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2013年4月

2013年4月30日 (火)

クォリアン・ゲスとジェノフェイジ・キュア(3)

 絶滅と破局に関する三つの類型、最初のふたつはこうでした。

 ・公正なゲーム(fair game)

 繁殖戦略上、遺伝子が優位な種が生き残り、不利な種が絶滅する。「進化論」の典型的なシナリオ。

 ・弾幕の戦場(field of bullets)

 生き残りを決定するのは「運」である。生存は「確率」が支配している。隕石の衝突、火山噴火、地殻・気候変動によって「たまたま」運悪く居合わせた種が滅び、難を逃れた種が生き残る。

 この二つの類型は、前者では遺伝子(繁殖/生存戦略)の選択性が働いているが、後者ではそれは全く関係ない、という点で排他的に切り分けられる。

 このふたつのどちらにも含まれない、だがどちらとも関連する厄介な第三の類型とは、次のようなものです。

 ・理不尽な絶滅(wanton extinction)

 途中でゲームのルールが変わった、ゲームそのものが違うものに変わった場合。ある特定の種が生き残るのはランダムに決まるのではなく、遺伝子の「選択性」によると考えられるが、その理由が「環境に適応しているから」とは言えない場合。

 例としては、天体衝突に際して地中深くで非常に長期間にわたって「冬眠」する仕組みを有していた珪藻類があげられている。だが、生存に必須であったその「冬眠」能力は、なにも天体衝突によって生まれた環境に適応して備わったわけではない。以前の環境のために備えていた能力が事後的に(たまたま)役立った、結果的に「適応能力があった」だけである。よって第一の類型に含めることはできない。また、地中深くで繁殖したからたまたま難を逃れたわけでもなく、以前とは異なる環境においても生存する能力を有していたことも生存の要件であるので後者でもない。

 "wanton"は、「理不尽」という上品な訳になってますが、私の好みは「でたらめ」、「しっちゃかめっちゃか」、「ご無理ご無体」なんて感じですね。

 これがクローガンと、ジェノフェイジの物語なんですね。すでにおわかりだと思いますが、説明しましょう。もう一度、クローガンの辿ってきた数奇な運命をおさらいします。

・クローガンは自らの内戦が引き起こした熱核戦争によって高度な技術を喪い、核の冬に見舞われた出身惑星で、原初的な部族として辛うじて生きていた。

・ラクナイとの戦争で劣勢にたたされていたサラリアンは、クローガンの戦闘力に目をつけアップリフトする。驚異的な戦果をあげたクローガンはその褒賞として母星系外へ居住する権利を得た。

・母星の劣悪な環境下での生存適応能力を身につけたクローガンは、温和な環境の他星系で爆発的に繁殖しはじめる。不可避的に先行文明との宙域紛争を引き起こし、武力衝突を引き起こす(クローガンの叛乱)。

・クローガンとの戦いで劣勢挽回が困難な状態に追い込まれたテューリアンは、サラリアンの開発したジェノフェイジ・ウィルスを用いてクローガンの繁殖力を抑制し、兵員補充力を損ねることに成功する。

・戦争に敗れたクローガンは、ふたたび母星系に閉じ込められ、シタデル主要種族の監理下におかれた。

 ラクナイ戦争後に爆発的な繁殖力で銀河を席巻し始めたところまでは「公正なゲーム」のシナリオにも見えますが、実は他のシタデル種族からみればゲームのルールが変わった、「理不尽な絶滅」のシナリオでもあります。サラリアン・テューリアンは、だからこそ、そこでもう一度ゲームのルールを変えてしまった。ジェノフェイジによって動員率が激減したクローガンは降伏するしか道はなく、宙間航行もままならない、ほぼアップリフト前のステータスにまで引き戻されてしまう。「ショーケース的」に種を保存されているだけの存在に貶められます。シタデル種族にとってはこれによって「公正なゲーム」が復元されたことになりますが、今度はクローガンにとっての事実上の「理不尽な絶滅」が目前に迫っている。

 クローガンは自らの種族の運命を選択する道を最初から閉ざされている。銀河の事情に翻弄され続けてきている。爆発的な繁殖力を自ら抑制すべきではなかったかとか、好戦的な態度自体に問題があったのではないかとか批判はできるかもしれないが、それらはすべて種族の生得的な資質であったわけです。
 銀河で通用する戦闘力を有していない諸種族は、実際に「二級市民」的扱いを受けているわけであり、後発のヒューマンも、事実上武力によって認められ、シタデル銀河における地位を勝ち取った。
 クローガンだけが自制や自重を強制される謂われはない。それはフェア(公正)ではないのです。
(クローガンのような複雑な事情を欠いたバタリアン種族の拡張主義、重商主義、好戦主義が非難を浴びこそすれ、銀河他種族の賛同を得られないのとはわけが違う)

 ジェノフェイジ・キュアを行わないという選択は、こうした「公正」さを欠いた状態を黙認し、保持することになってしまう。フェイク・キュアを用いるということは、さらに積極的に公正の欠如を支持することになる。
 繁殖率抑制という極めて根源的な(種族の絶滅そのものを含意したおぞましい)テーマであることも、もちろん選択に際して考慮すべき要素ではありますが、むしろ扱いが「理不尽である」、「めちゃくちゃである」ことのほうが重大な要因ではないでしょうか。
 (特定種族や民族に関する偏見については敢えて踏み込みませんが、民族浄化、デポーテーション(強制移住)、はては絶滅政策などの歴史上の破局とも類比的であるし、自国民に対する出産抑制の強制(推奨ではない)というそのものずばりの例も実際にあります)

 多くのプレイヤーがフェイク・キュアを選択しなかった理由は、これだと思います。もちろん「公正さ」を欠いていれば、自由も正義もありません。 

 ゲス・クォリアンの抗争は種族生存に関する「公正なゲーム」の物語です。窮地に立ったゲスがリーパーズの「支援」を受け入れることについての非難はあるかもしれませんが、それはクォリアンがシェパードたちに助力を仰ぐことと形式的にはなんら違いはない。
 ましてや、リーパーズを超越者(神)と崇める自由を奪うという話になると、ここでもまた公正を欠いてしまう。
 プレイヤーの決断が見事に分かれる結果(大雑把にいうと、クォリアンのみ生存、ゲスの未生存、双方生存がだいたい三等分)というのが、この物語が「公正なゲーム」に見えることを示しているのではないでしょうか。

 ただしこういう結論が言えるのは、前に書いたようにプレイヤーたちがゲスも「知的生命」としてシタデル種族と同列に見なしている場合です。もしゲスを同列に見なさない、クォリアンと比較した場合に優先して生存させるに値しない、知性的に劣った存在であると考えるプレイヤーが多かった場合は、結果はストレートにこうはならない。「公正なゲーム」以外にまた別の補完する理由を考えないといけません。

 実は補助線に引いておいた「後遺症」問題、クォリアンの「罪」に関する話も触れたかったのです。クォリアンの流浪の旅には、人工知能を創造してしまった「罰」が含意されている。それもMEの中で決して無視できないテーマであるとはいえ、今回の比較とは直接関係なかったかもしれない。
 その「罪と罰」こそが、上の「また別の補完する理由」の一部かもしれないのですが、どうやらMEのプレイヤーはゲスもサピエント・ビーイング(知恵ある存在)、最低でもセンティエント・ビーイング(感じることのできる存在)と考える人が多いようです。
 オーガニックとコミュニケーション可能なリージョンを登場させたおかげでもあります。リージョンは、種族の殉死者であり、創造主クォリアンとの間を繋ぐ架け橋、預言者の意味合いも背負わされていたのでしょう。 

