームに「批評性がない」こと(何かのクローンである、または前作そのままのいわゆる「続編」であること)、「古典的名作と呼べそうもない」こと(凡庸であること)、それから稀な例として「熟練したゲーマーがプレイしてもクリアすることが不可能である」こと(正真正銘のクソゲーであること)などを示さなければならないからそんな「縛り」はありません。制作サイドが意図したようにプレイスルーすることくらいが最低限の縛りでしょう。

 「真・女神転生IV」は今のところ三つの要素のどれもありそうにない。ゲームプレイも世界観も同シリーズが築きあげてきた「様式美」を踏襲していて、逆に言えばメガテンの「お約束」そのもの。オリジナル「女神転生」がすでにアイデアの原型をほとんど持ち込んでいて「古典的名作」の地位を占めているから、シリーズ続編がそう呼ばれることは稀有、そして十分にプレイするプレイヤーはハッキリ言って20%以下?

 私自身は意地でも一度はクリアするつもりですが、ゲーム冒頭からすでに二回はクリアしなければならなそうな展開があることが暗示されているというか、ここまでギラギラしていると「明示」されていると言って問題ないのかもしれない。下手すると三回(敢えて言うなら四回)かも。何の外部情報も仕入れていないで書いているので、ここですでに制作サイドのトラップに引っかかっているかもしれないですけどね。

 それなのになぜか、何か書きたくなってしまう。待ちかねている洋ゲーの情報が皆無なのでブログ中毒の禁断症状が出ていることとは別に。

 理由がふたつくらい思いつく。まず一つ目を書きます。

 以下、序盤あたりのネタバレを含みます。私は今、猪瀬直樹さんが「かつていらっしゃった」ところあたりにいます。

 また、すでに物語を一通り堪能されたお友達からコメントいただくのは大変ありがたいですが、少ないとはいえこの場末ブログにも読者がおられるので、「真相」を書くのであればほんのり仄めかすような素敵な書き方をお願いしたいと思います。
 
1.キャラクターが魅力的だから?(でもないけど気になることが)

 主人公まわりの同僚たちは皆ステロタイプに見せていて、キャラクター造形自体に目新しいものはなく、基本紙芝居。セリフまわしもふつうで声優の力量に頼る世界。キャラクター造形は「普通」です。

 問題はキャラクターの体現する(BioWareのいうところの)「ベース」。物語のテーマを具現化した立場・役割。今回はここが面白そうです。何か書きたくなった理由のひとつ目である。

 主人公の同期生たちは下のような構成になっている(以下、ラグジュ=ラグジャリーズ、カジュ=カジュアリティーズ)。
 前に「ギラギラ」にてかっていると書いたように、モラル・チョイスを体現していることがハッキリしている(ベタにそう見える)キャラクターがふたりいる。

(1)ラグジュ 男、秩序(現体制を支持しているという意味)
(2)カジュ 男、混沌(現体制に疑問ありという意味)
(3)ラグジュ、女、中立(現体制への意見をなんら表明していないという意味)
(4)ラグジュ、男、秩序(旧守、既存権益を支持という意味) 
(5)カジュ、男、(未定)=主人公

 このうち(4)が早々に姿を消す。ある意味(1)とかぶっちゃってるからね。
 普通に考えればラグジュとカジュの間の確執をなぞる(強調する)役割だけ付与されていると考えられますが、またどこかで出るだろうけど(笑)。

 それから冒頭で消えてしまう主人公同郷の者。

(6)カジュ、男、不明?

 この男も早々に退場して以下略。

 とりあえず話を簡単にするため性別を除外してみる。なぜか都合の良いことに女性であるラグジュは「中立」であるので、それもまとめて話から除外できる(注)。

(注)ラグジュの女性だけが、現体制支持・不支持を表明していない(中立である)。中立的なのは紅一点の彼女だけであるというところが盛んに気になりますし、現時点での自分なりの推理は後述しますが、単にタツノコ・プロ的メンバー構成(男性4、女性1など)をリファーしているだけかもしれない。

 2×2のマトリックスなのに、次の組み合わせを体現するキャラクターが抜けている。

(7)カジュ、(男/女)、秩序 
(8)ラグジュ、(男/女)、混沌

 ラグジュとカジュとの間には身分的差別・格差がある。その根本的意味(発生原因)は「伝統・慣習」以外(まだ)示されない。国造りを成したアキュラと血縁などで近しい出自の者たちが発祥なのか、何らかのテクノロジーを占有していた特権集団だったのか、富の蓄積に起因するのか、単に神話世界を後づけで真似たのか、何らかの理由で階級を必要としたため闇雲に選ばれたのか、それらの組み合わせなのか本当のところはわからないので概念説明に躊躇するが、自然に「貴族」と「庶民」としてみましょう。「サムライ」はその階級から隔絶した職能としての武士、ただし私兵ではない公的な位置づけの北面武士などをリファーしていると考えられる。

(なぜ「サムライ」という職能があるのに、居城は西洋中世風の城塞都市なのか。これについても推理はあるのですが、脇道にそれそうなので次回にでも)

 いずれにしろ体制転覆もの、格差・差別打破ものの物語であれば(今回も少なくとも表面上きっとそうなんだけど)、(7)と(8)、どちらもベタに登場しそうなキャラクターである。

(7)は庶民で現体制を支持している者。

 冒頭脱落するカジュの男性は「サムライ」に選ばれることだけが生きがいであったので(7)と言えなくもないし、主人公が体制を支持すればみずから(7)になる。
 というか、大多数の庶民は、無知なるが故にという意味も含めて(7)である。

(8)は貴族の身でありながら現体制不支持な者。

 田中さん(少佐!)のような声優をわざわざ二役で使いまわしていることからみて、少なくとも彼女が声を当てているあの女性キャラクターは(8)に見えるように(メタ的に)画策しているようだ。罠の香りもしないでもないが。
 それとは独立して、主人公同期で中立の女性も実は(8)ではないかという推理ができる。
ただしラグジュで女性のキャラクターが皆「混沌」ってのはどうなんだという気もしますが・・・。

 ちなみにこの記事の表題は主人公同期女性のとある場面でのご発言。

 「野郎はいざというときクソの役にもたたない」という私のテーゼにも通じるし、なんか好きですねえ(笑)。

 (1)と(2)を体現している男性たちの主張はあまりに露骨である。この二人はモラル的にはきっと最後まで固定でしょう。彼らの意見が対立するときは必ず主人公がコメントを求められる(モラル・チョイスを迫られる)。選択肢には「中立的立場」があったりなかったりするが、隠し要素として変数がストックされて後から重大局面で用いられるのは間違いなさそう。

 悲しいことに、そう気が付いたときには時すでに遅し。最初の頃は結構気分だけで適当に選んじゃったんだよね・・・。二周する元気があるかどうかわからないのに「秩序」寄りになっちゃってるはずだ。
 選び方によって「ボスキャラがまるで異なる」程度で済むならいいけど、進路も分岐しちゃうとか勘弁してほしい。でもきっとそんな感じかな。

2.やっぱり見たいのは「今の」東京でしょう。

 不覚にも、作中で「スカイ」と言われるまでスカイツリー(作中では面倒くさい大人の事情があったのかどうかわからないが「スカイタワー」と呼称)であることがわからなかったという超ぼんやりプレイ。ボーンヘッド過ぎます。
 だって冒頭シーンがいきなり新宿東口からはじまったから、今回も山手線の西側が舞台かなと先入観を持ってしまったのだ。
 むしろ、今いる場所の設定がスカイツリーであるとわかったとき、「うわっ、(新宿まで)遠いじゃん!」と本当に口に出してしまった。

 観光などまったく趣味じゃないインドア派の私ですが、自分でも驚くことにひょんなキッカケから随分早い時期にスカイツリーに登っていました。平日夜間の閉館(というのかどうか)間際で空いていたのですが、とにかく眼下に見下ろす河川(隅田川、荒川)に掛かる橋梁群の夜景は圧巻ですね。登るならぜひ天気の良い日の夕刻から夜にかけてをお勧め。絶景です。

 東京は(江戸は)ロンドンはじめとした世界の大都市の御多分に漏れず、大海運都市だったんですよね。ドブ川汚臭防止、首都高建設などのためだいぶ暗渠にしちゃったせいでそうは思えなくなってしまってますけど。東京はそのせいで色々なものを喪っちゃったんですね。

 日本では海洋に関する物語も決定的に少ないと思うのだけど(海洋国家なんかじゃない説)、東京や大阪他の大都市の河川を舞台にした物語も本当に少ないのではないでしょうか。ハリウッド映画と比べればわかるのですが、橋梁ものもとても少ない。「レインボーブリッジがどうしたこうした」が流行ったように、意外に面白いからやれば受けるんですけどね。両津巡査長を除けば、あと特筆すべきは押井さんたちくらい(ベイブリッジ)ですが、あの人たちはなんでもすぐ壊そうとするからな。

 んー、「アースダイバー」の劣化版みたいな話になってしまっているかな。

 スカイツリー訪問時の話に戻ると、地上に降りてから連れと一緒に飯を食べようとして、ソラマチなる界隈を(入口でもらった非常にわかりにくいマップを参照しながら、まさにメガテンのダンジョン的なノリで)死ぬほど歩いた。まあオープンから大して日もたっていないので、どこも物見遊山(お前が言うな)の客で満員、入れません。付近の浅草あたりも夜は早めに閉まってしまうことは知っていたし、それ以外に土地勘がさほどあるわけでもない。なんとかわかる上野あたり目指して歩こうかと思ったが、これが意外と遠いことに気が付いた。その頃には小雨までパラついてきたので面倒になってタクシーに乗って仲町あたりまで直行してしまった。

 プレイしながら、そんなことを思い出していたわけで(笑)。

 ゲーム中の主要な橋梁は一部を除いてことごとく破壊され、落とされている。外敵から守りやすくする常套手段ってことなんでしょうけど、ゲームプレイが無闇に拡散しないような要請でもあるわけだ。

 上野から(ゲーム内で(笑))歩けるだろうと少し期待していた秋葉原はグラウンドゼロ化していることにされている。開発負荷上の問題なのか、あるいはここも後から独立したDLCで一儲けしようと企んでいるのかしらないけど。
 
 「今の」東京を表すアイコン、ランドマークはスカイツリー以外に見あたらなかったのでしょうかね。プレイ中も自分の不十分な知識を総動員して考えてましたが、どうなんだろう。登場するランドマークはいずれも前から存在するものばかり。東京もまた都市として成熟しきってしまってるってことか。

 まあ、きっとこれが何か書きたくなった二つ目の理由。もちろん現地を知らない人にとっては、そういったランドマークも地名もただの「記号」でしかないのかもしれない。

 三つめの理由があるとしたら、キャラクターたちの「書籍」に関する発言が気になること。これについてはプレイがまだそこまで行き着いていない。なんで書店が池袋の「ジュンク堂」(こらこら)にしか残っていないのだ、新宿の紀伊国屋はどうしたとかつっこみたくなるが、新宿界隈は作中であんなことになってるので無理という設定でしょう。

 それから「サムライ」と「中世西洋風城塞」の混在もそこらへんに鍵があるのかな、と勝手に推理している。
 
 そんなこんなで、変な楽しみ方をしています。

(おまけ)

 真・女神転生IVの初すれ違いで、ソウルハッカーズも設定しているといきなり嬉しいボーナスがいただけました! これ一回限り? 一回限りかなあ。だよなあ。都会に住んでいると圧倒的に有利なんてしないよなあ。

(みたらソウルハッカーズのすれ違いの件数が最近ではあり得ない多さになっている・・・)

2013年5月25日 (土)

バロウズ?

 ウィリアム・バロウズ? (William Seward Burroughs II)

 む、そんなこと書いているのは私だけか? あ、真・女神転生IVのお話です。

 「妖精」って意味もなんかよくわかんないが(実際はVI、ヴァーチャル・インテリジェンスですよね)、ガントレットのナヴィゲーターの名称がバロウズ。
 (声優:甲斐田裕子さん。DDにもマデリン役で出てらっしゃる。これがついにDD日本語吹き替え版を聴くきっかけになりそうだ)。

 バロウズかあ。どう考えてもウィリアム・バロウズをリファーしてるような。だとしたらすごいところから持ってきているなあ・・・。それがどんな連想でどう繋がるのか(それこそバロウズの作品のように)よくわかんないけど。よくわかんないからもってきたのでしょうか。

 スティーヴンは、スティーヴン・ホーキング博士。過去作にも彼をリファーするキャラクターが登場していたと記憶しています。そののりだとウィリアム・バロウズもありっちゃありか。

 それから作中では「純文学」なんて今更誰も口にしないような言葉を無造作に会話の中に放り込んでくるのでますます真意がわからない。オシャレだと思ってやってる程度なのか、なんかの伏線なのか?

 巷の評判はともかく(もともと気にしていない)、このゲーム個人的にはなかなかいけてると思います。冒頭、新宿東口のシーンも、あいかわらずジョージが舞台として登場するのも、シリーズ原点から貫くイメージを頑なに保持する気かなと感動してましたね。私自身、このシリーズは二作目までしか知らないし、派生物はリリースの時期からみてほとんどプレイしていないはずですが。

 ここにも「今日的な」格差の問題を持ち込んでるのだろうけど、モラル・チョイスの仕掛けが物語冒頭さっそくわかってしまうってのは、ちょっとあけっぴろげすぎかもしれない。いつもどおりのJRPGなら物語展開はそのままベタになるのだろうなあ、そうなったらつまらないなあと心配。そんな一ひねりだけじゃなく多段ひねりがあるんだろうと期待してますが。

 御多分にもれず、オープニング画面から追加コンテンツ(有料)のボタンがいきなり出てきてしまう。アトラスもDLC商売か、とは思いましたけどね。悩むの面倒くさいから付き合っちゃいましたが。たかだか数百円だし。
 難易度高い、つうかボサボサしてると皆すぐ死ぬから、経験値稼ぎのDLC売りますってことなんでしょうが、そういうのどうなんだろう・・・。今もこれ書きながら迂闊にもポーズ忘れてエンカウントして死にそうになってるし(後からわかったことには、二回全滅すると難易度低下を選べるみたいだ。のんきにプレイしてたらそんなの一瞬で選べるようになると思う)。

 みんな難易度高くないと売れないとか思ってるんだろうかね。あまりやりすぎると結局レベル上げの修行ゲームと敵の弱点探してピンポイント攻撃ゲームになってしまうし、現にこのゲームもそうなりそうなんだけど。

 まだ開始早々、訓練を終えて、ジョージに連れてこられて一本道ストーリーに乗せられている段階です。 「すれちがい」はまだチャンスがない。

 今までになく、かなり悪辣な悪魔どもと交渉させられて、まじめにキレそうになる(笑)。会話で悪魔たちがやらかしてくれる「揚げ足取り」のたちの悪さも芸術的な域に突入しているのか。

 逆に合体なんかは相当親切すぎる設計で、私みたいに良く考えず手なりでやってしまう人間には楽ちんです。一方、「おすすめ合体」などは結局安易な合体ルートしか選べないのではないかとちょっと心配にもなる。

 ヴィジュアルは個人的には文句なし。タツノコ・プロ的バタ臭い絵柄はもともと好きだし、ほとんどの女性がカンペキ美女というタツノコ路線とは違って「言うほどあんまし可愛くない女性キャラクター」という路線も気持ちはよくわかる。
 「サムライの話」なのになぜ西洋のお城なんだとか、いちいち突っ込むのは疲れるからやめる。

 総体として問題なく遊べるし、「ベタなんだろうな」と思いつつも物語の進行にも興味はそそられる。ですが、ちょっと心配なこと。

 ハンドヘルド機に限ったことなのかどうか、JRPGはキャラクター静止画(パターン数枚)の紙芝居と声優各位の個人的努力に頼り切って物語を進める世界が完全に「定番」になってきちゃいましたね。それもひとつのあり方でしょうけど、一番コストを抑制できる部分(紙芝居と声優)にクリエイティヴィティを押し付けてるみたいな形になってないのかな。

 メガテンの悪魔たちにアニメーションでメチャクチャ動かれてもそれはそれでやっぱ違うと思うが、アトラスに限らずどこのものでも一緒で、造作がマンネリした時代がかなり続いてる気がする。

2013年5月23日 (木)

かあさん、あのゲームなんでしたっけ?