 一旦、ここまでにしておきます。今回は逃げないといったのでだいぶ慌てて書きました。言葉足らずの部分や、追加すべき必要があったら書き直すことにしましょう。 

2013年4月29日 (月)

クォリアン・ゲスとジェノフェイジ・キュア(2)

 そろそろ「お前本当は答え思いついてないんじゃないか?」とばれる、じゃなくて疑われそうなので、書いてしまう。

 以前の整理した内容で、クォリアンとゲスの関係と(シタデル種族、主としてサラリアン・テューリアン)とクローガンの関係が非常に似ていることを示しました。

・クォリアン=創造主(クリエーター)
・ゲス=被創造物(使役・戦闘用サーヴァント)

・サラリアン=アップリフトを行った種族(パトロン)
・クローガン=アップリフトされた種族(クライアント)、(この場合は主として兵士用)
 
・ゲス:創造主の予期しなかった自我の獲得
・ゲス抹殺を企図したクォリアンの弾圧に対する抵抗運動が全面戦争化:「モーニング戦争」
・クォリアン:母星系から追放、銀河放浪種族化
・ゲス:パーシウス・ヴェイルの彼方に蟄居(引きこもり)

・クローガン:ホスト種族の予期しなかった爆発的な繁殖
・シタデル種族との間の居住宙域紛争が拡大:「クローガン叛乱」
・テューリアン:サラリアンの開発したジェノフェイジ・ウィルス使用
・クローガン:非武装宙域化された母星系の惑星に監禁

 大きく異なるのは抗争の「後遺症」を背負わされた主体が違う次の部分。

・クォリアンは戦争に敗れ、母星を奪われた。
・クローガンはジェノフェイジによって繁殖力を奪われ、戦争に敗れた。
 
 次はこの裏返しです。ME3の結末はプレイヤーの選択によって大きく分かれてしまいますが、 少なくともプロットが企図していた(ストーリーをドライヴしていた)のは次のことでした。

・クォリアンは、追放された母星系の奪還を目指す。
・クローガンは、喪われた繁殖力の再獲得を目指す。

 一方、対峙していた勢力の「後遺症」はこのような感じです。

・ゲスは、「あるじ」、「お手本」を喪失。
 (一部のゲスがソヴリン(ゲスの呼び名は「ナザラ」)を神と見なして支持したことと関係がありそう)
・シタデル種族(サラリアン、テューリアン)は後遺症は特になし。
(ジェノフェイジの開発に携わった研究者モルディン個人の良心の呵責くらい)

 とりあえずここら辺までの整理を材料に考えてみましょう。

 どうして、ジェノフェイジ・キュアを選択しなかったプレイヤーが少なく(8%)、クォリアンまたはゲスいずれかの滅亡を選んだプレイヤーが多かった(それぞれ37%、27%)のか。
 
 まず、一番単純そうな答えとして、そもそも選択の方法が相似形ではないというもの。だから両者は比較にならない。
 ジェノフェイジ・キュアの阻止は、「陰謀公家」サラリアン指導者から持ち掛けられた企みでした。キュアという答えAに対する否定、非A。
 一方でゲス・クォリアンの存亡に関する選択はオープンなオールアウト・バトルの場で行われるもの。A/Bの二者択一である(結果的にはそうではなかったけど)。

 A/Bの選択も非B/非Aとなるので実際形式に違いはないのですが、この説にいくらかでも意味があると思えるのは、プロットの流れを食い止める選択をなすことはなかなか難しいと思われるから。しかもそれまでのプロットが99%キュアの話をしてきたのに、たった一回サラリアン・ダラトラスから陰謀を持ち掛けられて、それに乗るってのはどうか。

 次は、功利主義的な発想で、プレイヤーは目的合理的にウォー・アセット最大化を考えたというもの。フェイク・キュアを用いたことはいずれクローガンにばれ、その場合、対リーパーズ戦にクローガンが参戦はしないだろうと考えるのが自然でしょう。あれだけのアセットを喪うのは惜しいという根拠。
 確かにそうではあるが、裏では失望したサラリアンの協力を喪うことも自然に想定できるわけだし、であればなぜ、ゲス・クォリアンの双方を救う結末を選ぶプレイヤーが十分に多くなかったのか?(全体のちょうど三分の一しかいなかった)

 そもそもウォー・アセット最大化をどれだけのプレイヤーが目指したのだろうと考えると、功利主義説もマイナーではないか。(レディネス100%を達成したプレイヤーが40%弱なので、意外と多いのかも知れませんけど)

 プレイヤーがカジュアルで、RPGの選択に慣れていなかったという説。
 まあ何%かはいるでしょう。ある選択がどういう意味を引き起こすかということ自体を考えずにプレイした人。ME2で「そして誰もいなくなった」エンディングに近い形を実現したプレイヤーだっているのだから。私はわざわざ狙わないとできないのに。

 テレメタリー・データーによればロング・サーヴィスのアチーヴメント(トロフィー)を獲得したプレイヤーが40%もいた。ME2からキャラクターをインポートするか、ME3を2回クリアしているプレイヤーのこと。このテレメトリー・データーの大勢がカジュアルってことはないでしょう。

 もちろん、これらのことも当然結果の一部分を占める理由ではあるのでしょうが、上に記載したような圧倒的な差を説明するには不十分だと考えます。

 両者の結果の違いには、もっと違った理由があるはずです。もっとユニヴァーサルで、腑に落ちる理由があるに違いない。
 いつものように佐藤優氏、大澤真幸氏ほかの論者の方々からの受け売りを並べていくとだいたいわかってくると思う。

 最初に(ずいぶん前になってしまったが)、これは自由と正義の話である、と書きました。種族と文明の存亡についての物語ですから、それ自体は容易にわかりますね。そしてそうであることは間違いない。

 ところが、さらにうっかり、これを民族(国家)問題と書いてしまいましたが、ここが違う。それもまた理解しやすい点では同じです。自由と正義なしに「民族」(nation)はない。もっと具体的にいうと、「敵」なくして民族は存在しない。自由と正義を損なう存在が「敵」であり、敵がいるから民族が生まれた。

 決して逆ではないので十分ご注意ください。まず民族が生まれて、それから敵を作るのではない。「敵」を設定することで民族(なる概念)が成立した。昨今この島国に暮らしているだけで「敵」呼ばわりされている住民なら、よほどぼんやりした人でなければ、改めて言うまでもないことでしょう。「民族」なる概念は古代からあると勘違いしやすいのですが、生まれてからまだ何百年も経っていない。「国民」も「国家」も同様。島国住民の場合は、さらに翻訳語で理解しろと言われてきたから腑に落ちるはずがない。

 「国家」(state)は、合法的に住民の自由と正義を制限する。民族は外部(「敵」)に向いているのに対して、国家は内側に向いている。国家と民族はもちろん同義ではありませんが、両者の辻褄を合わせ、整合させようという代物が「国民国家」(nation-state)なる概念。必然的に単一民族国家思想に向かいやすいし、本来そういう意味だったのですが、必ずしもそうでなければネイション・ステイトが成立しないわけでもないし、単一民族国家創造は現実問題として極めて難しい。
 これも島国住民が勘違いしやすいことですが、この国は単一民族国家ではない。かつてそれを目指していたとしても、実態が非常にそれに近いという世界でも稀な存在であっても違う。