  Microsoft、いい加減に諦めてWindows 8にスタートボタン復活させろよ!

 「ごめんなさい、一度に一つのことしかできません」って、ふつう一度に一つのことしかしませんから!

 (こんな、iPadにケンカ売ってる暇あるなら・・・)
 http://www.youtube.com/watch?feature=player_embedded&v=86JMcy5OqZA

 この、狙った画面にはその後永久に到達できなくなるというWindows 8の遷移ラビリンスどうにかして。さっきのイーカプコンのページはどこいったのよ? 

 Amazonのアカウントのページか。配達済み? あー、なんだよ、発売前からプラットフォーム問題で局地戦が始まっている「女神転生IV」が届いたかと思ったら、開けたら「銀魂すごろく」だったよ、っていつ買ったの? 銀ちゃんのいつ買ったの? なんで買ったの? っていやー、全然覚えてないんだけど、Amazonの買い物かごワンクリックで誤爆った? いやあんな阿漕な商法、ワンクリックは意地でも設定しておりませんぜ、姐さん。

 おおっと今度は遠坂ルートのネタバレ攻略法が。なぜか(この年になって五月病でもないが)体調があまりに悪くて、今週はじめ仕事を(さぼり)お休みして寝ていたのですが、ずっと寝ているのもなんなので、差しさわりないようにFate/Stay Nightをまず一周クリア(って差しさわりあるだろうが!)して、お目当ての二周目を堪能していた。でも映画観ちゃったんだよなあ。映画の遠坂さんのイメージがあまりに強すぎ(絶対領域)て、というよりもなによりも映画は題名からして彼女のお話だし、ってもうこのゲームの話題なんてどう考えてもあらゆる旬を外しているから恥ずかしくてできないけど、でも久々にVitaを長時間触りました。発熱してネットワーク機能を自動遮断するまで触りました(それは途中で寝落ちしてたってことですぜ、旦那)。

 Javaのアップデート毎回うるさい! 

 あっ、「iTunesのアップデートが再起動を要求しています」を押しちゃったぜ。もうSonyのスマホ買ったのでそっちはあまり使っていないのだが・・・。再起動中、しばらく思考も停止。
 たしかにWindows 8の立ち上がりは早いっちゃ早い。ロートルマシンで液晶はタッチパネルでもなんでもないから特にアップデートした意味はないのだが。

 Webページを復元します。うそ、Metroの新作は評判いいのか。GameSpotのケヴィンが9.0って太鼓判だ。ちなみにケヴィンがゲームの評価を間違えたのは過去に一回だけだそうだ。あれのことかな? でも自分もうそういうゲームに手を出しませんけどね。積んでおくゲームばかり増えていくから。

 なかなかカプコンの画面に戻らないのはなぜだ、Windows 7は楽だったなあ、っていうかWebサイトじゃなかった、メールだったのか。

 あった、あった。いや、これってなんだよ、ダンジョンズ&ドラゴンズのゲームって?

 ミスタラ英雄戦記?

http://www.e-capcom.com/DandD/

 きいてないっすねえ。

 あ、画像見てわかった。アーケードのあれか。タワー・オブ・ドゥームとシャドウ・オーバー・ザ・ミスタラ(という名前は今知りました)って、若い人は知る由もないのか。 一作目は1994年リリース(二作目は1996年かな)。セガサターンのお友達は、同機に移植されたそうだから知ってるかも。

 当時あまりお目にかかれなかった協力ゲーム。Co-op、コーオプ。友達少ない私などは勝手に乱入できるはずもなく、一緒にいたダチとふたりでちょっと触って満足した程度、というか当時はすでにそこまでアーケードにはまっていなかったです。同年のアーケード作品リストを眺めても、デイトナUSA。リッジレ―サー2。パロディウス。スター・ウォーズ・アーケード(これプレイしてたら結構貴重ですよね)。なんか一般市民でも知ってるようなものしか記憶にありません。

 プロモーション映像を見る限り、DnDのずーっと初期の時代のルール準拠。先に記事にした古のDnDの時代、魔法使いがまだ「マジックユーザー」で、ローグがまだ「シーフ」だった頃の世界ですね。ファイター、クレリックときていきなりドワーフ、エルフと、クラスと「種属」(DnDの日本語版のお作法では種族ではなくこっちの造語を使うそうだが)が同列って変じゃん!と思うでしょうが、そんなもんだったのよう。ヒューマンとそれ以外の種属では全然違うルールだったの。

 この時代よりちょっと後に違いないと思うのですが、似たようなファンタジー・コンバットもので筐体を4台(8台もあったのかどうか定かではない)並べてローカル通信で協力プレイできるものがあった。名前からなにからすっかり忘れているが、レーシング・ゲームもほぼどこにいっても筐体を何台か並べて通信プレイという時代の代物。そしてそこそこ面白かった(というか、プレイ画面がど派手で楽しかった)。

 スターウォーズでいえば、ファントム・メナスのベン・ハー戦車戦ライクなポッドレースのゲーム(そいつも通信仕様)が出回っていたと思う。ありました、その名もベタにSTAR WARS RACERで、やっぱりセガ。2000年の代物だ。
 つうことは、2000年前後のアーケード筐体間ローカル通信ゲームであることは間違いないんだが・・・。

 おまえの時代尺度はスターウォーズかあっ!

 ファイナル・ファンタジーを用いるよかマシじゃん?  

 でも当時はローカル通信なんてもはや「ふつうです」みたいな時代だった。アーケード専業メーカーがのきなみ潰れていった(吸収されていった)時代でもあった。トレーディング・カードゲームが勃興してきたあたりかな。SEGAですら、DC撤退が2001年あたりで、やっぱり起死回生はトレーディング・カードゲーム繋がりのアーケードであった(そうです。その頃あたしゃもうアーケードにほとんど入りびたってなかったから)。

 という時代の背景もあって、検索してもなかなかつもりません。こんなの調べてたらまた体の具合悪くなりそう、というか途中で出てくるレトロゲームの説明読んで、画像眺めているだけで日が暮れる・・・。いや日付が変わる、か。 

2013年5月17日 (金)

ハン・ソロ

 不覚にも、このネタちょっと受けてしまいました。

 ”ハリソン・フォードがトークショーの観客として来た「チューバッカ」にブチ切れ”

 http://topics.jp.msn.com/video/general/article.aspx?articleid=1839582

 YouTubeもリンクがあって、ご丁寧にざらっと日本語訳もされている。
 思わず噴き出したときに、回りに人がいるといけないので、ご注意ください(笑)。

 あちらでは、Star Wars 7に彼が出演するのかどうかって盛り上がっているんですねえ。同作の監督にすでに指名されているJ.J.エイブラムス監督がリメイクした"Star Trek"(2009)には、旧TVシリーズ・映画版に出演したニモイ氏(ミスター・スポック)が同役で登場したから、期待も大きいのでしょう。

 ルーク、レイア、ハン・ソロが再登場すると、ルーカスが勝手に口走ったという説もあるそうです。

 うちルークとレイアが登場するというのは、どうやら確定情報扱いのようなのですが、マーク・ハミル氏はともかく、問題はキャリー・フィッシャーさんのほう・・・。いいえ、なにも申し上げません。ぜひ、いい感じで復帰していただきたいと思います。メイ・ザ・フォース(略

 

 

 

2013年5月16日 (木)

Strength in numbers, Arisen.

 DDDA、さすがに飽きてきました(笑)。
 以下、DD、DDDAに関するぼんやりとしたネタバレが何か所か含まれます。

 DD本編との通算プレイ時間はだいたい200時間くらい。アリズンのレヴェル130前後。依然として一部の新モブの姿を見かけたら当該エリアからダッシュで撤退する方針。
 とはいえ無闇に戦っちゃう仲間のポーンがあっさり斃れたりするので、いちいち戻って、駆け寄って介抱しながらのリトリート。それもリアルで意外と好きなんだけど、毎回繰り返してるとポーンのAI(のなさぶり)に脱力したりもします。

 一周目もマンチ・マッチョぶりがすさまじいと思っていたが、二周目こそがスーパー・ウーバー・ナイトメアリッシュリー・インセインリー・マンチ。
 一周目でようやく新モブをひととおり一匹づつルーチンで倒すことができるようになったのに、二周目ではいきなり数匹まとめてご来店だ。(すでにバトルエリア目いっぱいに登場してきやがるから)まさか三周目でさらに増えることはないと思いますが、奴らやたらと動き回るのでエリアが狭く感じます(笑)。

 あるいは、新モブ二種類以上が同時ご来店の場合、無力化攻撃と必殺の一撃など組みあわせによってはデッドリー・コンビネーション。一種類づつ隔離するのもかなり億劫で、ここも組み合わせを見てダッシュで駆け抜けたりしている(途中で斃れたポーンを介抱しながら(笑))。
 同じモブが同じ数でご来店の場合でも二周目ではスタッツがかなりブーストされているのが手に取るようにわかる。

 ただし、スタッツがブーストされているとは言っても翼竜シリーズは一匹様ご来店の場合が多いので、格下モブ(でもかなり強いけど)がわらわら出てくるよりだいぶ楽な気がする。それは最近自分のアリズンを(一対一の勝負が中心となる)ミスティック・ナイトかアサシンでしかやってないからかもしれません。
 翼竜シリーズとの戦いには楽しみがある。DD本編より判定が相当甘くなったのではないかと思えるくらい、武装のミューテーションが立て続けにもらえるので、翼竜がご来店すると「待ってました、いらっしゃいませ!」って感じです(二匹様、三匹様同時ご来店の場合は遠慮申し上げています)。

 まだドラゴン・アイコンを貰えていない(ミューテーションしていない)装備をちゃんと身に着けているかどうか、事前に欠かさず服装チェックしてから斃すことにしています。マイポーンにまで行きわたるくらいドラゴン・アイコンのついた装備がザクザク増えてとても楽しい。素材集めが結構大変なわりには性能アップがイマイチなのは言わないでおきます。

 とりあえずのラスボス(そう信じているのですが)も、二周目では別モブのようになりやがるので攻略はまだ先になりそう。とはいえダメモトで何度か挑戦してみると、弓矢装備必須みたいな感じになってる気がする。本当だとしたら(さほど弓ファンではない私にとって)それは少し悲しいのだが、そうも言っていられない。

 マンチ=端的にパワー(攻撃力)だけが意味をもつということなので、アリズンにあらゆる攻撃力スタッツ(通常strengthベース)ブースト関係のアーギュメント(技量)をつけた前提で、ありったけのドーピング資材をかき集めてさらにブーストするか、パワーがマックスアウトするレヴェル200を目指すか、それすべてをやるか、無駄なストレスなくプレイし続けるにはどれかの方法しかなさげ。こういうことをやることが、すなわちマンチ。
 リザレクションのあれ(竜の鼓動でしたっけ?)は100個くらいあるから、ゾンビアタックを繰り返す手があるかもしれないが、それってあまりに無理やりですよね・・・。ちょっと攻略とは呼べない気がする。

 DD本編をクリアすると、DDDAの進行状態もチャラにされる(一周目の状態、スペックに戻る)らしい。ポーン・コミュニティなどの情報では、知らずにそれをやってしまった人が結構いるそうだ(私自身も本編クリアに二周目リーチかかってるので、たまたま逃れただけ)。彫像集めなどのクエストではインヴェントリーに変化がないのに現地にアイテムが再配置されるので、その方が有利だそうだが。
 つまり(今そんな言葉で形容しようとしている自分のことが信じられませんが)DD本編をクリアするとDDDAも元どおり「温く(ぬるく)」なる。
 逆にそうしたくなる誘惑に耐えている(笑)。そっちでレヴェルアップしているほうがずっと早道かなあ、とか。

 DDDA日本語吹き替え版は試そうともしていません。
 DA2の日本語版で感じたのですが、ふつうのセリフは吹き替えの出来がいいとしても、いわゆるバトルクライとか、移動・戦闘中のコンパニオンやポーンの些細なセリフとか、同じセリフの日本語録音を繰り返して何百回も聞かされているとそのうち飽き飽きしてイヤになってくる。
 ネイティヴではないので英語で同じことをされてもそこまでイヤな気分にならない。おそらく「雑音」の一種として処理してるんでしょう。
 
 DD、DDDAでは表題の” Strength in numbers, Arisen.”をもう何百回聞いたことか。日本語字幕はあまり覚えていないので正確じゃないかもしれないが「力を合わせた結果です」だっけ?
 ガイジンのフォーラムやブログなどでは”Wolves hunt in packs!”(「オオカミは群れで襲います!」かな?)がいたるところでネタにされていました。もうええちゅうねん。見たらわかるっちゅうねん。というかそれ以前に常識じゃないんだっけ?

 ところが、中には「オオカミは本当に群れで狩りをするのか?」という素朴な疑問を提示している人もいる。
 そう端的に問われると、意外と心配になりますね。

 調べると、狼は大型の獲物を狩るときに群れ(パック)を編成するそうだ。いわゆる「ウルフパック」(群狼)。先の大戦中、大西洋の輸送船団を襲撃する際にドイツUボート戦隊が活用した複数潜水艦による同時集団攻撃法のことを群狼戦術(独語Wolfsrudeltaktik)と呼び、米英海軍などはウルフパック(wolf pack)と呼ぶ。
 「はぐれ狼」、「一匹狼」、「ローンウルフ」(lone wolf)というくらいだから、群れからはぐれた(序列から追放された)狼は単体でも生きていけるくらい狩りの能力がある。つまり単独でも、群れとしてでも狩りをする。

 「送り狼」(女性を自宅まで送って隙あらばオオカミに豹変・・・、「狼変」する男性という意味ではない)も本当にあって、獲物が疲弊してしまって逃げたり反撃したりする体力が衰えるまで長時間延々と追跡する。これも単独でもやるし、群れでやることもある。

(もう日本にオオカミは生息していない、北海道含めて絶滅して(人為淘汰されて)しまったと思っていたのですが、実は今ではイヌはオオカミの亜種という説が主流なんだそうだ。それに従えばオオカミは家畜化されて生き残ったことになる)

 その他ポーンのセリフで良く耳に残っているのは、“What else would you expect, with my help?“「私がいるのだから当然の結果です」みたいなセリフ。勝って当たり前って意味。これは「自信家」のトーンでしたかね。(確認→「私あっての成果でしたね」)

 世の中には暇人(好事家)がいて、DDのポーンのトーン(言葉の調子)別のセリフをリスト化してくれている。ただし英文。
 残念ながら環境依存でポーン個別の知識ベースに基づいて喋るセリフ(上の「狼は・・・」など)は含まれていない。

http://dragonsdogma.wikia.com/wiki/Knowledge_Chair

 私が日本語字幕を正確に覚えていない(どころか書いてみたらほとんど覚えていない)のが難ですが、最近DDDAでボス級のモブに痛めつけられているときよく耳にするのは次あたり。どっちも「普通」(Ordinary)の調子(トーン)なので使うポーン一番多いからかな。

“No! They hold the advantage!”
「敵が圧倒的に有利です!」かなあ。
 確認→「まずい、劣勢です!」でした。

“'Tis a troubling foe!”
「厄介な敵です!」でよかったかなあ。
 確認→「こいつは厄介です!」でした。

 実は”Strength in numbers, Arisen.”も「普通」トーンのセリフなんですね。だからあんなに何度も耳にするのか。

 それから、十字キーでコマンドを出すと「そんなにすぐにはできません!」ってのがたまぁにあったような気がする。
 これが見つからないなあ。どれかなあ。

"There is no need to be so reckless, Master..."
 これは「無茶すべきじゃないですよ、マスター」ですね。違うかな。

“Hold on, I'll be there shortly!”

 これの訳だったら、いい訳だなあ。普通は「お待ちください、すぐ行きます!」とやりがちですが、ニュアンスはむしろ「うるさいね、今忙しいの!」ですからね。
ガイジンの店員を呼んで”I’ll be with you!”「今行くから!」と言われたらしばらく来ないと思った方がいいし。全然来ないかもしれないし。

 ま、これを確認することを口実にしてDDDAをしばらく続けるようにしよう。

(確認→)違いました。何かの理由で本当にコマンドを実行できないとき、"I can't follow your order right now!"みたいなことを言ってますね。上のテーブルにあるセリフではないようです。

2013年5月15日 (水)

DnD Movie

 最初から期待していない自分がいますが。

 http://www.ign.com/articles/2013/05/15/hasbro-sues-over-warners-dungeons-and-dragons-movie

 記事によれば、TRPG、Dungeons and Dragons (DnD)のオーナーであるハスブロが、DnD映画製作から手を引くようにワーナーを訴えているそうな。

 すなわち両社とも似たようなDnD映画の企画を有していて、映画化権に関してもめている。ハスブロ側は監督・脚本に"Fast and Furious"シリーズ(三作目のTokyo Drift(2006)以降全部)や"Wanted"(2008)などの映画の脚本を手掛けてきたクリス・モーガン(Chris Morgan)をあてていて、ワーナー側は"Red Riding Hood "(2011)や"Wrath of the Titan"(2012)の脚本を担当したデヴィッド・レスリー・ジョンソン(aka. デヴィッド・ジョンソン)を起用しているそうな。

 まあ、上述の映画作品リストで、気持ちが燃えるかというと、どうなんでしょうか。いいところで「そこそこ」、「まあまあ」な作品群かな。

 二人のメジャー作品の脚本デヴュー作はそれぞれ"Cellilar"(2004)と"Orphan"(2009)というスリラーで、その二作品はレヴェルが高いのですが。競争が激烈な映画ライターの世界で、名の通った脚本家のデヴュー作の評判が悪いってことはあり得ないわけで(その瞬間にハリウッドから消えているのがふつう)。

  デヴィッド・ジョンソンの企画は、先のRPG原型の記事でも触れたDnD創案者のゲイリー・ガイギャクスが私家版として改良したボードゲーム"Chainmail"を題名としていて、プロデューサーは映画"Dungeons and Dragons"(2000)の監督であったコートニー・ソロモン。

 その映画(邦題は「ダンジョン&ドラゴン」と見事に複数形が落ちている)は日本での劇場公開がなかったが日本のテレビで何度となく放映されていたので、あるいはご存じかもしれない。簡単にいうと見事な駄作。ところがソロモンさんは懲りずに(あるいはハスブロおよびその子会社でDnD販売元ウィザーズ・オヴ・ザ・コーストとの契約に縛られていたせいか)二作目"Dungeons & Dragons: Wrath of the Dragon God"(2005、邦題は「ダンジョン&ドラゴン2」)のプロデューサーも手掛けていて、こちらは、んー、前作よりはましって程度? いずれにしろ二作品とも、よっぽど暇な方以外にはお勧めしません。

 ワーナーはさらにその続編となる映画化権も保持していると主張しているが、ハスブロとウィザーズ側は「そんなに長いこと放置したんだから、契約に照らしても権利失効してるでしょ」と反論。

 ハスブロ(創始者がハッセンフェルド兄弟)とワーナー・ブロズ(同じくワーナー兄弟)との戦い。果たしてワーナーはセーヴィング・スローに成功するのか?

 どうでもいいっかなあ。

 DnDおよび類似した(主としてドラゴンの登場する)ファンタジー映画群に関しては、どうしてそんなにつまらなく作れるのか、真剣に聴いてみたい気がしますね。

 まあ、ハリポタ最終章なんて全然良いほうですから例外もあるのですが。 

(おまけ)

 私は見た記憶がないが、アメリカでは1980年代に同ゲームをベースにしたお子ちゃま向けアニメ・シリーズがあった。ガイギャクス本人も製作陣に名を連ねていて(脚本などには参加していない)、これは結構評判が良かったみたい。
 imdbでざっくり配役をみると、レンジャー、キャヴァリエ、シーフ、マジシャン、アクロバット、バーバリアン、そしてダンジョンマスター。6人パーティーでオーソドックスな編成がよいんでしょうか。

 上述の映画版一作目では、シーフ(ローグ)ふたりが主人公(どちらかというと狂言回しか)で、後は誰いたっけ?って感じで、二作目のほうは今度はやたら魔法使いが出てきて、やっぱパーティー編成偏ってませんかね、って感じ。

 ああ、そういえばジョージ・ルーカスが脚本を書いた"Willow"(1988、邦題「ウィロー」)もありました。剣士役のヴァル・キルマーがやたらかっこいいのはよかったけど(そしてヒロイン役の共演者とリアルで結婚した。別れたけど)、後、主人公ウィロー(ドワーフ農夫・魔法使い)以外誰がいて何が起きたかあんましよく覚えていないです。ウィロー役の彼はハリポタでもドワーフ(じゃないや、ゴブリン)役でしたね。

 (ファンタジー・シリーズのない)ルーカスは、ゼッタイにシリーズ化を目指したはずだと思うのだけど、興行的にあまり成功しなかったせいでぽしゃったんでしょうかね。

ガラパゴ脱出。

 ガラパゴ脱出。やむにやまれず。

 長年使っていたドコモのケータイ(フューチャー・フォン(笑))を、なぜかその日に限ってあわてて取り出そうとして見事にファンブル!
 結構な放物線を描いてコンクリートの地面にガチャン。
 ああ、これは逝ったな。見てみるとやっぱ液晶が死んでいる。パカっと開く蝶番部分に無残な傷が。液晶の基板が死んだかな。
 ボタンを押す音などは正常だったので、しばらく本体側は作動していたし、電源も生きていたのだが、ドコモショップに持ち込んだときには電源までご臨終。
 本体はもうどうでもいいのだけど、電話帳だけなんとか回収したい。バックアップ取っていなかったことを悔やんでも遅い。誰が登録されているかも全部は思い出せない。

 それから、メチャクチャ安くていいんだけど、ガラパゴの新品が欲しい。
 正真正銘、一時しのぎ用でいいので、電話とメールができるだけのバニラでOK。
 電話番号とメアドは変えないでほしい。相手から送ってくるものまで受け取れなくなるし。完全ブラックアウトはさすがに怖い。というか引き続きキャリアーをドコモにした理由の半分はそれ。

 ところが、ドコモショップのおねえさんはいきなりスマホのカタログを出してくる。「いやガラケーでいいんですけど」と「ITリテラシーなにそれ?おじさん」のふりをして押し戻し、ドコモショップ在庫のガラパゴ新品(今やモデルは各メイク1種類しかないのだ)とカタログ外の型落ちモデルを出してもらいましたが、いずれもありえないほどの高価格。
 どうしてもガラパゴ買わざるを得ない人しか買わない時代になったから、高く値付けする撤退戦略ですか。

 うーん。世の中じゃゼロ円で売ってなかったか?(いや、それにはカラクリがあるでしょ)
 外で新機種買ったりした日には、よしんば後日電話帳が回収できたとしても、「よそ様でお買い上げになった機種への移行は自己責任で」とかなんとか難癖付けてくることはこの世の必定。

 しょうがないから、さっき押し戻したカタログをもう一度見せてもらい、(全く買う気のないものを仕方なく買う気持ちってわかります?)なんだか似たり寄ったりのスマホがいっぱい並んでいるけど、その中から名前だけは知っているエクスペリア?

 これはいくらなんでしょうと聞いたら、最新モデルはiPhoneあたりと戦うつもり満々のお値段。つまりパソコンが買えるんじゃないかというくらい、ふつうに高いですよね。
 じゃあ、このシリーズの型落ちは? そっちは先ほどの新型に比べて「ほんまですか」というくらい低価格。スマホはすごい勢いで在庫処分価格になるのですね。
 でかいし、重いし、ださいけど、いいやそれで。ひととおり色々ついてるぽいし。
 
 その後、電話帳回収依頼の「お断り注意書き」全20項目くらいを店員のおねえさんが全文読み上げるのをずーっと聞かされ続け・・・、ようやく解放されたら、今度は新しいスマホのご購入コーナーへ行けとのご指示。
 そちらのカウンターには別なおねえさんがいて、さっき告げられた機種本体のお値段は実はキャンペーン割引価格であることを申し渡される。彼女が取り出した販促用のリーフレットには(個人的に一生必要としないと自信をもって断言できる)ドコモとタイアップしている各種月額課金サービスが載っており、最低ひとつ加入するのが割引の前提条件だそうだ。

 すみませんが、「お断り」とか全文読み上げる暇があったら、そっちを先に告げるべきじゃないのか?
 必要ないものを買って、さらに必要ないサービスにまで入る気はありません。割引がなくなる分だけ本体お高くなりますって店員がしつこく言ってくるけど、電話でしか解約できないというし、うっかり課金停止忘れたらそんな割引金額なんてすぐ超えてしまいます。

 正直に言えばNOTTVにはそそられたが、リーフレットには×印がつけられていてキャンペーン対象から消されていた。ドコモなど頼らずとも人気が出たのか、一か月無料キャンペーンがたちいかないほど傾いているのか、わかりませんけどね。

(判明いたしました。実はエクスペリアの新作がまさに今週末発売開始。NOTTVはようやくその機種から利用可能となる。×印はだからエクスペリア旧機種では利用できないサービスという意味であった。
 なお、その今週末発売機種の予想販売価格は、私が買ったもののなんと5台分・・・。おいおい。スマホになんつうお金かけてるのだ日本人は!)

 電話利用料は今後2年間ドコモを使い続けることを宣言するとお安くなるのだそうですが、ノー・サンクス。電話番号・メアドが変わらないという理由と、電話帳復元が他では面倒そうだからやむなくキャリアーを変えなかっただけなので、ゆっくり考え直したらやっぱiPhoneに寝返るかもしれないし(ないだろうけど)、今後2年どころか1年も付き合わないかもしれない。

 衝撃のラストは、パケット通信価格形態。これを知って愕然としました・・・。BioWareの”Choices that matter”問題ではないが、「お客様の利用形態にあわせて選べます」と言いながら選ぶ意味のほとんどない(と店員のおねえさんさえ認める)選択肢がいくつか並ぶ。普通に考えて事実上定額課金しか選べません・・・。
 ううう。どうせほとんど使ってないで無駄になっているVitaのドコモ課金(プリペイド)の契約更新を停止することでチャラにするしかないのだな。

 修理依頼含めて新機種(でも型落ち)の支払完了まで、なんだかんだでちょうど一時間かかりました。
 ほとほと疲れ果てたので、いい加減に帰らしてほしい。「もう何もないですよね?」

「お買い求めいただいた新機種なんですけど・・・」
と店員のおねえさん。
「在庫のまま置いておいたのでバッテリーが切れてしまってまして、先ほどから充電してるんですが、まだ3%・・・」

 自分で自分が苦笑いしていることをハッキリ自覚した人生でも稀なケースでした。
 「一時間後くらいに戻ってくりゃあいいですかねえ?」

 サテンで本読みながら時間をつぶして一時間後に再来店し、ようやく新機種をゲットした。
 いきなり画面ロックの解除法がわからずもたつき、店員のあんちゃんに聴くはめに。KindleやiPodと同じ仕組みだが、こする向きが逆だった(笑)。カンペキにITリテラシーのないおっさんと思われました。

 余計な出費やら「選択する意味のない選択肢」などの阿漕な商売やら、充電待ちまで強いられるやら、散々な一日だったなあ。
 ドコモショップを出た途端、新スマホ(型落ち)にメールが届いたというチャイムが鳴り、立て続けに電話着信コールが大音量で鳴り出しました。音量コントロールもわからず、どこをどうすれば受信できるのかわかるまでもたついたので、わりと長時間恥ずかしい思いをした。

 結局その電話でお酒の付き合いに呼び出され、そそくさと夜の街に消えていきましたとさ。

(追加)型落ちなのに、なんだかメールに手書きで入力できる機能がついているので、今更ながら感動してしまっています。
 少なくとも一か所はいいところ見つけた。 

 それから自宅以外から記事やコメントが投稿可能になった、ようやく。

2013年5月12日 (日)

セックスと(嘘と?)ヴィデオゲーム(4)

 なんとか今回で終わりまでいきそうです。

 今回面倒だったのは"tropes"ですね。意味がわかっているのに日本語にするのが大変なとき、誰に頼まれてやってるわけじゃない翻訳なんてやめたくなりますね。

 tropeは元々「言葉のあや・比喩」"a word or expression used in a figurative sense"のことを言っていたのですが、今では「あまりに濫用された陳腐なテーマ・プロットなど」"a common or overused theme or device"を指す悪口です。クリシェイ(cliché)に近い。例えば「いつも変わらないハリウッドのゾンビ・ホラー映画のお約束プロット」を叩くときなどに使います。
 ゲイダーさんのお話の文脈では、例えばマッチョ・ファイターの物語に登場する女性像ですね。奴隷の身分から解放されたばかりで、ほとんと何も纏わずに巨漢男性に片腕で抱えられている巨乳美女。  

 私の語彙では「おざなりな・・・」、「ぞんざいな・・・」という、粗製濫造なニュアンスを出してみました。

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29.ファンはどうか? ファンは恵まれた立場にあるのか?

 アンダースについて話をしよう。Dragon Age 2に登場する男性ロマンス候補の一人だが、最初に彼といちゃつこうとしなかった男性プレイヤーに対してでも、自分の嗜好を告白するのは彼だけだ。断ることもできるし、その場合はそこでこの話はおしまいになる。

 一部のファンはこれが本当に気に入らなかった。それを押すことによってゲーム内のホモセクシャリティに曝露されずに済むような「ゲイ無効ボタン」なる仕掛けを要求する者もいたし、ストレートな男性ゲーマーを自ら勝手に代表して、女性やゲイへの気配りが過剰過ぎて、自分たちへのまっとうな扱いが不足しているという自分ひとりの意見を主張する者もいた。「フォーラムにコメントをポストする際にいちいちストレート・メイル・ゲーマーなんて言葉を使わないといけないこと自体がバカバカしい。かつてはファンと呼んでいれば済んだんだ」と。

 Dragon Age 2のロマンスの目的はそれぞれのタイプのファンに平等な量のコンテンツを提供することだ。自分が男性か女性か、ストレートかゲイかに係らず。先のストレート・メイル・ゲーマーの怒りを呼んだのは、自分がまっとうに相手されていないと感じたから。つまり自然の理からして平等などではなく、バランスを欠いているから。彼は平等など求めていなかった。彼にとって平等とは、彼がより少ない選択肢しか手にできないことではなく(選択肢の数は皆一緒だ)、より少ない注意しか払ってもらえないことを意味する。彼は多数派に属しており、そのことにふさわしい扱いを要求していたのだ。他のいろいろな事と同様の扱いだ。

30.すべての「ストレート・メイル・ゲーマー」たちが、そのひとりのファンと同様なことを感じているのだろうか?

 そんなはずがないことは、フォーラムに訪れる多くの男性ポスターたちの意見からも明らかだ。しかし、もし先のひとりのファンが我々のファン層の中で完全に孤立しているアウトライヤー(異常ケース)だと思う人がいるのであれば、最近の世間に疎いのではないかと言わざるを得ない。

 写真の彼女がアニータ・サーキージアンである。彼女はポップ・カルチャーのぞんざいな女性描写・表現(tropes in the depiction of women in popular culture)に関するブログ、「フェミニスト・フリクエンシー」(Feminist Frequency)の著者である。彼女がヴィデオゲームのおざなり女性描写についてのシリーズを始めるにあたりキックスターターで資金を募集したところ、男性ゲーマーからの悪質な誹謗キャンペーンの対象となってしまった。

 なぜか? なぜなら彼女こそ、その男性たちにとって自分たちがゲーム観客層に占める恵まれた居場所(coveted place)を奪おうとする者に見えたからだ。もちろん、彼らが依然としてトーテムポールの一番上の位置を占めていることに変わりはないが、彼らが自分の人格の根幹をなしているとみなしている領域に関する「独占的占有権」(sole proprietorship )を手放す必要に迫られるかもしれないという考えから、彼女の取り組みを自分たちへの攻撃とみなしたのだ。

 そして業界は、こうしたファンによる事細かな批判的吟味(scrutiny)を、他の誰から浴びせられるものよりも恐れる。ファンが一番うるさく、あらゆるフォーラムやメタクリティク・レヴューに時間をかけて書き込む。彼らを激昂させてしまったら、次は自分が標的になるのだ。

 だが我々業界人こそ、そういうムードを醸成してきたのではないか? 我々がやってきて、認めてきて、現に推奨してきたこと。ただたんにこうなったわけじゃない。我々に責任があるんだ。

31.さて、ここまで話をしてきた私は、実際のところ業界に何を提言しようとしているのか?