 最初はそこらへんのネタでまとめんだろうなと思っていました。MEがそうした「今日的な」諸問題の周辺的要素を借用して物語を構成しているのも間違いない。アップリフト(パトロン種族による知性化)や人工知能の創造は、民族(種族)を中心に考えると「植民地主義」などの概念と類比的である。

 だが、よくよく考えると答えはそこ(だけ)じゃなかった(結局、答えを思いついていなかったんかい)。こじんまりとまとまる話ではなかった。

 ゲス・クォリアンとクローガンの物語は、種族と文明の存亡に関するものでした。シェパードの物語全体も、銀河文明(生命体)の破局と滅亡に関するもの。マトリョーシカ・モデル。

 キーワードは絶滅(extinction)と破局(catastrophe)だったんですね。

 生物学の世界では、絶滅と破局には、三種類の類型しかないという説があるそうです。生物学の議論なので「遺伝子」を中心に論じられていますが、文明の滅亡まで考えると、「伝統」(あるいはその集大成としての「文化」あるいは「文明」そのもの)と置き換えてもいいかもしれない。さらに言えば特定文化(例えばヴィデオゲーム!)の世界の考察にも当てはめると面白そうだ。

 ・公正なゲーム(fair game)

 繁殖戦略上、遺伝子が優位な種が生き残り、不利な種が絶滅する。「進化論」の典型的なシナリオ。

 ・弾幕の戦場(field of bullets)

 映画"Saving Private Ryan"「プライベート・ライアン」(1998)の冒頭オマハビーチ上陸戦のように、生き残りを決定するのは「運」である。生存は「確率」が支配している。隕石の衝突、火山噴火、地殻・気候変動によって「たまたま」運悪く居合わせた種が滅び、難を逃れた種が生き残る。

 ゲス・クォリアンの抗争は前者である。遅れてきた(後から生み出された)知性(文明)であるゲスが創造主クォリアンを母星から追いやることができたのは、生存適応性が優っていたからである。遅れて銀河に進出したヒューマンが、シタデル種族と伍していけるのも同様である。ヒューマンの武器は遺伝子の多様性(適応能力)だ。

 後者では例えば、リーパーズ侵攻ルート上にあったという理由だけでまっさきに滅亡の危機に瀕したバタリアンがモデルになる。だがリーパーズの絶滅戦略は恣意的であり、結果的に一定知性を有する種族はことごとく絶滅の憂き目にあう(少なくとも本来有していた遺伝子形態を維持できない)ので、一時的・表面的な類比である。

 「選択性」の有無によって、このふたつは排他的に言い表せてしまっている。前者では(意図的かどうかとは無関係に)有利な生存戦略を選択した種が生き残り、後者では種の選択は生存についてなんの意味もない。

 だが、上の二つのどちらにも含まれない第三の類型があり、それが非常に厄介だという。
 長くなったので次回。(今度は逃げないですぐ書くから!)

EVA:Q、DD:DA

 EVA:QのBDとDD:DAのBDが両方一緒に届くとか、この連休引きこもり甲斐がありすぎます。

 結局上映からBD発売まで半年近く観れなかったけど、EVA:Qカンペキですねえ。不覚にもジンときてしまった。
 予備知識ほぼゼロのまま観たので、冒頭シーンでは、うわっ、今度は「エウレカセブン」にしちゃったのか、とメチャクチャひきそうになったけど、しっかりエヴァ、というかエヴァ以外のなにものでもない。「意味不明」という世の中の評だけは聞き知っていたが、もとから意味不明な話だから今更仕方ないし。

 十四年経っても、パイロットたちがアラサーでもキャラクター造形ほとんど変わらないとか、「エヴァの呪縛」という以外何の説明もなかったはずだけど、それも含めて余計な説明は一切省略、いろんな意味で(機体番号まで)何もかもバッサバッサと切り捨てて強引に進行していくのも気持ちよすぎます。
 Q(急、quickening)だけに?

 お前、アスカ(と二号機改)が活躍してるから誉めてるだけだろう?とか、別にいいだろう。むしろ「急」を象徴するキャラクターは彼女しかいない。

 ひとつだけ、お願いしたかったところ。

  「魂が消えても、願いと呪いはこの世界に残る」

 ここはぜひ「祈り」と「呪い」でお願いしたかったなあ・・・。「祈り」は「祝い」であるし、「祝い」は「呪い」」と(漢字をみたらわかるように、そしてどちらも語源が「のる」であるように)成り立ちが対だから。(ちなみに「兄」は、もともとは「こども」の象形文字)
 「祝い」と「呪い」の対がエヴァの物語を貫く、でも(シンジ個人の話に比べたら)どっちかってとどうでもいいほうのテーマのひとつであることに違いはない。

 というようなゴミのようなケチ以外何もありませんでした。むしろ予告編の2+8に驚いたというか、あまりに悪ふざけが過ぎるというか。書き手サイドの女性観(の揺らぎ具合)をそこまで押し付けてくるのかと焦りましたけどね。

 セカイは野郎がわけもわからず自分勝手にぶち壊しにして、女性が必死に食い止める(二重の意味でメインテナンスする)。

 「セカイ」の物語を鼻で笑いながら、物語自身もなかなかそこから脱却できそうにないというところも、エヴァのエヴァたる所以ですねえ。マリの皮肉たっぷりの傍観者っぷり(「その(シンジの)顔見に行ったんじゃニャイの?」)と、そのくせアスカ・シンジの物語に結局入り込んでいること(「せめて、姫を助けろ! 男だろ!」)が示していますね。アイロニカルな没入という態度・立場。

 BDには台本がついている。説明省略の多い物語で、かつ大音響にかぶってなかなか聴き取れない部分もあるので、意外にもこれがうれしいのです。使い道はこの記事を書くことだけですが。

「・・・・・・・すごいね渚君。何でも出来ちゃうんだ」
「こんなのは知識に過ぎない。君より少しこの世界に留まっているからだよ」

**********

 DDDAのほうは、薄々予想されていたとおりのダンジョン一個だけコンテンツ追加と、極悪なプレイバランス(のなさ)なので、黒呪島(the Bitterblack Isle)探索からはしばらく逃避して、本編二周目を楽しんでいます。

 DDDAをはじめたときレヴェル80あたりでしたが、自分とポーンのクラス構成やレンタル・ポーンのメンツにもよって、運不運で手も足も出ないときがあるのは辛いねえ。
 完全マンチ向け、マッチョ全開ですもの。

 だからと言ってレヴェル200になったらサクサク勝てるのかどうかも怪しい感じだし(まず200にいつなるのか、なれんのかっていう自分固有の問題があるし)。

 本編も結構クエストやり残しているかと思ったら、「お嬢の散歩のお供」をやったところでクエスト・コンプのトロフィー。そのひとつだけできてなかったのか。

 ポーン・コミュニティの人口密度はさすがに低いみたい。自分のポーンの人気順位(間違いなく常時最下位近い)から推定しても、本編が盛り上がっていた頃の十分の一くらい?
 エキスパンションなのに本編並みのお値段ってのも関係あるかな。「日本語版吹き替え」の部分、私はあまり必要としない(当然ガイジンも必要としない)ので、高く感じるのかもしれない。インターフェイスまわりとか、色々本編より多少工夫されて便利にはなっているのですけどね。