32.(様々な人種、性別の組み合わせのカップルたちがいちゃついている"Call of Duty"のパロディ・パッケージの画像)こういうものを提案するわけじゃない。

 すべてのゲームが、注意深く構築された性、人種、性的趣向に関する寄せ集め文芸作品になれと言っているのではない。ゲームを作るに際して、誰も頭に来るようなことがないように気を付けるのが、我々にとって何をおいても優先順位第一位であるなんていったら、ばかげている。

 我々の優先順位第一位は、製品を出荷すること、ますます多くの開発会社の経営が、いくらかでも成功した製品を出荷することなどの以前に行き詰っている厳しい経済状況の中で、まず生き残ること。それができなければ優先順位第二位も、三位もないんだが・・・、なにも優先順位のリストを丸ごと捨ててしまえと言っているわけではない。

 どこかの時点で、我々のゲームが観客層の異なる部分にどう伝わっているかについて、もしかしたらその一部を排除しているかもしれないという懸念をもって、熟慮するべきなんだと思う。ひとつのゲームが万人にすべての事柄を提供することは不可能である一方、物語をありふれた模倣物にすることなく、観客層の誰一人の心も傷つけずに済ませるということもほとんど不可能であるが、最低でも、本来はお金を出してゲームを買ってくれそうなある種類のプレイヤーのことを、招かれざる客であるとして積極的に排除していないかどうか考え直してみるべきであろう。

 自分が問いかけようとしているのが、自分が興味を有していたりいなかったりする他の一部の観客層だけではないことを銘記して欲しい。すべての観客層に問いかけ、彼らの態度に影響を与えることで、彼らの態度が他のすべての人々の態度を変えることになるのだ。

33.自分のゲームのパッケージ表紙に女性主人公を入れたくない、あるいはゲームそのものに女性主人公を入れたくないとしよう。誰もそんなことを強要しない。だが少なくともゲーム内の他のキャラクターが何を発言するかについては考慮してはどうか。

 ゲーム内のあるキャラクターを女性、黒人、あるいはゲイに置き換えることができるだろうか?と自問してみてはどうか。

 もし成立しないと思うなら、それはなぜか? もし成立するというなら、どうしてサイドラインの外に追放しているのか? 彼らはその凄惨な死にざまが男性主人公の不安を増長させるためだけに存在しているのか? 男性ファンがゲームの女性キャラクターをみて「魅力的」と思うと同時に、女性ファンが見て「彼女はすごい」と思うだろうか、それとも女性キャラクターは男性ファンのためだけに配置したことが明らかになっているか? 複数のマイノリティ・キャラクターが登場するなら、彼らの間の描写の仕方がバランスを保っているかどうか確認し、もしそうなっていなければ、自分のゲームをプレイする観客層が一体だれであるかどうやって伝えるつもりなのか再考してみたらどうか?

34.これらの質問に答えられないのであれば、関連する集団を探して彼女ら彼らに問いかけてみればいい。たとえ自分でわかっているつもりでいても、これらの答えを最初から知っているなんてことがあるはずはない。

35.そして守秘義務かなにかのせいでチーム以外の者と話をすることができないのであれば、チームに異なる視点を持ち込むことを考えたらどうか。もしすでにチームにそういう人物が属しているなら、その意見を聴いてみたらどうだ。

 私は幸運なことに、その多数が女性のライター・チームとともに働いている。自分のブログに最近ストーリー・レヴュー会議に関する記事を載せたのだがが、その反響は大きかった。

 そのレヴューでは、チームの男性がたまたま先に発表する順番だった。我々はフィードバックを返し、問題点を指摘し・・・、だがある女性が最初に持ち出すまで、ある論点を指摘した者は誰もいなかった。それはセックスに関する場面で、おっかなく、かつ堕落的な内容だったが、彼女はまったく違う観点から見ていた。同意の上の行為であるから、それはレイプではなかったのだが、その場にいないキャラクターへの暴行・侵害(violation)が含まれるのであるならそれはレイプ同様である(残念ながらここで詳細を論じることができないが、物語の文脈上は成立していた)。彼女はそこを気にしていた。彼女はその話がおっかないけどいかしているものとは思わず、おっかなく、かつ不愉快に感じたのだ。そして程度の差はあれども女性は皆彼女に同意した。

 だから我々はストーリーを変更した。誰の心も傷つけたくないからではなく、観客層のある大きな塊に属する者たちの注意が誤解によって削がれてしまうのであれば、彼女たちに「話全体が通じなくなってしまう」からだ。我々は変更し、誰にとってもおっかないけどいけてる話に手直しした。

 だがもし、チームの女性が彼女しかいなかったらどうだろう? 彼女の懸念のことを過敏な反応だと受け流してしまっていなかっただろうか? もし女性が誰もいなかったらどうだろう? コンテンツはゲームにそのまま含まれてしまい、我々は、良かれと思って作った物語の意図が、多くの人々から完全に誤解されてしまった状況に直面してたじろいでしまっていたことだろう。

 チームに多くの視点を有しておいて、彼らのフィードバックを聴くことは、現実のツール、自分の利益として利用できるものだ。

 この講演を終えるにあたって、私はたぶんこのトピックをしゃべる最適の人物ではないだろうと付け加えておく。もっと長い間、もっと雄弁に語ってきている者たちもいるし、そういう人たちにとっては、私の議論の視点についても、私がまるで問題を発見した人物だということを仄めかしているように感じることについても、非常に不愉快に感じているかもしれない

 だがそれこそ真実からもっとも懸け離れた見方だ。これらは私が自分の仕事を進めるにあたって、現に直面してきた問題であり、いくばくか自分でこれまで克服してきたものだ。人々は業界内部の人間である私の意見を聴きたがっているようだったし、私も喜んでお話したし、特にこれが業界内部での対話に結びつくようなことになるとさらに喜ばしいと思う。この業界にはその手の対話が必要なんだ。

36. 長時間にわたってご清聴ありがとう。ここのコンタクト先情報についていえば、私はレスポンスすることまでは約束できないが、何かフィードバックがあって、直接私に会って話せないのであれば、ぜひお願いしたい。

セックスと(嘘と?)ヴィデオゲーム(3)

 前回からの続きです。

 ここでは、後半あたりに登場する"privilege"の取扱いにちょっと苦労しました。普通なら「特権」でしょうが、ここではずばり「白人、男性、ヘテロセクシャル層」(ホワイト・メイル・ストレート)が差別に無関心でいられる特権のことを言っています。ただし「特権」というと何かその根拠となる法や価値体系や何かの枠組みがあるように感じられるうえに、特権を有している者たちはそれを自覚的に行使しているようなイメージが強い(特権階級、外交官特権など)。

 ここで論じられるのは「特権的な立場にあることに気が付かないでいられる特権的な立場」のこと。「恵まれた立場」としてみました。

**********

21.BioWareだけは他よりましだと主張しているかのようにとられることがないように、それはないと言っておく。

 例えば(パワーポイント画像の)左はDragon Age 2に登場する私が手掛けたイザベラだが、実際のところ素晴らしい女性キャラクターである。女性の自立(empowerment)や自尊心(self-esteem)について伝えるべきものを十分に有しており、その見かけもキャラクターに似合っていて、他の女性キャラクターと明確な対比になっているということもできるだろう。実際のところ、右の画像のミランダやその他あまりに性的特徴を強調しすぎていると批判される女性キャラクターに関して、それ自体なぜ悪いことなのかと議論を吹っ掛けることはできるし、さらには男性こそが、それらキャラクターが訴求対象と意図した集団であって、それ以外はまったく意に介してないのだと主張することもできる。
 だが、それが論点じゃない。

22.言いたいことは、かつてはありのままで許容されていた事柄について、この業界が次第に事細かな批判的吟味(scrutiny)に曝されてきているということである。

 ヴィデオゲームはティーネイジの男の子たちのためだけの領域ではなくなった。いまや巨大産業であり、あらゆる年代、性別、性的嗜好を有する者たちに遊ばれている。映画やテレビ番組と同様に大衆文化の中心的存在に含まれるようになり、今までにないくらい数多くの人々が我々の一挙一動を観察しているのだ。

23.問題はこうだ。我々はゲームを真面目に受け取ってほしい。

 マチュアなテーマのマチュアなタイトルを作りたい、どんな映画でもそうであるように、ゲームの扱う領域をリアルな暴力表現や性描写以外にも広げたい。ヴィデオゲームに「芸術」と見なされる資格があるかどうかという議論も実際に行われている。だが一方で真面目に受け取られたいと言っていながら、同時に我々が作っているのは「単なるゲーム」であり、そんなに真面目に受け取るべきではないと仄めかすことができるだろうか? ケーキを食べてしまって、同時に取っておくことなんてできるはずがない。

24.ではなぜ、ゲーム業界はこの点についてもっと真剣に取り組まないのか?

25.もっともありふれた答え。「売れるから」

 私が先に触れた、まだ手つかずの市場の潜在力については忘れてほしい。業界にとって手つかずの市場など存在せず、すべての市場はすでに手を付けられている。業界の伝統的な知恵(伝統知)として、ゲームを売るためには現に試された間違いのない方法がすでにある。もちろんそれらは保守的な方法だが、必要なものである。まだはっきりわかっていないリスクを取れば、たとえその意図がまともなものであったとしてもゲームは失敗する。

26.業界の伝統知は正しいのだろうか?

 女性主人公についてみてみよう。業界の伝統知は、女性主人公のゲームは売れないとしている。でもそんなゲームはみな失敗したのだろうか? そしてもしそうなら、それは主人公が女性だったことだけが理由なのだろうか? そしてそれだけ少数のタイトルの業績からパターンを結論付けることなど可能なのだろうか? または、その反対の場合が許容できるだろうか。男性主人公のゲームが売れるのは、主人公が男性だからという理由だけでそうなのだろうか? 男性主人公なのに売れなかったゲームはどうなのだ? 主人公性別以外のどんな理由があったのだ?

 業界の伝統知というものは、このように奇妙なものである。ゲーム・タイトルの成否、どのジャンルがもう死んだか、ゲームにはどんな制約があるかなどの理由としてひねり出されたこれらの事柄について、皆がそうだ、そうに違いないと口々に断言する。誰か他の者が現れて、そんな伝統知は間違っていると、無視できない論証を行うまでそれは続く。

27.つまり業界の伝統知は、我々の先入観を補強する説明の形でひねり出される。

 そしてそこには恵まれた立場(privilege、特権)の問題が関与する。人々は自分が恵まれた立場にあることを持ち出されると守りに入る。なぜなら人種差別主義者、性差別主義者、同性愛蔑視者というレッテルを張られてしまうと恐れるからだ。恵まれた立場はそういうものではない。恵まれた立場にあることとは、ある事柄を、自分にとって問題ではないという理由によって問題と見なさないことだ。もし自分がきちんと相手をされている集団に属しているなら、その扱いが普通のことであると考える。いままでもずっとそうだったし、どうしてそれが誰かの問題になどなるのだ?
 
 しばし空想にふけってみる。想像してみてほしい。ゲームが作られてこの方、すべての主人公が黒人であった。英雄も、なにかの美徳を具現化した者はすべて黒人だ。善なる白人キャラクターは極めて稀で、ほとんどは未成年か「チームの一員の白人」だ。白人女性? まるで目にしたこともない。何年もの間、そうなっていたとする。

 ばかばかしい? もちろん。自分が白人であるとして、どうしてそんな状況が可能となる文脈を想像することができるのだ。我々は我々の世界観がほとんど排他的に支持されている社会に生きており、他の状況を想像するなど奇怪なことだ。もしあなたの反応が逆に「それは素晴らしい」というものであれば、そうした立場に置かれている者に聞いてみればいい。「素晴らしくない」というだろう。そういう立場にあることを認識し、それによって自分の判断がどう影響を受けるか理解している限り、恵まれた立場にあることそのものは必ずしも悪いことではない。

28.我々の業界には恵まれた立場があるのか?

 大多数の開発者は白人、男性、ストレートだ。業界に恵まれた立場が存在するかどうか知りたければ、ツイッターで#1reasonwhyのハッシュタグを見てみるといい。そこには業界の女性開発者が直面した、今も依然として直面している性差別について詳述されている。さて、恵まれた立場にあるものは性差別主義者ではないと言ったし、それは正しいのだが、だが恵まれた立場にいると、#1reasonwhyが実際には何も問題提起していないという発想に導いていく。あるいは仮に問題があるとしても、大した影響を及ぼすようなことにはならないと考える。

(続く)

セックスと(嘘と?)ヴィデオゲーム(2)

 前回書いたように、ゲイダーさんがGDCにおける講演で用いたパワーポイント資料のメモの部分を訳していきます。資料自体はTumblr記事のリンク先から入手できる。直接のリンクは下。

http://www.gdcvault.com/play/1018204/Sex-in-Video

 ヴィデオゲームにおける性表現(Sex in Videogames)
 
1.講演題自体が少し誤解を招きそうだ。セックスについての講演じゃない、ゲーム業界がセックスについてどう取り扱ってきたか、性差別と性描写(sexism and sexuality)についての話だ。

2.そんな話をしようとする私は一体何者なのか? 私の名前はデヴィッド・ゲイダー、14年間BioWareでライターをやってきた。今はDragon Ageシリーズのリード・ライターを務めている。

 BioWareに勤め始めた頃、会社はBaldur’s Gate IIを開発中だった。その作品で我々はゲームにロマンスを持ち込もうとしていた。ロマンスを手掛けてみたいという人たちだけに向けた、少数の選抜されたキャラクターとのロマンス・プロット一揃い。

 新しい試みであった。1999年当時、ロマンスを持ち込むゲームはすでにあったが、我々が作ったような複雑でコンテンツ・ドリヴンな代物はなかったと思う。まさかそれがファンの間で人気になるとは思っていなかった。

3.Baldur’s Gate IIの4つのロマンスのうち、自分はアノメン、ヴィコニア、エイリー分を担当して書いた。ロマンスには人気があることが証明され、多くのファンからは称賛の声があがったが、アノメンの受け止められ方には興味をそそられた。

 4人のうち、女性向けロマンス候補は1名(アノメン)だけなのに対して、男性向けは3名もいたので、不公平であるという指摘があった。男性プレイヤーだけにどうして選択の余地があるのか? その頃、ファン層に占める女性の割合は大変小さかったと考えられていたので、我々は妥当な判断を下したと思っていた。アノメンは、女性ファンのみならず、女性キャラクターを演じる男性ファンのためでもあった。まさかこれが公平性の問題と受け止められるとは思ってもいなかったのだ。

4.私は次にNeverwinter Nightsを手掛けた。前作とはいささか異なり、ロマンスはパーティー・メンバーとの間で育まれるものではなかったが、ここでも(女性プレイヤー向けロマンス候補であった)アーリン・ジェンドへの反応に驚かされたことが私にとって一番の収穫であった。ファンの反応はネガティヴなものではなかったが、ポジティヴでもなかった。

 ロマンス・コンテンツが我々のファンベースを見事に直撃したことは間違いないが、私はもっと良いものにしたかった。だから私は、女性ファンが多く集う「ネヴァーウインターの淑女たち」というウェブページに出向き、こういう質問をしてみた。「ロマンス相手の男性には何を求めるか? 何を避けたいか?」 彼女たちの答えは括目すべきもので、女性ファンの関心について私が抱いていたいくつかの先入観が誤りであったことを示してくれた。

5.だから次の作品であるKnights of the Old Republicにそこで得たフォードバックを持ち込むことにした。カース・オナシはこのフィードバックを念頭に置いて創出した。私が観客を意識して書いたはじめての男性ロマンス相手だと思うが、反応は極めてポジティヴなものであった。ファンはバスティラ(女性キャラクター)もカースもこよなく可愛がってくれ、それによってBioWareがファン層の中に自ら拠って立つことのできる新しいニッチを創りだしたことも明らかになった。

6.Dragon Age: Originsでは、私はリード・ライターとして初めてゲーム全体のライティングを統括することになった。ここにもロマンス・コンテンツが持ち込まれ、4つのうち3つは私が書いた。だがまた我々は変化も持ち込んだ。ゼヴランを含む二人は同性どうしのロマンス対象になることができるようにした。
 
 これはBioWareにとって初の試みではない。Jade Empireですでに試されている。それ以前であれば、Knights of the Old Republicのジュハニもその世界に近い。ジュハニについては、我々は(同性愛の部分を)敢えて薄っすらと感じられる程度に抑えておくつもりだった。誰かの指図でそうしたのではなく、そうでないと単に成立しないと思っていたからだ。Jade Empireでは大きな賭けをうったことになるのだが・・・、反応はほとんどポジティヴなものであった。だから、我々は、Dragon Ageに持ち込まない理由はないよね?と考えた。

 BioWareがセックスに関する話題を持ち出すとき、ゲーム・コンテンツに何が含まれていて何が含まれていないかによって、我々は事実上何がノーマルで許容できるかを規定していることになる。我々の想定している観客は誰であるか規定していることになる。それが故に我々の判断は正しいと思っていたし、Dragon Age: Originsは大きな成功を収めたゲームとなった。同性愛コンテンツが我々にとって何かの妨げになったことはとりあえずない。

7.Dragon Age 2では、さらに歩を進めることにした。同性愛が可能なロマンス相手を2人だけでなく、4人全員とした。

 なぜか? ここでも答えは、「なぜそうしないのか?」だ。膨大なコンテンツを追加する必要もなくできるのだから、誰がロマンス相手かによらず皆に同じ選択肢を与えるべきではないのか? 我々がやりすぎたのかどうかの判断は、誰に意見を求めるかによる。すべてのファンが喜んでいるわけではなく、一回めのプレイスルーではゲイだったのに、二回目ではストレートであることを納得できない者たちにとっては特にそうだった。だがこのことも含め、ロマンス全般については総体として好意的に受け入れられた。(異性愛と同性愛が両立できること(inclusivity)により)我々の観客の一部として平等に配慮されていることに感謝しているファンも大勢いたので、何年も昔ではない時代の雰囲気が今とはまるで違っていたことを思い出すことさえ難しい。

8.だから何だというのか?