 これでまた少しは儲けてもらって、DD2を開発することになればいいってことか。

2013年4月27日 (土)

All Sentient Beings

 いきなり冒頭からちょいと余談です(結果的にこの記事全部が「余談」となりました)。

 アメリカ人の著名なサイファイ作家ヴァーナー・ヴィンジの小説について以前にもご紹介したことがあります。
 今回の記事を書くため、まじめにMEシリーズのコーデックスなどを見ていたら、「ゲス」の記述に、ヴィンジの小説に登場するとある生命体とそっくりな部分がありました。

"Part of the geth's success is due to their neural network. Effectively, they "share" their processing power, distributing low-level processes like motor control and visual identification to free up bandwidth for higher reasoning and complex thought. Geth can't share sensory data-they aren't a hive mind like the rachni-but in large groups they have more to think with. An individual geth has only a basic intelligence on par with animal instincts, but in groups they can reason, analyze situations, and make tactical decisions as well as any of the organic races. An exception would appear to be Legion, a geth specifically designed to operate as an autonomous sentient unit outside the Perseus Veil. Legion possesses over 11 times as many geth programs as a standard geth platform and can function intellectually on its own."

 ゲスはネットワークを構成するソフトウェア知性という設定ですが、個別のプラットフォーム(例えばあのアンドロイド・ライクな筐体)で活動する際など、単体では「動物の本能程度の原初的な」知性しか発揮できない。ひとたび大きな集団を形成すれば、オーガニック種族と同等の推論、状況分析、戦術的判断力を行使することができる。
 上記に引用した以外の部分には「周囲に存在するプラットフォームの数が多ければ多いほど、またそれぞれとの距離が近ければ近いほど全体の知性レベルが向上していく」という記述もどこかにありました。「ネットワークの集積度」のことを言っているのでしょうか。

 ヴィンジの小説「遠き神々の炎」"A Fire Upon the Deep"(1993)に登場する異星人は、見た目は地球の「犬」にそっくりな形状ですが、生まれつき通常4から8体(便宜上「定数」と呼びます)の群れ(パック)を組んで集団行動する。群れ全体の集団意識が「人格(犬格?)」を有しているのですが、群れを構成する単体が何等かの理由(例えば死傷)で入れ替わればその分「人格」も影響を受ける。強制的に構成メンバーを入れ替えると人格改変もお手軽にできてしまう。

 この異性人(犬)が例えば兵士として戦闘に参加する場合、「定数」どおりの群れを組んでいる間であれば、高度な知性を保持して優れた行動力を発揮する。しかし群れに属する単体が被弾するなどして「定数」を割り込んでいくと(損耗していくと)、ユニットの「人格」の知性レベルが次第に低下し、半減以上の損耗で「ぼんやりとした」知性しか発揮できなくなり、単体ではほとんど知性を示せないような状態になってしまう。

 Mass Effect(2007)がヴィンジの作品をパク・・・、そこからインスパイアされたかどうか定かではないですし、グループ・マインド(集団知性)の発想は多かれ少なかれ似てくるのでしょう。ME2ミランダの造形は別の著名なサイファイ小説「ベガーズ・イン・スペイン」(1993、ナンシー・クレス)の主人公とよく似ているのですが、これも遺伝子操作ネタの行きつく先は結局一緒ということかもしれない。

 ヴィンジの異星人(犬)の群れの意識共有は「音波」で維持するので、多数の群れが集まると他の群れのノイズで邪魔されて意識の維持が難しくなる。そういう細かい仕掛けまではMEでは用いられていませんでした(ゲスのプラットフォーム間の意思疎通は光速通信で行われるため、正確性が常時担保される設定)。

 動物の「知性」っていう言い方に違和感があるでしょうか? 実は英語でintelligenceと言う場合の「知性・知能」には動物のそれも含みます。犬猫もまたintelligentな生き物です。逆にいうと犬猫並みの知性(浅はか)という程度の意味ですけど。猿の浅知恵、猿知恵っていいますね。(植物の知性の研究ってのもあるようです)

 サイファイ・ファンタジーの世界で「ゲス」など異形の生命体が「知性を有している」ことを示すときには、上の引用分にもあるとおりsentience(sentient)を用いることが多いです。DAの知性あるダークスポーン、ジ・アーキテクトもthe sentient darkspawnという表現で紹介されていました。sentienceは感じる力(ability to feel)を指し reason(論理的に考察する力、ability to think)と区別される。西欧ではもっぱら動物保護(animal rights)の分野で、犬猫にも苦痛を感じる力(ability to suffer)があるという文脈で用いられるようです。これからもわかるように最低限の原初的な知性(意識、感情、consciousness)を有している存在を指すことが多い。それだけに知性の中でも最も(論者によっては唯一の)科学的に解明されていない、説明できない部分でもあるという。

 ただしゲスやジ・アーキテクトの知性が犬猫並みであるわけはない。どう考えてもアップリフトされていない地球のチンパンジーやイルカよりはずっと知性的です。(もちろんサイファイ・ファンは「でも本当はイルカのほうがずっと賢かったんだよね」オチも忘れてはならない。「さようなら、さようなら、そしていつも魚をくれてありがとう!」(So long, so long and thanks for all the fish!))(記事末尾(注)参照)

 BioWareライターはじめ、サイファイ・ファンタジーの書き手が異形の知性生命にsentienceを用いるときは、仏教のall sentient beings、「一切衆生」をリファーしているのだと思います。キリスト教は人類しか救わない(なぜなら罪を背負っているのは人類だけだから)のに対し、仏教では生きとし生けるものすべてが輪廻転生を繰り返す定めにある(悟りを開いていない)ので救済の対象である。だから「一切衆生」は「生命すべて」と同義。一番大きな風呂敷で包んでいる感じですか。

 原初的ではない、より複雑な事象を取り扱える知性を指すときは sapienceを用いる。wisdom(知恵・智慧、Sophia:英知・叡智)と同義とされ、ホモ・サピエンスの語源。複雑で動的な状況に際して適切な判断を行うことができること。論者によってはintelligenceの一部としたり、別のものとみなしたりする。異形の生命体に用いる場合、sentienceとは違って「人類にずっと近い」、「人間そっくりの」知性を有しているというニュアンスがある。

 古くからある「知識があること」(intelligence)と「知恵のあること」(wisdom)の間の議論に入ってしまうと長くなるのでやめときますが、知識(knowledge)とは過去の知恵を蓄積して必要に応じて取り出すこと、知恵は知識を有効に使うこと、と考えればどちらも「知性・知能」にとって必要であることは間違いない。

 人間の心を表す側面、人間を人間たらしめている重要な資質のうち、Intelligenceに一般には「含まれない」ものには以下のようなものがあるそうです。

 Consciousness (意識、主観)
 Self-awareness (自意識、自我)
 Sentience(感じる力)
 Sapience(知恵)