 私は自社のゲームのためいくつかのロマンスを書いてきたし、そのいくつかは異性愛・同性愛が両立するものだった。それとこの講演と何か関係があるのか?

 関係はあるのだが、それは議論の進む方向による。

9.BioWareはセックスを持ち込んだ。

 Mass Effect以来、露骨さの度合いこそ違えども我々のどのゲームにもセックス描写が持ち込まれているし、私が述べたようにこの話題の提示の仕方について多くの問題を投げかけてきた。
 
10.そしてもうBioWareだけではない。

 ゲーム業界各社は、今やセックス描写が可能な技術的能力を有しているだけではなく、すでに多くのタイトルに自由奔放に取り込み始めている。

11.何が問題なんだ? みんなセックスが好きなんだろう。

 だから何が問題なんだ? セックスは売れる。みんなセックスが好きなんだろう。

12.ヴィデオゲームにセックスを持ち込むことを皆が好んでいるわけではない。これは非常に厄介な(touchy)話題だ。

 BioWareの立場からのみ述べるとしても、ネガティヴな反応もポジティヴな反応も同じようにあったし、いくつかは公共のメディアで議論となった。

 どうしてそんなことになるのだろう?

13.まあ、それに答えるためには、一般公衆が我々の観客層が誰であるとみなしているかについてまず理解する必要がある。

 ゲームをよく遊ぶ者や業界の者にとっては非常に奇異に感じられるかもしれないが、一般公衆の多くは、ヴィデオゲームは子供が遊んでいると思っているのだ。

14.また業界自体も観客をどうみなしているか理解しておく必要がある。

 ほとんどの場合、ゲーム業界の人間は主たる観客層を18歳から25歳の若い男性だと考えている。ゲームによっては、さらに若いティーネージャーまで含むかもしれないが、家族向けタイトル以外で子供が対象になるものはない。

15.では実態はどうであろう?

 Entertainment Software Associationが毎年実施している調査がある。このデーターは2013年のものだが、ゲーマーの平均年齢は30歳だ。2011年の調査では、ゲーマーの29%が50歳以上であった。

16.次もまたこの調査から見つかった面白い話のひとつだ。

 女性がゲーマーの47%を占める。ほとんど半数だ。二年前にはその比率はまだ40%であった。

 気に掛けておかなければならないことは、この数字はすべてのタイプのゲームを総合したものであり、オンライン・ソーシャルやMMOも含まれているということだ。実際、それらのタイプのゲームで遊ぶ回答者が全体の半数を占めており、この調査はゲーム・タイプやデモグラフィックでデーターを分解していないし、性別や人種(エスニシティ)も分類していない。

 だからこの情報だけではコンピューター/コンソール・ゲームの特定市場を表現することはできないと主張する者もいるだろう。とはいえ、彼ら彼女らがこの世の中でゲーマーを自任している観客層であることに間違いはないし、実際にはこれだけ多様で幅広いはずの(ゲーマーという)集団が、非常に狭い範囲の層としかみなされていない事実には興味深いものがある。この調査を無視するのは自由だが、どこのオンライン・ゲーム・フォーラムを覗いてみても、観客層は10年前と様変わりしていることがわかるだろう。女性ゲーマーやマイノリティの人口は記録的な数字となっており、今までにないほど存在感を増しているのだ。

17.この情報に対する典型的反応。

 「なに、彼女たちも我々のゲームをすでに遊んでいるって? そいつはいい! 知らんうちに正しいことをやっちゃってたみたいだね」

18.そんなに素晴らしいわけじゃない。

 ゲーム開発コストは時代とともに指数関数的に増大してきている。開発チームのサイズは大型化しているが、ゲームの販売価格があがっているわけではないので、収支トントンにするために必要な販売数量ですら、すでに百万本単位となっている。
 BioWareの名を世に知らしめたBaldur’s Gate 2の販売数量は、今日の平均的な年であれば、話題にすらならない水準かもしれない。

 AAAタイトルの開発に携わっている者であれば、四六時中こんな話を耳にするだろう。「大きな市場に訴求する必要がある。可能な限り大きな売り上げを達成するためには、カジュアルな観客層をターゲットにする必要がある」

19.だが、我々は本当にカジュアルの観客層全部を相手にしているのだろうか?

 それとも依然として、主に18歳から25歳の年齢層にのみ売り込んでいるのだろうか? どこの会社も同じパイの一切れを奪い合っているだけではないのか? 自分がそのデモグラフィックの範疇にいるのであれば、遊びに誘うため皆が自分の家のドアをノックしてくれるから、それは大変素晴らしいことには違いないだろうが、他の人たちはどうなのだ? 彼らだって我々のゲームを遊んでいる、多かれ少なかれ遊んでくれていることはわかっているが、誰も彼らに遊んでくれるように頼んでなどいないのだ。それどころか彼らは、自分がそのゲームが狙う観客層でないことが完璧に明らかな場合ですら、遊んでいるのだ。

 だが、彼らに対してこちらから遊んでくれるようにお願いしたらどうなのだろう? たくさんのゲーマーが自分たちに訴求してくれるようなゲームが出ることを心待ちにしているような、手つかずの市場なるものは存在するのだろうか? すべてのゲームの観客層の半分が女性とマイノリティであるなら、我々は彼女たち彼らに通常どれだけ訴求しているのだろうか、あるいは最低でも、彼女たち彼らの興味を明らかに無視するようなことをしていないと言えるのだろうか?

20.多くの場合? 出来はよろしくない。
 
 私はときどきこんな風に考える。(パワーポイントで表示している)こうした画像イメージがとてもセクシーであり、セクシーなことは誰にでも訴求すると我々は自分に言い聞かせているだけではないのかと。だがセックス(性別)とセクシャライズド(性別特徴づけ)との間には違いがあり、どちらの性別がより特徴づけられているかを見定めるのは難しいことではなく、故に、それを誰に訴求しようとしているかも明白なのである。

(続く)

セックスと(嘘と?)ヴィデオゲーム

 ゲイダーさんは恒例のニュー・オリンズでのヴァカンスを含むサバティカル休暇、プラスe-break(ネットワークに積極的にアクセスしない期間)中だったそうで、ブログの更新もしばらくありませんでした。自分もブログを書く暇がほとんどなかった時期は、ネット情報にアクセスする気もまったく起きませんでしたので、e-breakを気取ればよかった(いや追い詰められてやむなくそうなるのとは違うし)。

http://dgaider.tumblr.com/post/49463438023/gdc-sex-in-videogames

 その間、彼がほとんど唯一ネット情報に曝露したのは、カナダのフェミニスト、アニータ・サーキージアン(Anita Sarkeesian)氏のキックスターター・プロジェクトに関する話題。彼女は「ヴィデオゲームにおける女性の取り扱い」についての調査を行う目的でプロジェクトの資金を募っていたのだが、これがネットで大変なヘイトを集めた。ゲイダーさん自身、かつてブログで彼女の話題に触れたことがあったため、このヘイト・リアクションに巻き込まれたそうである。

 私個人は、以前から内田樹氏の受け売りで情報武装しているので、「またしてもアメリカン・ミソジニー(misogyny、女性嫌い)のマグマが噴出しているんだねえ」と乾いた笑いとともに見守るだけであります。カナディアン・フェミニストなのにアメリカン・ミソジニー? ネット英語圏を支配しているのはアメリカンたちである(”Strength in numbers, Arisen.”)。

 最近になってようやくCoen兄弟監督の”O Brother, Where Art Thou?”(2000)と、”No Country for Old Men”(2007)を続けて観ました。どちらも私にとって気味が悪くてしょうがない、いてもたってもいられなくなる部分の「アメリカ」が描かれていた。後者は本当に不気味さを味あわせるためのスリラー調ですが、コメディ風味の前者であっても、物語っている中身は十分空恐ろしい。

 イヤなのは物語じゃなくて、そこに描かれている光景なのかもしれないですね。一言で言うとあの茫漠とした大地に比してあまりに小さな人間文明社会、「空虚感」、「寂寞感」を感じるからでしょうか。

 同じようにテキサスや南部の荒野を描いた映画の光景すべてが気味が悪いわけではなく、例えば中東などほかの地域の砂漠や荒野の光景には何も怖さを感じないのだから、撮り方、見せ方に違いがあるってことなのでしょうが。
 そしてやっぱりそこにはミソジニーもしっかりと描かれている。

 女性とうまいことやってる男はひどい目にあう、女性は男性をひどい目にあわせるだけの存在である、というのがハリウッド映画の一原型である。前者の映画には、水浴びしているうら若き女性たち(ファンタジーでいうニンフのイメージ)とつい遊んじゃった仲間が忽然と消え失せてしまうシーンなど含め、至るところにそのモチーフが登場する。開拓時代西部は圧倒的な男性社会で、そもそも近くに女性などおらず、だから特定の女性とできちゃうことなど極めて稀であり、多くの男性は恋愛や結婚と無縁のまま死んでいった。ある時期からハリウッド映画界を主導していたのが、そうした世界に生きていた開拓時代のカウボーイたちであったというのが内田ミソジニー説の簡単な要旨。

(追加)Coen兄弟の今のところの最新作、"True Grit"(2010)のBDも入手していたことをすっかり忘れていたので、観てみました。上の二つに比べれば(基調には凄惨な暴力が描かれているとはいえ)物語はずっと前向きで明るいのですが、カウボーイ、USマーシャル、バウンティ・ハンター、メソジスト・サーキット・ライダー、テキサス・レンジャー、そして登場する無数のならず者(デスペラード)たちの生き方は、「アメリカ」以外のなにものでもないですね。(「トゥルー・グリット」の意味は「不撓不屈」、「本当の勇気」、「石に齧りついてでも諦めず、事を成し遂げる」って感じのようです)

 ゲイダーさんがほぼ同意見だとしてブログでリンクしているのは"God of War"のカリスマ開発者、Cliff Bleszinski氏のTumblrブログ。中身は大変面白いのですが、要点は「ゲーマーはそんなくだらない騒ぎに乗っかっちゃダメだ!」というもの。彼の主張はいちいちもっともであるが、全文訳しているうちに、こっちが(騒ぎに乗っかっているようで)イヤな気分になってくるので、気に入ったところだけ。
 
「僕たちはゲーマーなんだせ、チ○ポコ野郎ども。プロム(学校主催のダンパ・・・、って死語か、ダンスパーティーね)の最中だってコンピューターの前に張り付いていたじゃないか。みなが学校の中庭でフットボールで遊んでいる間、食堂の裏手でDnDに興じていたじゃないか。僕たちは心広く、フレンドリーで、素晴らしいオタク仲間は誰彼わけ隔てなく喜んで受け入れなくちゃならなかったんじゃないのか」
 
 この「女っ気ゼロのオタク仲間」の世界というのが、アメリカン・ミソジニーが生まれる根本原因であった西部開拓カウボーイ仲間の世界の末裔なんですね・・・。
 問題は、そんな古き良き?時代のオタクゲーマーがもうあまりいなくなった(悪い意味でカジュアル化した)ってことなんでしょうけど。

 このゲイダーさんのブログ本文はごく一般的なネット・マナーの事が書いてある。その要約はこんなものです。

・自分の主張を通すため、罵倒や嫌がらせに訴えたら、どんな「まっとうな批判」もそうではなくなる。我々は嫌悪を含んだメッセージがすんなり無視されるようなファンタジー世界などには住んでいない。ナニの大きさだけが意味を持つと考えているなら、そんなことは君以外誰も気にしないことに早く気が付くべきだ。自分が正しいとわめき散らすだけでは本当の男にはなれない。

・アニータの主張に賛同するかどうかと、彼女を尊敬し、罵倒に屈しない態度に敬意を払うことは別の問題である。もし彼女の主張に賛同できないとしても、性的蔑視や身体的危害の脅迫に訴えることなく対話することは可能だ。現実世界で「ポイントを上げる」ようなことをしてもレヴェル・アップはできない。

・この謝辞の必要がないことを願うのは言うまでもないが、上の私の主張の正しさを、自分の言葉を用いて実際に証明してくれる人たちに対して予め礼を言っておく。

 リンク先から閲覧できるのは、ゲイダーさんがGDC(ゲーム・デザイナーズ・カンファレンス)で「ヴィデオゲームにおける性表現」について講演した際のパワーポイント資料。以下、各スライドの原稿を訳しておきます。
 自分のPC等にはパワーポイントのアプリケーションがないので閲覧できないと思ってる方は、Microsoftの無料Viewerも手に入りますし、下に訳出した「講演者ノート」も原文で見たいとお考えなら、パワーポイント 2010無料 Web版が簡単に手に入りますので申し添えておきましょう。

(訳し始めてから、大変長いことに気がつきました。記事いくつかに分割することにします)

2013年5月 8日 (水)

RPG Archetypes (4) まとめ

 「昨今のRPGにおけるクラスは三原型しかない」と主張しているIGNの記事を紹介しました。(筆者によれば、それらは昨今のRPGの重要なオリジンのひとつであるDnDの発想を踏襲しているという)

 この主張が正しいかどうか、正しいとすると、なぜこの三原型しかないのか、というのが次の話題になります。
 「三原型しかない」と言い切れるなら、これらは“generic”(ジェネリック、包括的・網羅的)なクラスを構成していることになります。「概ねこの三原型である」としか言えないなら、これらは”general”(ジェネラル、一般的)なクラス構成です。

 それだけですべてを表現・説明しているわけだから、ジェネリック・セオリーを目指すべきなのは言うまでもない。ジェネラル・セオリーの場合、”special”(スペシャル、例外的、特殊)な場合が存在します。

 ジェネリックであるためには、「例外的なもの」がないことを示さなければなりません。

 例外を探す努力も確かに必要です。Final FantasyとかBravely Default方面では「すっぴん」とか「たまねぎ」?とか、いわゆる「ヴァニラ」(vanilla、ヴァニラ以外の味が何もない)クラスがあります。DQシリーズなら「漁師のせがれ」、「旅芸人」(途中からヴァニラではなくなるけど)とか。専らまだ「冒険者」としての自覚がない、凡人とは異なる能力を身に着けていない段階の表現として用いられる。
 でもそれらだって、ファイターやローグ(バード)の一形態ですね。DQでいう「遊び人」もバードの一種だ。