 AIが人間の知性と同等あるいはそれ以上の知性(strong-AI)となるためにはこれらの資質を欠くことはできない。一方これらの資質を持ち合わせてしまったら人間と何が違うのか。「尊厳」を持ち合わせてしまっているではないか。人間の都合で破壊して(電源・動力源を切って作動を停止させて)よいのか。動物愛護と類比的にAI倫理の問題がはじまるわけですね。
(サイファイのよくある手口には、こうした側面の一部または全部を操作してみるものもあります。主観を有しない知性はありうるか、自我のない存在は表現できるか、感じる力だけを欠いたらどうなるだろう、知恵を欠いた存在ってどんなだろう、などなど)

 MEシリーズではVI、virtual intelligence (仮想知能)なる用語もわりとルーズに用いられていますが、こちらは単に人間を真似た挙動をするコンピューター・プログラムを指しており、AIのような自意識を有していない。よって(コントロール不能となった)ローグVIは「誤作動」の結果である場合がほとんどです。この場合は電源を抜くのが一番。ごくまれにAIなどに乗っ取られるケースもありましたが。

 以前も書いた通り、virtual realityを「仮想現実」としたのは誤訳だという説がある。virtual本来の「(実体の)根源的・本質的な部分を抽出した(もの)」という意味合いが消えてしまったというのが非難の根拠。この訳のおかげで日本語のヴァーチャルには「偽の」とか「空想の」という本来なかった意味が付与されてしまったそうである。
 virtual moneyがわかりやすい例だと思いますが、「贋金」でも「空想」でもなんでもなく現に通用します。「貨幣」の本質的な部分(流通手段、蓄財機能、価値尺度)がそのまま残っており、それ以外の部分が捨象されているわけですね。さすがに為替(兌換)レートまでは捨象できていないわけですけど。
 virtualに関する上の論拠が正しいとしても、ここまで普及してしまったら今更どうしようもないのですが、非常に興味深い話だと思います。

 個人的にはリージョンの人気もこの話に関係していると思います。N7アーマーの破片をどうして身に着けているのか「答えられない」、あるいは答えようとしないとか、オーガニックにとって致命的な環境が生み出されることをギリギリまで「伝えそびれる」とか、いかにも人間・・・、ヒューマン臭い面がある一方で、クリエーター・タリの心中を「慮(おもんばか)る」とか、果ては種族のために「躊躇なく殉じる」とか、ヒューマンでもなかなか持ち合わせないような美徳を体得している。良い面も悪い面もヒューマンの本質的な部分をチラリと垣間見せることによって、人間味(ヒューマン味?)が生まれるのでしょう。

 ゲスは「嘘」や「欺瞞」を用いることができません。データーを完全共有する集合意識ネットワークで隠し事は無意味なため、文化として騙すという発想がない。リーパーズの洗脳下にある間はどうかわかりませんけど。だからN7アーマーのくだりで「データーベースにない」とか言って黙り込んでしまう意味は素直に「自分でもよくわからない」が正解でしょうね。「無意識」ってやつが生まれているともいえますし、意識がなければもちろん無意識もない。(ちなみに犬(脳の大きな大型犬でしょうね)は嘘や欺瞞を用いることができるのだそうだ。まぢか?)

 サイファイに登場するAIとしては敢えて通りいっぺんの典型を守っているEDIと対照的に見えることを狙ったのかもしれません。「生命に関する根本的な疑問」とか、「恋愛について初心(うぶ)」とか、「たちの悪い場違いなジョーク」などがステロタイプの例ですね。さっきまで敵であったアンドロイドのボディを平気で使うなんてのも、ヒューマンとして持ち合わせているべき根源的な何かが欠けていたわけですしね。(あのボディに瀕死の重傷を負わされたアッシュ/ケイダンがEDIにそのことをなじるシーンってありましたっけ? 見逃したかな)。

 人工知能の問題は「人間の知性をどのように再現・代行するのか」ではなく「どの部分を再現・代行するべきなのか」という問題である、という説にも通じるようです。

 Fallout: New Vegasの最後のDLC、Lonesome Roadには、本編に登場するアイボットED-E(エディ)とは別の(でもそっくりの)マシン・コンパニオンが登場する。そしてクライマックス近くには、そのマシン・コンパニオンを犠牲にするかしないかという選択を下すことになる。

 プレイ当時の自分のブログを読み返すと、「その選択には残念なことにさっぱりジレンマを感じなかった」と書いてある。デザイナー・サイドは、このマシン・コンパニオンに「人格」を与え、プレイヤーにヒューマン(あるいはミュータント、あるいはグール、いちいち面倒くさいな(笑))コンパニオン、最低でも犬のコンパニオン程度のシンパシーを抱かせ、犠牲にすることに心理的な抵抗を感じさせようと企図したのでしょうか。それが私には全然通じなかったようだ。

 ED-E(ライクなアイボット)はプログラムされたロボットであって、リージョンやEDIレベルのAIではないはずだが、主人公クーリエとの同行の道すがら小じゃれたセリフを吐くし、まあ粋なやつではあるし、頼りになる相棒ではあった。でも感情移入はできなかった。

 (私のプレイの場合)ME3リージョンは自ら殉死を選んだわけで「まあ、それもしゃあないか」という感じではありましたが(このゲスに思い入れのない私ですら)多少はグッときました。例えばEDIがノルマンディもろともリーパーズに・・・、なんて結末がもしあったとしたらどうだったんでしょう。

 ED-Eライクとは何が違うんでしょう。付き合いの長さ? 親密度? でもリージョンとそんなに長い時間を過ごしたわけではないし、ストーリー説明用のセリフを除外したら、もしかしたらED-Eライクのほうがセリフの総量が多いかもしれない。
 ヒューマノイドの形をしているかどうか? あんまり関係なさそう。EDIがあの筐体を手に入れない場合を想定しても、やはりノルマンディSR-2(EDI)が再起不能となったら動揺してしまいそうです。ジョーカーなんてSR-1のときとは比較にならないほどのダメージを負うだろう。

 簡単には説明できない何かがあるんでしょう、きっと。
 ひっきょう、私とてたかがヒューマンでしかないのだから。

(注)映画「銀河ヒッチハイク・ガイド」”The Hitchhiker's Guide to the Galaxy”(2005)

 映画冒頭のイルカの歌。笑っちゃうのは最初のあたり。
「ずっと警告してあげてたのに、君たちったら私たちのような知性を持ち合わせてなかったみたいね、だから無視してたんでしょ」

“We tried to warn you all, but, oh, dear / You may not share out intellect / Which might explain your disrespect”

 地球破滅の危機を察知したイルカたちは、惑星上から忽然と姿を消す。どこに消えたかって? さあ。

 以下、イルカの歌全文。

Dolphins: [singing] So long, and thanks for all the fish / So sad that it should come to this / We tried to warn you all, but, oh, dear / You may not share out intellect / Which might explain your disrespect / For all the natural wonders that grow around you / So long, so long, and thanks for all the fish! The world's about to be destroyed / There's no point getting all annoyed / Lie back and let the planet dissolve around you / Despite those nets of tuna fleets / We thought that most of you were sweet / Especially tiny tots and your pregnant women / So long, so long, so long, so long, so long! So long, so long, so long, so long, so long! So long, so long, and thanks for all the fish!/ If I had just one last wish / I would like a tasty fish!/ If we could just change one thing / We would all have learnt to sing!/ Come one and all / Man and mammal / Side by side / In life's great gene pool!/ So long, so long, so long, so long, so long / So long, so long, so long, so long / So long, so long and thanks for all the fish!

2013年4月23日 (火)

クォリアン・ゲスとジェノフェイジ・キュア

 前回の最後の話題はなかなか分かりにくかったと思いますが、わかりにくくて当然です。 
 「特定文化背景や歴史文脈に回収できない残余、普遍的な何か」なんて説明することはできないのです。説明できるものは回収されてしまうから。

 とはいえ、物語は一旦文脈化(文脈に回収)してしまわないと、何が説明可能か、残余かわからない。そして、よく考えたらそれが本題でもありませんでした。  

 クォリアン・ゲス戦争、クローガン・ジェノフェイジの話題に行きましょう。

 この二つはほとんど同じと言ってもいい、とても似た形を有している物語です。
 でも、そこに何かの違いがある。だからほとんどのプレイヤーはジェノフェイジ・キュアを実行したのに、ゲス(またはクォリアン)を救わなかったプレイヤーが相当程度いた。
 その食い違いの理由はどこら辺にあるのか。それがテーマでした。
  
 クォリアンとゲスの物語を整理するとこんな感じです。
 
・クォリアンは、使役用・戦闘用のネットワークAIを開発し、「ゲス」(人々の僕)と名付けた。
・クォリアンの忠実な僕であったゲスはやがて自己進化をはじめ、自我を獲得した。
・クォリアンは予想外に進化したゲスに脅威を感じ、その抹殺を図った。
・破滅の危機に見舞われたゲスは、クォリアンに対し存続をかけた叛乱の戦いをはじめた(1895CE)。
・決戦に敗れたクォリアンは母星系から追放され、流民化を余儀なくされた。
・ゲスはクォリアンの母星系にとどまり、以降300年近くの間、シタデル宇宙に姿を現すことはなかった。

 クローガン・ジェノフェイジの物語はこんな感じ。

・サラリアンは、滅亡寸前であったクローガンの戦闘力に目をつけ、アップリフト(知性化、宇宙航行可能種族化)した(80CE)。
・ラクナイ戦争(1CE-300CE)で驚異的な戦果をあげたクローガンは、母星系外へ居住する権利を得た。
・圧倒的な繁殖力を支えるため居住宙域を拡張しはじめたクローガンは、テューリアンなどとの間の宙域紛争から武力衝突を引き起こす(700CE)。
・クローガンとの戦いで劣勢挽回が困難な状態に追い込まれたテューリアンは、サラリアンの開発したジェノフェイジ・ウィルスを用いてクローガンの繁殖力を抑制し、兵員補充力を損ねることに成功する。
・戦争に敗れたクローガンは、ふたたび母星系に閉じ込められ、シタデル主要種族の監理下におかれた(800CE)。

 とても似ているところは次の部分。いずれも他者によって「知性」を付与された存在が、進化(増長)し、知性を付与した他者の手に負えなくなっていき、衝突する。

 AI開発 → 自己進化、自我の獲得 → 抹殺の危機、叛乱戦争
 知性化 → 市民権獲得、増殖・増長 → 宙域拡大、武力衝突

 なんてこたない、単なる「思春期」、「反抗期」の文脈ですね。しかもお互いよく似ている。

 この後はちょっと違いますが、理由はともあれ「引きこもり」はいっしょです。

 叛乱に勝利 → 創造種族追放 → 創造主の母星系に引きこもり
 生物兵器の被害 → 戦争に敗北 → 母星系に監禁

 「親」との戦いに勝って、悠悠自適の引きこもり状態になるか、カツンとやられて軟禁されるか。

 MEシリーズが開幕するまでの、概ね300年くらいにわたるお話はこんなところでしょう。

 さて、今までの歴史のお話が標準世紀(100標準年)単位であったのに、MEシリーズは2183 CEから2186 CEのたった三標準年間の出来事。うち二年間はシェパードの蘇生のためにあてられているので正味一標準年くらい。

 たったこれだけの間で、どちらの物語も異常な進展を見せています。

 まずクォリアン・ゲス。

・プロシアンの罠により、リーパーズ軍団を召喚するためには直接シタデルに侵攻することを余儀なくされた尖兵ソヴリンは、敵陣突破用の戦力としてゲスを「勧誘」した。
・ゲス・プラットフォームの一部は、ソヴリン(ゲスにとっての呼び名は「ナザラ」)の勧誘を受け入れ、シタデル銀河種族と交戦する。(ME1)
・ソヴリンの勧誘を受け入れなかったゲス・プラットフォームは、ソヴリン撃破を成し遂げたシェパードに関する調査を行うため、オーガニックと交流可能なユニーク・モバイル・プラットフォーム(リージョン)を派遣する。(ME2)
・一旦リーパーズと袂を分かつことに成功したゲスであったが、今度は母星奪還を企図したクォリアンとの間で、互いの存亡を賭けた全面戦争に直面する。
・滅亡の危機に見舞われたゲスは、再度リーパーズの「勧誘」を受け入れ、その「洗脳下」に入る。リーパーズによってプロセシング・パワーを増強されたゲスは、クォリアン艦隊を次第に押し戻し始めた。
・ノルマンディ号はクォリアン艦隊と連携し、ゲス洗脳シグナルの発信源であったリーパー・デストロイヤーを撃破する。
・リーパーズの影響から解放されたゲス艦隊は同時にパワー増強も喪失したため一時的に弱体化し、クォリアン艦隊は殲滅の絶好の機会とみて一斉攻撃を敢行する。
・一方でリージョン(またはプレイスホルダー)は、自らの知性をゲス・ネットワーク全体に伝播(アップロード)しようとする。それを許せばゲスの戦力は強大となり、クォリアン艦隊が交戦しても勝ち目はない。一方でそれを阻止すれば、無力化状態のゲス艦隊はクォリアンの集中砲撃を浴びて壊滅する。(ME3)

(この後は、プレイヤーの選択によって大きく結末がわかれます)

 クローガンとジェノフェイジ・キュア。

 こちらでは、ME1とME2で銀河全体に影響を与えるほど重大な出来事ってのはありません。ME1でサレン(実際にはソヴリンの洗脳下にあった)がジェノフェイジ・キュアの開発に取り組んでいたとか、ME2でジェノフェイジ・キュアの生体実験が進行していたとか、チューチャンカの種族統一の兆しがあったとか、そういった事柄は省略可能だと思います。以下、ME3。

・リーパーズの侵攻によって自らも母星系に再起不能な打撃を受けたテューリアンの軍人指導者(プライマーク)は、リーパーズ阻止のカギとして宿敵種族であるクローガンの投入を提案する。
・クローガン代表は、参戦の条件としてジェノフェイジ・キュアを要求する。キュア実現のためには、サラリアンの治療実験から唯ひとり生き残ったフィーメール・クローガンの身柄を引き取り、クローガンの惑星チューチャンカまで護送する必要がある。
・繁殖力を奪還したクローガンが再び銀河に災厄をもたらすと危惧したサラリアン指導者は、フェイク・キュアを用いてクローガンを欺くことを画策する。

(この後は、プレイヤーの選択によって大きく結末がわかれます)

 整理するだけで疲れました。まだ少し整理がちゃんとしていない部分もあるかもしれませんので、もう少し見直す時間をかけることにします。
 解決編?ではない、解説編は次回。

 

 

 

 

2013年4月22日 (月)