 例外を探すのが難しいうえに、根本的にこういう例示式のアプローチ(列挙式帰納法)では、「だいたいそうなっているね」しか言えないのが難点です。

 前提においている部分、「昨今のRPG」という議論の範囲を掘り下げて攻撃してみましょう。例えば「恋愛RPGにはファイター、マジック・ユーザー、ローグは登場しない」という反論をしてみる。最初の主張を守りたい側は「恋愛ゲームはRPGではなくシミュレーションだから議論に含まれない」と論駁しようとするでしょう。そして「RPGとシミュレーションの違い」論争に入り込む。(ロールプレイはシミュレーションの一部であり、シミュレーションはロールプレイの一種だから)その論争自体は「不毛」ですが、実は、大事な論点を洗い出してくれている。

(もちろん下手くそなアナロジーを用いて、「恋愛ハンター」にはRPGの三原型に酷似した三つのアプローチがある、なんて言ってみても構いません。しかもそんな陳腐な物言いですらことの本質に近づいていないわけじゃない)

 MMOを見ると、プレイヤーはまず間違いなく強制的に(上述の三原型か、それらのハイブリッドの)キャラクター・クラスを選ばされる。でも便宜上のクラスとは関係なしに採集/狩猟、クラフティング、売買などに明け暮れるプレイヤーがいる。これなんかも、話の取り掛かりとして重要なことだと思います。

 便宜上のクラスが無視されているのは「なぜか」、無視されている部分は「何か」ってことですね。 

 私の説とはだいぶ異なりますが、IGNの記事のユーザー・コメントに面白い説があったので紹介します。

 「この三原型に収束するのは必然である。なぜなら、それはHeart、Soul、Mindという人間の心の基本的な三つのコンセプトの適用であるから」というものでした。他のユーザーからの関心はあまり得られていないであっという間にスレッドに埋もれて行きましたが。
 言いたいことは、「心/意志」、「心/魂」、「心/精神」の三つに対応しているということだと思う。Heartは、もちろん"Brave Hearts"というように「心/勇気」も示すのでファイター、「心/魂」が霊力も含めた意味でメイジ(マジック・ユーザー)、「心/精神」は知性・知恵を表現するからローグ。

 面白い説なんだけど、例えば「心/意志」は別にファイターだけに必要不可欠でもないし、「心/魂」には感情・情念(パトス)が含まれているに違いない けど、それだってメイイジ固有でもなく、「心/精神」には理論・言語(ロゴス)が入るが、これも完全に切り分けられるわけでもない。
 でも、なかなか高尚な説なので、私は後のち別な機会に使えるのではないかと思って覚えておくことにします。

 私の説はずっと「俗」です。

 むしろ、IGN筆者が指摘していたように、DnD創設者のゲイリー・ガイギャクスがRPGを着想したのは、テーブルトップ・ウォー・ゲームからだった、というところに着目すべきだと思う。今の日本ではもう馴染みのある人はあまりいないだろうけど、あちらでは根強い人気を誇るのがミニチュア・ウォー・ゲームです。主としてナポレオニック・ウォー、あるいはそれより古い時代の中世ヨーロッパの戦争などが人気ジャンルですね。アメリカ合衆国では、独立戦争、市民戦争(南北戦争)もはいるかな。Wikipedia(en)の記事に詳しく載っています。

http://en.wikipedia.org/wiki/Miniature_wargaming

 このWikiの記事にも触れられてるとおり、ガイギャクスがTSRのデザイナーとして1974年に世に出したオリジナルDnDルールセットは、Chainmailという集団戦用ウォー・ゲームのルールセットを私家版として個人兵士戦闘用にリメイクしたのでした。

 私の説は、上でいうRPG三原型は、ミリタリー・アナロジーから生まれたものであるというもの。戦場に登場する陸戦兵科を主戦(歩兵・重騎兵・弓兵)、支援(砲兵・弩兵・攻城兵器)、偵察・攪乱(軽騎兵・偵察兵・工兵)の三つに分けた、それぞれの類比でしょう。

  よって、上の主張は「昨今のコンバット・ドリヴンRPGにおけるクラスは三原型しかない」と言い直したほうがいいことになります。

 それによって、MMOのフォレイジャー(採集狩猟人)もクラフター(工芸人)もマーチャント(商人)も戦闘職種ではないから議論から除外される。恋愛RPGもコンバットと関係ないから埒外である(「愛の狩人」を気取るなら依然としてアナロジーは成立するかもしれないけど)。

 そうなると、次の問いは「ではRPG三原型以外にミリタリー・アナロジーが成立するような原型はないのか」ということになるのでしょう。おまえの主張(セオリー)はジェネリックなのかどうなのか。

 残念ながらミリタリーの世界に「ジェネリックな」ポリシーやドクトリンというものはありません。仮にユニヴァーサルな(どんな時にも使える)ドクトリンがあって、誰かがそれを用いるとしたら、必ず敵にその裏をかかれるため、必敗の戦略・戦術となってしまう。そうなることが予見できるのであれば、双方が身動きとれないステイルメイト(千日手)の状態に陥ってしまう。

 「そもそも無理に戦わない」というポリシーを抜きにすれば、考えうる唯一のユニヴァーサルなドクトリンは「兵は詭道なり」(To fight is to deceive.)、「戦いは欺瞞に尽きる」というものであるという皮肉。「どんな場合にも使える」忠告は、「どんな場合にも使える手口を使うな」というもの。「機に臨み、変に応ずる」(臨機応変)。

 私の説をジェネリック・セオリーであると証明することはやはり難しい。 

 ヨーロッパ中世時代やナポレオニック・ウォーの戦いに比べて、現代地上戦がだいぶ様変わりしているのは確かです。空爆、へリボーン、ミサイル兵器、熱核兵器、BC兵器、電子かく乱戦、指揮命令通信情報システム、ドローン(無人攻撃機)。これらのテクノロジー・戦術からRPGの独立したクラス原型として回収できるものは本当にないのだろうか。

 コンバット・ドリヴンRPGが表現しようとする小規模チームによる戦闘がどれだけ様変わりしたかというと、大して変わっていないのでしょうね。偵察、制圧、殲滅が戦闘の基本であるから。

 ましてや、ファンタジーRPGには「マジック・ユーザー」というお手軽な「なんでも屋」がいるおかげで、仮に回収可能な新奇なテクノロジー・戦術戦法のアイデアがあっても、(通常はスペルの形で)どんどん吸収していってしまう。上に掲げたテクノロジーをマジック・ユーザーのスペルに変換するなんてのは、大したイマジネーションも必要としない、ごく容易いことですよね。
 万が一、画期的な原型を思いついたのであれば、誰かに告げる前に、ぜひご自分の手でゲームの形にしてください(笑)。それから教えていただけると助かります。

 結局のところ、Falloutシリーズを貫く、このフレイズで締めるしかないようです。含意若干違うけど。

「戦争は、いつの時代も変わらない」

“War. War never changes.”

DAIII@E3

 Dragon Age III: Inquisition、コンセプトアートが公表されてから情報まったくなしの状態が長く続いていたため、あー、またきっとEAに義務づけられているマルチプレイ部分の開発が難航してるのかなあ、と2014年へのリリースずれ込みも個人的に覚悟していましたが、6月開催のE3に出展されることが公式に表明されたようです。

https://twitter.com/Mike_Laidlaw/status/331867937537417217

 この記事を書いている(日本時間8日昼休み)数時間前(カナダ・エドモントン時間7日夕刻)からMike Laidlaw氏(クリエイティヴ・ディレクター/DAリード・デザイナー)の他、Cameron Lee氏(DAプロデューサー)、Aaryn Flynn氏(エドモントン・モントリオール・スタジオ・ジェネラル・マネージャー)あたりがツイッターで話題にしています。

 EAの第4四半期決算説明会の場で、EAラベル・プレジデントのFrank Gibeau氏が同社のE3出展について発表しているので、これにあわせてオフィシャルに解禁されたということでしょう。(EAは2011年から傘下のスタジオ群を次の4つのラベルに再編成しており、同年同時期にラベル・プレジデントに就任したGibeau氏はそのすべてを統括している。EA Games、EA Sports、EA Maxis、EA Bioware)

http://www.polygon.com/2013/5/7/4309950/ea-to-unveil-new-next-gen-titles-from-dice-ea-sports-bioware-at-e3

 ただし、この発表の本来の趣旨は、各ラベル・スタジオの次世代コンソール向けタイトルがE3に出展されるという話題であり、2014年度リリース予定(EAの会計年度は4月スタート)で開発中のフランチャイズ作品はBattlefield、 FIFA、 Madden、NBA Live、Need for Speed。ここにBioWare作品は含まれない。

 E3ではそれ以外に、BioWareを含む各ラベルの次世代機用「新作」が発表され、一部は中身も初披露されるとしている。DICEの次世代機用新作はMirror's Edgeの続編ではないかとの説が紹介されているが、BioWareの新作タイトルが何であるか、ひとつだけかどうかもここでは触れられていない。

 他の記事(下のリンク)によれば、EAは2013年度中に合計11タイトルをリリースする予定であるとしている。

http://theslanted.com/2013/05/4696/eas-investor-call-new-engines-11-new-games-and-more-to-come-at-e3-2013/

 Gibeau氏がDragon Ageシリーズについて触れていないのは、当初計画どおり「現行世代」コンソール向けに開発されていると解釈していいでしょう。そうであっても、2013年秋リリースが確定しているとの確証が得られるわけじゃないけどね。

 次世代機用に開発されるBioWareの「新作」(のひとつ)は、Mass Effectユニヴァースを用いた何かであると考えるのが自然かもしれません。最近のBioWareラベルには旧Victory GamesのタイトルであるCommand and Conquerまで含まれるのですが、さすがにそれをDICEやEA Sportsのビッグ・タイトルと同列にはしないでしょうから。

 もちろん、DAIIIの「次作」も次世代機用となるのでしょうが、新作がまだリリースされていないのにその次の作品を話題にするのは、この業界ではご法度ですね。

 2013年E3はロサンゼルスで6月11日から13日(現地時間)の間開催される。

 フリン氏のツイッターによれば、通常どおりであれば、E3開催に先行してインターネット上に関連情報が公開されるだろう、とのこと。
 DA2のように(本編内容をほとんど反映していない)外注した美麗なゲーム・トレイラーではなく、ゲーム内プレイ映像を見せてもらえるのでしょうか?

2013年5月 4日 (土)

RPG Archetypes (3) Rogue

 当然のようにこの三類型に当てはまらないものを探される人がいると思いますが、実りはあまりないと思う。まあ、あるっちゃあるが・・・。
 その答えと、なかなか例外が見つからない理由の説明は最後にしますが、一方でこの三類型のサブセット(サブクラス)が幾分異なる例はありますよね。

 例えば、この三本(か四本になるのかわからん)の記事を書いている間も、禁断症状が出始めているDragon's Dogmaですが、レンジャーがDnDのようにファイター・クラスのサブセットではなく、ローグ(ストライダー)クラスに分類されている場合。Dragon Ageのレンジャーもローグクラスでした。
 DnDバードもマジック・ユーザーからローグに分類が移っているし、ここら辺の境界は揺れていることがある。

 クレリックなどのヒーラー職も、DnDではファイターとマジック・ユーザーのハイブリッド的な扱い(あくまでコンバタントでフロント、ファイター寄り)からスタートしたが、Dragon's DogmaやDragon Ageなどでは、マジック・ユーザー(メイジ)から独立しておらず、完全にサブセット扱いとなっている。
 
 SkyrimなどThe Elder Scrollsシリーズは「クラスレス」のシステムですが、キャラクターの典型はやはりここでいう三類型と、それらのハイブリッドになります。筆者は下で、そのうちローグ(シーフ)の能力を有することが最も「有益」で「楽勝」になりうると主張している。

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ローグ(The Rogue)

 夜間こそこそと人目を憚ってあなたの金銭をくすねる者、あるいは、あなたの家宝をくすねる者。あるいは、もしかしたらあなたの命を奪う者。

 シーフ(盗賊)はローグ(ならず者、風来坊、渡世人)として(隠密理に品物を掠め取る)「指輪物語」のビルボ・バギンズと、(アメリカのサイファイ・ファンタジー作家である)フリッツ・ライバーが創作した(対決より機転を優先する)グレイ・マウザーの両方から着想を得ている。DnDはテーブルトップ・ウォー・ゲームから発祥したのだが、プレイヤーが真の意味でロール・プレイをどれだけ効果的に行うことができたかを計測できるように、「カリスマ」(charisma)や「知力」(intelligence)などのスタッツを新たに導入した。ゲーム・マスターが演じるキャラクター(NPC)との対話の中で、行動によるだけではなく言葉によっても誠意を示し、味方を増やせるかどうかが試されるのだが、ローグとシーフはその分野に長けている。もちろん錠前や罠の解除についての才能も有している。市民の住居に侵入するためか、ダンジョンの宝箱に隠された財宝を手に入れようとしているのかはともかく。

・アサシン(The Assassin)

 シーフが物品の略奪に特化する一方で、アサシンは隠密行動をより攻撃的な能力、すなわち、生命の奪取に用いる。高い戦闘能力と、瞬殺技能、欺瞞の才能などを身に着けることで、アサシンはシーフの職業をずっと危険な領域まで押しやった。その分、策略の優雅さは喪われることになった。

・ヴィデオゲームRPGへの踏襲(レガシー) 

 JRPGにおいてローグは特筆すべき地位を占めていない。もちろん、何人か記憶に残るキャラクターもいるだろう。FFVIのロック・コール(もっとも彼は「トレジャー・ハンター」と呼ばれるほうが好みである)や「テイルズ・オヴ・ディスタニー」のルティー・カトレアなどが思いつくが、このクラスが主要な地位を占めることはなかった。日本にはすでに忍者(ニンジャ)がおり、それらもシーフでありアサシンでもあるとはいえ、クールさは何桁も上だ。ヴィデオ・ゲームに「サイボーグ・シーフ」が登場したことはないが、「サイボーグ・ニンジャ」は? そこら中で数えきれないくらいお目にかかることができる。

 一方で、西洋RPGは、ローグとシーフのコンセプトが大好きだ。スターウォーズのMMO、The Old Republicでも、スマグラー(密輸人)クラスは基本的にハン・ソロであり、あの映画でも何度も「ローグ」として扱われていたではないか! より伝統的RPGでも傾向は同じだ。実際、隠密行動と窃盗は西洋RPGの風土病ともいえ、ローグ・クラスが最も簡単にプレイできることさえしばしばあるようになった。

ぴったりの例:The Elder Scrolls (ジ・エルダー・スクロールズ)シリーズ。口先三寸(silver tongue)と窃盗(売却)はどこでも用いることができるようになっており、シーフのキャラクターをプレイするのが実用的過ぎて、ゲームの選択肢の中核を占めるまでになっている。エルダー・スクロールズのシーフを上手にビルドすれば、ステルス、弓矢の技術、奇襲攻撃のパークを手に入れることで、ゲームを楽勝で進めることができてしまうだろう。

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 触れられているフリッツ・ライバーの本は今でも手に入るのかな。ああ、絶版ですね。手元にある創元文庫版を見てみると2004年改訂版(自慢かよ!)の「魔の都の二剣士」からはじまる四作のシリーズで、北国生まれの巨漢の剣士ファファードと南国生まれの機転に富んだローグ、グレイ・マウザーの二人旅である。あちらでは古くからファンタジーの定番とされていて、ファンタジー世界のファイターとローグのモデルにもなっている。もちろん多くのRPG作品がライバーの作品からインスパイアを受けている。

 近年では女優作家マーセデス・ラッキーが女性剣士と女性魔法使いの二人旅、「女神の誓い」(The Oathbound)からはじまるVows and Honorシリーズを書いているが、読み比べると面白いかもしれない。彼女は超多作なアメリカのファンタジー作家だが、残念ながらあんまし日本に紹介されておらず、今だと「女神の誓い」シリーズの他「ヴァルデマール」シリーズくらいしか手に入る日本語版がないかな。

 ニンジャがいるから日本ではローグがもてない。

 残念なことに違いますね。「日本では最初から法に反する盗賊は人気がない」が正解。トレジャー・ハンターとはわけが違うでしょ。例外はルパン三世と石川五右衛門。いや斬鉄剣のゴエモンではなく、コナミのほう(それもちょっと違う)。あとは本家ルパンと鼠小僧。いわゆる「義賊」のみ。(石川五右衛門が本当に義賊だったかどうかはたぶんに怪しいが)

 ニンジャとはいえ(いやニンジャだからこそ)宮仕え。権力者お抱え、プロの密偵ですから日本では人気がある。「死して屍拾う者なし」でも公儀隠密だからこそ仕える。あちらでいえば「スパイ大作戦」の「当局は一切関知しない」と同義、つうか「大江戸捜査網」は実際あれのパクリ。

 あちらの人はニンジャがレネゲイド、ケイオティック・ニュートラル(混沌にして中立)か、イーヴィル(悪)だと間違っているけどね。少なくとも抜け忍、はぐれ忍でなければカンペキなローフル・ニュートラル(秩序にして中立)ですよ。

 それから日本では渡世人とか野武士のイメージも良くないのかもしれない。ローグは本来「風来坊」の意味で、定住せずカタギの定職をもたない者のことを日本語では「破落戸」(ごろつき)といいます。家が手入れもされずボロボロになって、戸板まで落ちてしまい、しかたなく他人の家に寝泊まりして回っていく。「一宿一飯の恩義」なんて渡世人の掟もそこから生まれた。

 日本を代表するローグである木枯し紋次郎は、意外と人気ないしね・・・。黄門様はおいておいても、みんなやっぱ(ローフル・グッドの典型である)長谷川鬼平好きでしょう。他に 人気のありそうな拝一刀も元は公儀だし、新撰組も成り立ちこそ怪しく、一種のボディガードであり、アサシン集団であるが、公儀であるところが人気のミソ。眠狂四郎もあくまでサムライであってローグではない。
 つまり日本ではローフル(秩序に従う、掟に縛られる)サムライやニンジャがもてて、ケイオティック(世捨て人)なローグやシーフはもてない。

 ではなぜ、あちら(欧米)ではローグがもてるのか?
 だって、もともとローグの集まりみたいなもんだから。イギリスにしたって海賊船のことを私掠船と呼んだりしてるし、もともと体制に迎合しない国柄だし、アメリカだって西部時代のカウボーイもガンマンもローグそのものですよ。体制迎合、宮仕えをよしとしない、本来のレネゲイド気質が何かくすぐるんでしょう。 

 ローグについては、記事自体が短いので、最後に触れられているThe Elder Scrolls シリーズのシステムについて。

 たぶんSkyrim、あるいはMorrowind以来のThe Elder Scrolls シリーズの「クラスレス」システムが最も優れている点は、上に言うようなローグ有利ということだけではなく、ハイブリッドがそれなりに意味がある、許されるというところではないでしょうか。

 まず証拠としては、Morrwindのガーディアンズ・システムがある。シーフ、ウォーリアー、メイジの三類型に有利なボーナスがそれぞれ付与される。Oblivionに類似のものがあったか記憶が定かではないが、三類型ごとに特別なギルドがある(アサシンには別にギルドがある)。Skyrimではやはり三類型のガーディアン・ストーン(ボーナス付与)が初期の段階で提供される(初回プレイで見逃したけど!)

 よって、筆者が述べているオーソドックスな三類型が根本にあることは間違いないが、それぞれの類型でとるべき道が固定され、強制されているわけでもなんでもない。さらにそれらのハイブリッドが問題なくプレイできる。 

 Skyrimの公式ガイドブックによれば、様々な「典型」が推奨されている。これはなにもガイドブックのライターが勝手にひねり出したのではなく、実はMorrowindあたりではゲーム中でさかんにメンションされていた発想だ。スペルソードを目指すなら誰に聞け、どうしろ、というアドヴァイスの形で情報が提供される(Oblivionでどうであったか忘れちゃいました)。

 推奨種族まであわせて、10類型を参考までに列挙しよう。

  The Warrior: Nord
  The Mage: High Elf
  The Archer: Wood Elf
  The Berserker: Orc
  The Spellsword: Dark Elf
  The Necromancer: Breton
  The Assassin: Khajiit
  The Battlemage: Imperial
  The Weapon Master: Redguard
  The Rogue: Argonian

 ほとんどがそのまま説明不要でしょうが、一部説明を加えましょう。
 ウォーリア―はボード・アンド・ソードで剣と盾の剣士。バーサーカーがツーハンデド、アーチャーが弓矢、ウエポンマスターが二刀流スタイルだ。ここまでがウォーリアー類型。
 メイジはダメージ・ディーラー。ネクロマンサ―はアンデッド中心のサモナー。スペルソードは呪文も使える剣と盾の剣士。一方でバトルメイジは重装甲を着込んで戦場のど真ん中で魔法を用いる(メレー武器にはあまり頼らない)。ここまでがメイジ類型。 
 ローグ類型はローグとアサシンで、そのままですね。ローグは接敵しないのが推奨で弓矢、アサシンは即死を狙ってワンハンデド・ウエポンを用いる。

 推奨種族が過不足なく当てはまるという時点で、これがデザインサイドの意図した基本形である。もともとの種族の特性からこのような類型が発想として生まれていたのである。むしろクラス類型ありきでそれから種族の特徴が生まれたと言ってもいいかもしれない。

 これらのことから、「クラスレス」システムと言っても、完全にオールドスクール派の末裔であることがわかる。

 私などはシリーズとの付き合いが長いので、どうしてもこの類型から抜けられない。種族のイメージから普通に選んでしまって、ノードはボード・アンド・ソードのウォーリア―、ハイ・エルフはダメージ・ディーラーのメイジ、カジートはアサシン寄りのローグ。最近はじめたブリトンもどうやらネクロマンサーあたりのメイジ寄りになってしまいそうだ。

 ただし、このシステムの優れているところは、こんな推奨類型なんて気にしなくても全然問題ないし、つまみ食いがほとんど自由なことだ。
 しかも素晴らしいことに、押し付けられた余計な制約がなく、(ゲーム世界の中で)それなりに仕組みが理に適っている。
 
 例えばDnDではスペル・キャスターのうちアルケイン・キャスター(ウィザードとソーサラー)は詠唱にボデイ・サイン(主に両手の自由な動き)を伴うため、ローブより重い鎧は邪魔になるという理由で着用不可である(後にボデイ・サイン不要になるフィート(能力)も提供される)。
 一方、ファイターもローグもマルチクラスでメイジのレヴェルをとらない限りスペルを用いることができないが、鎧を身に着けている間詠唱できない(戦闘中着脱不可)ので、ほとんどの場合意味がない。
 DnDのスペルキャスターは最後のほうでは「化け物」になる、気味が悪いほど手が付けられなくなる("Spell casters are supposed to be sick.")、それに対する縛りという意味もあったでしょうが、結局「化け物」になっちゃうし、ローブしか着れませんというのは、(まさにガンダルフ・モデルから着想された)なんとなく押し付けられた制約であることに違いない。

 Skyrimの類型では単純に重量制限のみがある。バトルメイジが重装備できるのは十分にヘルスに振っているから(スタミナが犠牲になる)。逆に(バニラの)メイジやネクロマンサ―はマジカにベタ振りするので、まともな鎧はほとんど着れないが、それなりのプロテクトスペルがふんだんに使える。一方バトルメイジと同様重装備をしているバーサーカーはまともにスペルが使えない(ヘルスとスタミナが重要で、マジカに振っている場合ではないから)。合理的っちゃ合理的だし、こう書いていてもすんなり筋がとおってあまり無理がない。

 繰り返すが、これらもすべてさじ加減です。(特にセーヴファイルをこまめに確保してないと)手なりプレイで最後に行き詰まっちゃうって危険もないわけじゃないが、何かの特徴を追い求めて損しちゃうことがない。

 ただ、私はあまりベタ誉めしたくないんだよね。というのは、結局三類型すべての能力を身に着けることが(最後のDLCに伴うヴァージョンアップで)可能になってしまいました。
 なんでもできます、俺つええってのは、好みではないんです。

 やっぱバカのなんとかみたいにダメージ・スペルばっかりぶっ放してる(別に爺でもいいけど)イケイケドンドンの巨乳(じゃなくていいけど)姉ちゃんとか、回り考えずツーハンデドをブンブンふりまわすアマゾンとか、戦闘中でも闇に消えて宝箱の罠外しちゃってるローグとか、なんか人間味があっていいじゃないですか。

 もちろん、Skyrimのシステムの優れているところは「全部取れるけど取る気しないねえ」という人でも「どうぞご自由に、取らなきゃいいじゃんね」と言えるところですね。

RPG Archetypes (2) Magic-User

 二回目はマジック・ユーザー。

 DnDの由緒正しい(古式ゆかしい)呼び方はこちらで、昨今用いられるスペル・キャスターとほぼ同義。DnDには「門前の小僧お経を詠む」そのままのイメージで、例えば魔法の才能はからっきしのローグが見よう見真似でマジック・アイテムを無理やり使っちゃう、Use Magic Devices能力もあるのですが、そっちは含まれない。またパラディン、レンジャーもごく一部スペルをつかえるのですが、マジック・ユーザーには含まれず、スペル・キャスターというと含まれたり含まれなかったり。ところがバードなどはスペルの他に、また違う能力(歌唱・詩吟・舞踏)も用いるのですが、これは通常含む。境界はぼんやりしてますね。

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マジック・ユーザー (The Magic-User)

 「なんてこったい、あんた魔法使いかい!」"Blimey, 'arry, yer a wizard!"
 マジック・ユーザーは魔法を唱え、呪文を投げつけ、その間ローブだけ身に纏った「紙のように」脆弱な弱虫、というわけでは必ずしもない。

 DnDの着想はほぼすべて「指輪物語」から受けたと考えられるので、ゲイリー・ガイギャクス(Gary Gygax、DnD創案者)がマジック・ユーザーの構想を練っていた際には、岩を割ったり、巨大な獣を召喚する、あのガンダルフの雄姿からインスパイアされたのは間違いないだろう。超オールド・スクール時代のDnDでは、マジック・ユーザーは能力を発揮するため大変な労苦を強いられていた。限られた数の呪文をまず暗唱しなければならず、それらは一日に一回しか用いることはできないうえ、ひとたび唱えた呪文は忘れてしまうのだ! 実を言うと、昨今のマジック・ポイント制は、DnDルールの水割り、安直版に過ぎない。

・ウィザード(The Wizard)

 マジック・ユーザーの古典的モデルであるウィザードは、役に立ちそうないかなる鎧も身に纏うことができず、肉体的に極めて脆弱な立場に置かれている。だが、数限りないモブの大群が出現したり、ありえないほど高レベルの敵との戦いが酸鼻を極めようとしているときには、なんのてらいも躊躇もなくマジック・ミサイルを次々とぶっ放してくれる、よれよれのご老人が傍にいることほど心強いことはない。

・クレリック(The Cleric)

 もっとも初期の段階には、クレリックはDnDのプレイヤーが選べる三つのクラスのひとつであり、ウィザードとは別の存在であった。だがすぐあとに一般的メイジのカテゴリーに編入され、ウィザードの「黒魔法」に対して「白魔法」を司ることとなった。聖なる力を召喚し、生者には治癒を、死者には退散をもたらす。しかも武器にもそれなりに通じているので、殴り合いであっさりへたれることもない。

・バード(The Bard)

 特別なプレステジ(上級)クラスであるDnDバードは、芸の熟達のため人並み外れて修行に没頭しなければならない。だが、その結果生まれるのは、自身も戦え、他の援護を担うこともできる(歌って踊って戦える(笑))驚くべき才能に溢れたキャラクターだ。後期のルールでは、バードはメイジではなく、ローグの一部に分類された。いうなればローグライクだ。

・ヴィデオゲームRPGへの踏襲(レガシー) 

 驚くかもしれないが、シリーズを貫いて確固たるオールド・ファッション性を示しているドラゴンクエスト(DQ)が、DnDのマジック・ユーザーのコンセプトに最も近い後継者である。DQIVのソーサラー、Maya(おそらくマーニャ)は、直接攻撃に対してほとんど悲惨なまでに脆弱であるが、破壊的な攻撃呪文を用い、しばしば巨大な獣に姿を変える。一方でDQのクレリックは肉弾戦にも通じているが、治癒呪文能力とのトレードオフのため、肉体の強さと防御は限定的である。

 JRPGでは、メイジは一般に若い女性キャラクターであり、その肌も露わでほとんどの部分を隠していないのがしばしばである(おそらく、どうせ鎧が使えないなら服を着る必要すらないだろうと考えているのだろう)。通常、肉弾戦ではほとんど役に立たない杖かロッドを手にし、戦闘でぼこぼこにされないように後列に下がっている。

 一方、西洋RPGではガンダルフ・モデルがもっぱら好まれる。何世紀もかけて魔法を研究している老人や老婆は、ちっちゃくしなびれた(スターウォーズの)ヨーダのようになっているが、この現実世界の理(ことわり)を学究の力でことごとく解明することができる。ソードコースト(訳:DnDフォーガトン・レルムズ・キャンペーン設定に登場する一地方、合衆国ウエスト・コーストに地形などが酷似している)のどこに行っても、魔法の触媒の臭気と、関節炎痛み止め用軟膏(Ben-Gay)の匂いが同居しているのだ。

 ファンタジーの世界観を避けているRPGであっても、例えばMass Effectにもウィザードが登場する。魔法は「バイオティック」、メイジは「アディプト」と呼ばれるが、結局一緒だ。スペルを暗唱し、インプラントによって先天的な霊的潜在力を増幅するところなど、そっくりそのままである。

 一方で、より伝統的なRPGである「世界樹の迷宮」(エトリアン・オデッセイ、Etrian Odyssey)や「ファイナル・ファンタジー・タクティクス」ではバード(あるいは淑女版のダンサー)を古典的DnDのスタイルで用いている。機敏な剣士でもあるが、その持ち味はむしろパーティーを鼓舞し、敵の力を低下させる(デバフする)歌唱呪文の力のほうだ。

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"Sorcerers like DQIV's Maya are physically weak -- almost tragically so(.)"

 当初はマーニャーが「肉体的に悲惨なほど脆弱」ってやってましたがそれって誤訳ですね・・・。あれだけ豊満で、しかもプロ・ダンサーだし・・・。「脆弱」ってことはないな。もちろんITなどでいうところの"vulnerability"、「脆弱性」の意味ではいいんだけど、誰もそうは読まないですよね。「悲惨なほど打たれ弱い、直接攻撃に弱い」ですかね。DQIVのことは細かいところまで覚えてないなあ。

 それからなんですかね、マーニャはガイジンが発音できない? それともゲイダーさんの命名規約ではないが、あちらのローカライズ・スタッフの「誰か」が実例を元に嫌った?「マヤ」(Maya)になっちゃってんですね。

 ここでのポイントは、なぜJRPGでは、ウィザードの類型が「あられもない若い美女」であり、あちらでは「しわくちゃのご老体(男女)」であるかですか。
 確か、FFTでは男性魔法使い(メイジ?)がしわくちゃ爺、女性(ウィッチ?)が巨乳ねえちゃんでしたっけ? それから「ディスガイア」シリーズもそうかな。メイジとウィッチが別ものという設定?