ME3の話を書くつもりが、ファンタジー論

 ちょっと前の記事で紹介したME3のテレメトリ・データーについて、特にクォリアン・ゲス抗争、ジェノフェイジ・キュアに関して、前者ではゲスを支持するプレイヤーがやや上回っており、後者ではキュアをしないプレイヤーが非常に少なかったという興味深い結果について、すこし敷衍してみます。

 何がその背景にあるか、答えを最初に書いちゃえば、「今日的な」(relevant)テーマ、「差別問題」、「民族問題」、リヴェラリズム。
 流行りの「正義」と「自由」ってところに関連するので、それらは定義すら曖昧模糊としたテーマですから、いつものように長くなりそう。

 DAのゲイダーさんのインタヴューでも触れた「今日的な」テーマ。ME3でも当然のように数多く取り扱われていますが、サイファイ・シリーズであるから、むしろそれが普通のことであるとみなされる。

 例えば、ME2ミランダは高度な遺伝子操作などを駆使して生み出された、才色兼備の完全美人、360度どこから見ても十点満点の女性であるが、これは新生児の「生まれつき」を人類がいじってしまっていいのか、その結果として総体では悲惨な結果(選良主義、逆差別など)を生むのではないのかなど、サイファイではもてはやされていたテーマ。今やゲノム解読の進展でサイファイの話題でもなくなってきました。
 彼女個人としても「親子」や「家族」という極めて「今日的な」テーマで苦悩する姿が描かれている。

 違う意味で十点満点を目指して生み出されたME2のジャックは、反(アンタイ)ミランダを示す存在でもあるわけですね。彼女の「親」はサーベラス。ところが彼女はME3でエスパー・アカデミーの教え子たちという「家族」を獲得します。ミランダが最後まで家族を手に入れることができなかったというのが隠された皮肉。

 ゲス、リージョン、EDIなど人工知性・知能(AI)のお話は、今や何度も使いまわしされた感のあるテクノロジカル・シンギュラリティ(技術的特異点)のテーマであると何度も書きました。

 自らの知性を超えてしまった人工知性の挙動とその後の技術的発展を人類は予想できない。この世界を完璧に理解し、支配するのが神から人類に与えられた使命(天命)と考える白人種、もといクリスチャニティ社会にとっては、その前提が崩れてマシンの支配に脅える世界の到来は、考えるだけで頭がおかしくなりそうな重大なテーマなのです。

 もっとも作中のゲスなどは人類(もとい銀河諸種族)を超えた知性を有している設定ではなく、諸種族の知性を模倣している段階にとどまってはいるが、思考の効率が圧倒的に優れているという描き方になっています。

 ME2冒頭、シェパード艦長のリザレクション(復活)についても、今話題の再生医療テーマどころか一種神がかった話にまで昇華している。マン(オーガニック)・マシン(シンセティック)の融合体として銀河全生命体の犠牲になる(贖罪を一身に引き受ける)という結末が選ばれた場合には、サイバー・ジーザスとして印象づけることを狙った節もある。

 その他、種族内部での醜い政争、他種族に対する偏見と嫌悪、二級市民扱いされる戦闘に不向きな種族、大量の移民が生み出す種族のるつぼ、戦乱に伴う難民流出、流浪の民と約束の地など、政治・社会・文化面でも帝国主義的な銀河世界のあり様を余すところなく描いている。「今日的な」世界というのは帝国主義的な世界そのものですから、ここらはわりと簡単に変換できてしまいます。

 そうした間口の広さがサイファイの持ち味であり、同時に「今日的な」テーマを安易に取り込みすぎてサチュって(飽和して)しまった理由でもあると思います。MEシリーズで医療・生命、思考・知能(AI)に関するテーマが非常に多くなっているのも当然なのです。サイファイがまだ網羅的に手をつけていない、ジャンルとしてサチュっていない分野はほとんどそこら辺にしか残っていないという指摘は随分前からなされていました。

 アウター・スペース(すなわち銀河、外的宇宙)を舞台にはじまったサイファイ・ジャンルがあっという間に行き詰まり、結局インナー・スペース(生命、知能などの内的宇宙)に回帰せざるを得なくなったというのもかなり古くからある、手垢のついた陳腐な言説です。

 とは言っても、そこら辺のお姉ちゃんにきけば「サイファイ映画って宇宙の話ですよね」という認識に留まっているのも事実(ちゃんと確かめました)ですが、すき好んで銀河宇宙のことを描くのはサイファイに限られる一方で、生命・知能テーマってのはもうジャンルを超えてしまっている感もある。

 サイファイならすんなり受け入れられる「今日的な」テーマも、ハイ・ファンタジー、ダーク・ファンタジーであるDAに持ち込むと違和感を抱かれてしまう。
 その理由のひとつとして先入観がある。これまでそのような試みに成功した実例が少なかったからである、というのがゲイダーさんの説。

 最近ではTVシリーズ化のせいで、あちらでは大変な人気を博しているというジョージ・R・R・マーティンの"A Game of Thrones"(「七王国の玉座」、TVシリーズのタイトルは"Game of Thrones" )をはじめとする"A Song of Ice and Fire"シリーズが稀有な成功例と言われることもありますが、描かれているのは中世欧州の史実を下敷きにした架空世界における政治闘争、人間群像であり、そう書いてしまえば凡百の王宮物語と何も違わないことになってしまう。
 それなのにあのシリーズがなぜもてはやされているのか、なぜ「今日的」なのか、実はDAシリーズの人気と通底しているのですが、その理由は下で説明します。

 なお、ハイ・ファンタジー、ダーク・ファンタジーなどと分類する際の定義には、例によって確固としたものはありません。が、屁理屈大好きなので少し(というかいつもどおり長めに)横道に入ります。ネタ元はWikipedia(en)。

 ハイ・ファンタジー(High fantasy)はエピック・ファンタジー(Epic fantasy)と同義とされることも多いようですが、現実世界とは厳然と隔てられた架空世界を舞台に、壮大な(エピックな)英雄譚や叙事詩的な物語が展開されるもの。「ホビット」、「指輪物語」が嚆矢でありかつ典型ですが、この類型の創作は数えきれないくらいありますね。アニメの代表例なら「ナウシカ」がそう。DAも、Skyrimも、The Witcherもそう。

 じゃあ、カーター大将軍とか、オーラバトラーのパイロット(トッド・ギネス!)とか、ウルティマのアヴァターなどのように、主人公がこの現実世界(を模した物語世界、順番にヴァージニア、ボストン、英語圏のどこか)から架空世界(順番に、火星、バイストン・ウェル、ブリタニア)に放り込まれる、あるいは行き来する設定の場合はどうかというと、これも含まれるそうだ。「指輪物語」など純粋に架空世界を舞台にしたものが第一類型とすると、こちらは第二類型。

 「不思議の国のアリス」もそう、「オズ」もそうだし「千と千尋」もそう(どれも少女のある時代の夢想という同工異曲)。ある意味では「ネヴァー・エンディング・ストーリー」もそうか(こちらは少年の夢想、つうか物語作中人物との同一視)。

(ちなみにオーラバトラーの先駆け「ダンバイン」はもともと「ナウシカ潰し」として富野氏が送り込んだのだそうですが、どっちが勝ったかよく知らんし、倒錯した愛情表現、近親憎悪と言う説もある)

 第二類型とは微妙に異なり、現実世界の一部として架空世界が含まれている、ある意味で同居している、例えば「ハリポタ」シリーズはどうか。これもまた第三類型として含まれるそうです。