 これはもう、ふたつ(あるいはみっつだが、結局根はひとつ)しか理由が思いつかない。

 ひとつは「萌え」。アニメ・コミック由来、日本のサブカルの影響。表面的にはそれですね。もちろんなぜ「魔法使いサリー」は女性(つうか人間じゃねえけど)でなければならなかったのか、は次の理由に通じる。

 もうひとつは、筆者が書いてあるとおり発生形態的背景でしょう。DnDは「指輪物語」であり、そちらのウィザードは貴重かつ希少で、長い修行を必要とする存在であります。ちなみに、一旦暗唱(メモライズ)しても一日一回使ったらすぐ忘れてしまうのは、バレット(弾丸)方式なんて呼ぶこともありますが、発明者であるアメリカのサイファイ・ファンタジー作家ジャック・ヴァンスにちなんで、ヴァンシアン方式と言います。

 一方で日本で「魔法使い」(っていうのはまさにマジック・ユーザーの訳語ですから当初なかったわけで)というか、魔性を有するのは常に女。常に魔女。

 「魔法」は訳語で日本語は「まじない」、「のろい」、「はらい」。「呪文」という言葉はあった。
 「祈り」と「呪い」は対になっていると以前書きましたが、祈祷(いのり)も呪術(のろい)も形式は「宣り」(のり)で一緒。お祓い(おはらい)も含め、日本では古来から女性の司る役目。その点はどうやら沖縄文化圏でもそうらしく、何らかの理由で隣接文化圏でスタイルを共有していたのかもしれない。

 あと日本古来でマジック・ユーザーっていったらせいぜい陰陽師ですか。それだって役割は占術、呪術、祭祀がいっしょくたですものね。 道教の呪禁(じゅごん)などが、日本ではあまり一般化・表面化してなかったんですね。
 「魔界転生」は・・・、違うでしょうしね(つかあれ南蛮渡来の黒魔術だし)。

 もちろん、ここの議論に性差別の文脈を持ち込むのも自由ですが、「日本(だけ)には性差別が」という議論は即座にバックファイアしますのでご注意ね。
 それも含めて文化的違いが興味深いです。

 ここらの話は書ききれないなあ。

 DDOマジック・ユーザーにはウィザード(ヴァンシアン方式準拠)とソーサラー(スペル固定、入れ替え制限あり、ただし回数はウィズより多め)の二種類があり、どっちが使えるかという割と不毛な議論が行われていた。どっちも同じくらい使えるので、致命的な差がないし、最大六人までのパーティーなので、マジック・ユーザーがふたりなんて編成はザラで、どちらかが職にあぶれることもない。なのに、なんだかんだ、ああでもないこうでもないと延々と口論している人たちがいた。
 ゲーム自体がメレー(接近戦)復権に傾いたときは、ウィズもソークも平等にナーフ(突然のルール変更による理不尽な弱体化)くってたしね。
 実際、ウィズとソークがまじめにケンカしたなんて話は聞いたことないし。ああルートの奪い合いとかは別よ? 欲しいものかぶるからね。

 DnDでいえば、ウィズの魔法はintelligence(一般に「知力」、「知識」)、ソークの魔法はcharisma(一般に「カリスマ」(笑)、あんまし良い訳ではないが「魅力」)が源泉とされている。老学者のイメージが「知識」の典型で、魅惑的美女が「魅力」の典型ですね。埃まみれの書斎・実験室、あるいは人里離れた荒野の小屋で一心不乱に魔法研究に没頭して身に着けるか、あるいは生まれつきなんらかの超越的力(神、精霊、龍、自然そのもの)のギフト(恩恵)として身についているかの違い。

 カリスマが力の源泉なのは、ソーサラーだけではなく、実はパラディン、バード、それからクレリックの力の一部もそう。神などに対して魅力的(寵愛や恩恵を受ける)でそれが故に俗人から神々しく見える魅力と、存在自体が他の人間などにとって誘引力を持つ魅力があるので、ただ「魅力」って訳は本当は違うのですね。DnDルール自体はこの曖昧なアトリビュートを結局最近は放棄しているようですし、これだけで記事が書けるくらい長くなるのでやめときます。

(ちなみにintelligenceも、ウィズとローグの両方に必要とされる「知力」を兼ねてしまっていた。全く別分野を同一視していた矛盾があったため最近のルールは変更されているはず)

 そういえばどうしてDnDクレリックには多彩な能力をいくつか選択できる非常に充実したルールセットがあるか(どんどん拡充されていったか)ご存知ですか?

 答え:あんなもの誰も好き好んでやろうとしないから。

 ナースでもあるまいし(いやナースなんだけど)何が愉しくて、誰がコンバット・ドリヴンのゲームで人様のお尻を拭いて回りますか。

 だから武装も拡充し、派手目な攻撃呪文を増やし、叩かれても簡単に死なないようになり、信仰する神によってすでに能力を授かっているのに、さらに信仰する領域(ドメイン)なるものを持ち込んで、特別能力のボーナスをいくつかもらえるようにした。デザイナー・サイドから不人気クラスへのギヴアウェイです。

 おかげで今度はバトル・クレリックなる「自分以外にヒールはしない」という、また事態を面倒にする類型まで誕生した。

 ある種のMMOでヒーラーを経験されればおわかりのように、カンペキなヴォランティアですよね。家計収支もきつきつだし、パラメディック扱い、ひどい時はヒールボット扱いされたら、愛他精神のある人(そう思い込んでいる人を含む)でなければやりませんよね。自分も一番最後にクレリックをやってみて、ひどいときは自分は幼稚園(保育園か)の保母か何かかと思った。

 DnDバードは上にあるように、もともとスペル・キャスターの位置づけ。しかもクレリックのできることは中途半端ではあるがほとんどできる。真似できないのはターン・アンデッドくらいかな。それいったらクレ様も歌も踊りもでけへんし。

 ただ、バードはナースのお仕事など気まぐれにやったりやらなかったりする。パートタイマー。だから家計も痛まない。仕事を横から邪魔されて取り上げられているようでもあり、この女(そうそう、ふたりとも女性のほうが話が面白い)無駄にちょろちょろしやがってと、フルタイムのクレ様の癪に障る(パラディンはそこまでクレリックを補完できないから争いようもない)。
 結局、目一杯はしゃいじゃったバードが余計なところまで迂闊にのこのこしゃしゃり出て行って、あげくモブからキツイ一発いただいて昇天。慣れないバードの王道です(笑)。

 「レイズ(蘇生)して! レイズして!」

 博愛主義者のクレ様もこの時ばかりは冷たく言い放つんですね。

 「自分でやればぁ?」

 いや、死んだらできへんて。

RPG Archetypes (1) Fighter

 特にネタもないし、Dragon's Dogma: Dark Arisenもひととおりクリアしていないし、ブログ書かなくてもいっかぁと思っていましたが、苦しい時のIGN頼みで、おいしい話が載っていた。

http://www.ign.com/articles/2013/05/02/the-rpg-archetypes

 記事そのものはサクッと簡潔にまとめられていて、論文の慷慨のような感じだが、ポイントをついているせいで、ユーザー・コメントにも珍しく面白いものが多い。
 まあ、いつもと一緒で、最後にはJRPGが勝っているのかマンネリなのか、西洋RPGがどれもカスか、Skyrimが勝つのか、Dark Soulsが優っているのか、Planescape:Tormentが最高か、Baldur's Gateの真の後継者は出ないのか、という話にはなってしまっていますが。

 昨今のゲームはどれもこれもRPGのようだ。つまり、どんなゲームでも「RPG要素」が含まれていると主張しているという意味であり、この時代のクリシェイ(cliché)、陳腐なお約束として受け入れざるを得ないであろう。筆者によればテトリスの次回作もそう叫ぶに違いないとか。うーん、そのネタ自体もだいぶ古いけどね。

 ただし、このRPG要素とは、数値の羅列で表現されたキャラクターとスキル・ツリーの話に限らないとしている。もちろん、そんなくだらない話であったなら、わざわざこんなところで紹介しない。
 昨今のゲームは、ロール・プレイング・ゲームの草分け的存在であった、テーブルトップ・ゲーム、"Dungeons & Dragons"(DnD)に多くを負っている。その事実は、DnDを知っている人なら多くが感じているとおりでしょうね。もっとも大きな功績は、ロール・プレイングの・・・、「ロール」を定義したこと。

 筆者はさらに一歩踏みこんで、今日のヴィデオゲームのキャラクターは、たった三つのキャラクター原型(archetypes)に集約される、と論じている。ここにきて俄然面白い話題になりましたね。話の腰を折るようで悪いのですが、そうなる理由も実は「ハッキリ」しているわけですけど、それについては記事本文で触れられていなければ後述しましょう。

 いつものように超訳です。訳が嘘くせえなあと思ったら、原文にあたってください。

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 たった三つの原型とは、ウォーリアー(戦士)、ウィザード(魔術師)、シーフ(盗賊)。DnD第一版の用語を用いれば、それぞれ、ファイター、マジック・ユーザー、ローグである。

ファイター(The Fighter)

 そのまんまの泥臭いケンカ屋。幅広い種類の武器と鎧を用いて、そうされて当然の敵を痛めつける。

 インスパイアされたオリジンはコナン(Conan the Barbarian)。火星のジョン・カーター(除くレーザー・ガン)。天を衝く巨体、筋骨隆々、片手に剣を握りしめ、ついさっき奴隷の身分から救い出したばかりの巨乳美女をもう一方の手に抱きしめる。話ぶりは文法などお構いなしにぶっきら棒で、他の者からは「マッチョ」とか「筋肉」などと呼ばれる。学こそないが、剣の捌きはお手の物だ。

・パラディン(The Paladin)

 ファイターの特化版。無辜なる者らを救い、全体善を守ることを神に誓い、偉大な霊力を授かった聖なる戦士。DnDのロウフル・グッド(秩序にして善)なるアプローチに厳密に従うことを義務づけられているため、事態の対処法や組むべき仲間には制約を受ける。

・レンジャー(The Ranger)

 自然と交流し、動物を仲間にする。鷹、熊、はては龍まで味方に呼び出すことができるので(「どうぶつの森」じゃなんだから)バカくさいとは面と向かって笑えなくなる。都市部ではあまり役立たないかもしれないが、荒野では抜群の威力を誇る。DnDの冒険の舞台は大抵そっちのほうだ。

・モンク(The Monk)

 剃髪と粗末な衣服でイメージされるクリスチャニティのモンク(懺悔僧)と混同してはならない。DnDのモデルは、禁欲的な生活を送り、格闘技の修練を積んだ東洋のモンクだ。徒手空拳の強力な武術に長けている一方で、鎧を身に纏わないため打たれ弱い。だが修行を積むことでその弱点すら克服し、大地の力を引き出して自己と他者の癒し手にもなれる。

・ヴィデオゲームRPGへの踏襲(レガシー) 

 ファイターはどんなRPGでもデフォルトのクラスだ。コンバット・ドリヴンRPGでは最も理解しやすいクラスであることがその理由だ。叩けば相手は死ぬ。だが、そのニュアンス(微妙な差異)や解釈の幅は驚くほど広い。

 ファイナルファンタジー(FF)のジョブ・システムは、このジャンルのキャラクター・スキルの本質的部分を細部に至るまで思慮深く抽出したものの一つだ。通常ジョブ・システムには基本クラスの他にナイトとモンクを含み、その他にも興味深いヴァリエーションがある。例えばマジック・ナイトはナイトの標準パーク(能力)にエレメンタル魔法による能力増強を加味しており、レンジャーとアーチャーはレンジド・コンバット・スキルをレパートリーに加えている。またFFのジョブ・システムゲームは、敏速かつ強力だが打たれ弱いというDnDモンクの典型を純粋な形で取り込んでいる。

 ファイターのコンセプトは標準的なソード・アンド・ソーサリー(剣と魔法)RPGのひな形以外でも興味深い形で進化を遂げている。例えばMass Effectの攻撃には、シューティング・ゲームのものと似たサイファイ世界の武器が用いられるが、ソルジャー・クラスは重火器による火力と高い耐久性を有しており、ヴァンガード・クラスは迅速に敵との間合いを詰めた上でショットガンをぶっ放す。コンセプトは同じだが、やり方が異なっているだけだ。

 MMOの世界では、ファイターの末裔はタンクやDPS(ダメージ・パー・セカンド、秒単位あたりの純粋なダメージ量)を担当してチームの核となる。もちろんオールド・スクールのファンタジー・ブラウラー(ハクスラ)である「ゴールデン・アックス」(「戦斧」)のバーバリアンや、「ドラゴンズ・クラウン」の危なっかしいほどおつむのいかれたアマゾンなどもこのクラスの典型である。

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 筆者はFFのジョブ・システム含め、JRPGに思い入れがあるようでこの後も結構リファーされています。でもご本人は自分のブログにも「ローグライク」なるタイトルをつけているようで、三典型の中ではローグが個人的にお気に入りのようだ。

 私はパラディンばか一代ですが、なにか?(誰も訊いてねえ)

 Dragon's Crownは、あの今夏発売予定のアトラスのPS3/Vita新作をリファーしてるんでしょうか。過去に同名作品があるかもと検索したが見つかりませんでした。確かにアマゾンはキャラクター・クラスに登場する。

 "the alarmingly pinheaded Amazon"は、上品に訳すと上のとおり「危なっかしいほど頭のいかれた(頭の悪い)アマゾン」ですが、実際にはあたりかまわずツーハンデドをブンブン振り回して、近くの仲間から「ちょ、おま、あぶねえっ、おい、あぶねえってんだろ!」と叫ばれる感じのキャラでしょうね(笑)。戦いが一通り終わってから「あん?」とか言って呼ばれたほうに振り返んの。返り血まみれの顔はほくそ笑んで目がすわってんの。

 昔DDOというDnDベースのMMO/MOを遊んでいた頃、地下神殿のような場所の狭い部屋のいくつかにに敵兵と虜囚が一緒にいるという設定のクエストがありました。クエスト目的は「敵の殲滅と、虜囚の身柄確保」で、虜囚は何人か殺害してしまうとその時点でクエスト失敗。

 自分は当然パラディンでボード・アンド・ソード、剣と盾スタイルのホール担当・・・、フロントラインでした。他にフロントにツーハンデド・バーバリアンのメンバーがいるパーティーで何回かチャレンジして、その都度虜囚がたくさん死んで途中でクエスト失敗。

 そのうちそのバーバリアン(ババン)とソーサラー(ソーク)がチャットで口論になって喧嘩別れした(笑)。んー、当事者ババンは「振ってない、振ってない」とハーフスイングを主張してましたけど、何度もチャレンジしてると、厨房、もといバックヤードのスペル担当のソークは注意深く見るようになるじゃないですか。振ってたんだそうだ。つうかご本人は振り回すツーハンのアークが随分広いことに気が付いてなかったようで、バシバシあたってたんだそうだ。

 こっちは一緒にフロントで切ったはったやってたんで目撃してないので何とも口出しできなかったけど、他に理由がないんだよな(私や他のフロントのシングルハンデド・ソードのアークなんて、短くて全然届かない)。

 DDOにはそれ以外にも、誰それは殺しちゃならんという類似のクエストがいくつもあった。その都度、誰かがやっぱり殺しまくって口論になっていた(笑)。そっちは私も目撃したことがある。レイドやプレレイドでゼッタイ壊しちゃならんレリックなどをいきなり壊されたりすると放心状態になる。まだボイチャが主流ではなかった時代、チャットを読もうとしない人に「チャットを読め!」、「チャット!チャット!」とチャットで連打する無力感、脱力感(笑)。

 「危なっかしいほど頭のいかれた(頭の悪い)」なんて表現が生やさしすぎると思うのはそんな経験があるからです。頭に血が上って視野が狭くなってる人には何言っても通じないんですよね。

 ちなみにファイターは一般に「脳筋」(脳内も全部筋肉=脳みそは入ってない)っていいますけどね。また素人さんがデフォルトで選ぶのがヒューマン・ファイター・男っていうのを揶揄したHFOという蔑称もあった。DDOの準拠したDnD3.5のファイターはまだしも役立つように改良されていたが、それまではただの壁、塹壕の埋め草だったし。

 それからMMOなんかで思うのは、日本人は「弓」が大好きですよね。普通にニンジャ好きかと思うと意外にそうじゃない(危なっかしいほどニンジャ好きはむしろガイジン。)。このレンジャー好きはなぜなんだろう。

 先の大戦で南国の島に送り込まれた帝国陸軍歩兵の一部隊が全員ヤシの木などに登って狙撃兵になっちゃったという話は以前書きましたっけ? 私なんかこれもまたこの島国の民はゼッタイ「海洋民族」なんかじゃなく、「森の民」の証拠じゃないかと思っているのですが。まあ、そこはマタギなんかも平気で登場させちゃった宮崎駿と同意見だが、許すとする。

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