 トリッキーな設定ではありますが「もののけ姫」がそう。トリッキーという理由は、物語の舞台の大部分を占める戦国時代の日本の「中央」を模した現実世界に対し、主人公の生まれ育った辺境の北の国が現実世界に属しているのにも係らず(「中央」の視座から見ると)ある意味で「おとぎの国」なんですね。もちろん物語のクライマックスで森の神が登場する舞台が「おとぎの国」であることはすぐ理解されるでしょうが、全体の構成はそれだけじゃなく入れ子になっていて、かなりひねってます。

(ただし、「もののけ姫」には薄汚い現実(合理)がそこかしこに描かれているため、ファンタジー(神秘)成分が非常に高いにも係らずハイ・ファンタジーと呼ぶことすら躊躇したくなってしまいます。後述するロー・ファンタジーに含めるべきかもしれません)

 これらの定義もクリアカットではない。色々つっこみどころ満載なのはおわかりですよね。例えば、第一類型にあげた「指輪物語」のミドルアース(中つ国)、設定上はかつての現実世界だったわけです。あそこで語られている時代の後、極端に短命だが、それゆえに多様性を確保しやすい(ダーウィニズム的に適応優位な)ヒューマンがやがて世界でドメインな種族となっていって、今のこの世界、現実世界が築かれたことになっている(このノリはDnDのフォーガトン・レルムズがそのままパク・・・、借用しています)。
 そうであるなら時間的な流れを伴う第二類型であると主張することだって無理じゃない。

 あるいは、バイストン・ウェルが物語の中で最後どうなったかよく覚えていないけど、例えば現実世界との境界が揺らいで両者が融合していくというプロットもままあるわけで、これは第三類型なのか、それともハイ・ファンタジーではないのかどうなのか。

 これらに対してロー・ファンタジー(Low fantasy)ってのがあるかというと、ある。この場合の「ロー」は物語におけるファンタジー要素の配合比率が相対的に低いことを示すそうだ。
 現実世界(あるいは現実同様の合理に支配されている架空世界)に非合理な架空の存在(妖精など)や説明のできない事態(魔法ライクな効果など)がもたらされる物語などを指すそうです。Wikipedia(en)には「ピノッキオ」や「グリーンマイル」などが代表例として示されていますが、この手の創作は枚挙に暇がないでしょう。靴屋のこびと、コロボックル伝説。宮崎アニメでそろえるなら「トトロ」か「アリエッティ」か。

 現実同様の合理に支配されている架空世界のロー・ファンタジーには「コナン」なども含まれる。確かに、シュワちゃん映画の「コナン」(1982、"Conan the Barbarian")に登場した魔術師(The Wizard)って最後までなんで同行してたのかわからんくらい魔法を使わない。単なる知恵袋的存在でしたか。同名の2011年版の映画のほうは悪のソーサラーとそのカルトが登場するにもかかわらず(そして魔法がプロット上も重要な役割を果たすにもかかわらず)、やっぱりだいぶ抑制気味に撮ってました。

 かなり受けたのは、ハイ・ファンタジーがアングロ・サクソン(イングリッシュ)方面の創作であり、フレンチ方面にはほとんど存在していなかったという指摘。フランスのファンタジーは基本的にロー・ファンタジーに分類されるのだそうだ。それを言うなら、日本の昔話やおとぎ話も同様にほとんどがロー・ファンタジーですね。例えばドイツでも、かつてフランス文化(古典主義)の支配圏から脱却するためにロマン主義を標榜する運動があって、そのためロマンチズム過剰と言われるほどファンタジー好きな民族性があるはずなのですが、ハイ・ファンタジーっていう発想はなさそうである。

 ハイ・ファンタジーが生まれ、隆盛を極めた発祥の地はイングランド(ヴィクトリア朝)である。ドラゴンとウィザードの発祥の地もイングランドである(フレンチにはそういう発想自体がなかった)。アーサー王物語も指輪物語もそうだからなあ、となんとなくわかりますが、本当はどういう理由でしょうね。

 ここでようやくジョージ・R・R・マーティンの話題に戻ることができる。今やあちらではロー・ファンタジー全盛時代とされており、その代表とされているのが上述の"A Game of Thrones"をはじめとしたマーティンの作品群だそうな。

 形式的にはハイ・ファンタジーの世界設定(現実世界と隔絶した架空世界)を用いているのにロー・ファンタジーと扱われる理由は、物語が魔法や怪奇超常現象に頼らず、またヒューマン以外の異種族(デミヒューマン)も用いず(つまりファンタジー成分の割合が低く)、多くの登場人物たちの政治的葛藤やら確執やらの人間ドラマを描いているからだそうである。さらにハイ・ファンタジーがこれまで定番テーマとして用い続けてきた「善と悪の戦い」という構図もなく、登場人物は皆価値観が「グレイ」な存在とされている。

(ゲイダーさんもファンタジーの創作物が「古代の邪悪な存在が復活して世界を破滅に導く」プロットをあまりにいつまでも使いまわししていると苦言を呈していたし、登場人物の価値観が「グレイ」っていうのはDAの売りのひとつでもありますね)。

 なお、Low fantasyとDark Fantasyを同義とする説もあるようですが、これは、もっぱら邪悪を討ち平和を守るハイ・ファンタジーの典型に対して、ロー・ファンタジーでは「善悪の規範が揺らいでいる」という点のみを指しているのだと思います。ローなのにハッピーなものもあるのと同様、ハイ・ファンタジーであってダークなものだって、いくらでもあり得ますよね。

 一言でいうと、昨今ではお子ちゃまの喜びそうなおとぎ話(フェアリー・テール)ではなく、ファンタジー・ジャンルでも「アダルト」な物語が好まれているという、まあありがちな結論ですね。ヴィデオ・ゲームと同様に観客層がマチュアな世代にシフトしてきているのか、お子ちゃまの観客も目が肥えてきてすれからしてきているのか知らんけど。
 (おとぎ話の多くが「お子ちゃまを喜ばせる」ためのものではないことは、読者諸氏には言うまでもないですが)

 もちろん、何をもって「アダルト」というのか、というところがミソなんですが。

 予想どおりME3のネタになかなか行き着きませんが、ここまで書いてしまったので、ついでにもうひとつ。ME3の話は次回にしよう(おいおい)。

 上に書いたことに、こんな反論があるかもしれません。

 今日的だ、今日的だとあなたは言うが、DAも、MEも、"A Game of Thrones"などに描かれているものだって、中世欧州などの史実を下敷きにしているわけであり、それらがベースにした時代(や世界観)であっても現代であっても、人としての生き方、あり方は同じでしょう。どんな特殊な時代でも生まれた時には我々とさして大差ない人類が生きているのであるから、人間群像を描けばどの時代でも同じ(普遍的な)テーマに落ち着く可能性のほうが高いではないか。

 どうしてそれが「今日的」だったり、そうでなかったりするのか。全部一緒ではないのか。

 人類社会には古今東西の長い歴史を貫く「普遍的」な何かがあるのは間違いありません。それは否定しない。日本の古典でも西欧の文学でも芸術でも思想でも、読んだり見たりして感動することは可能だからです。

 だが、その理由が「どの時代背景であっても歴史的文脈であっても、人類社会にはどこか現代と共通する、似ているところがあるからだ」という説明は違う。もちろん共通するところ、似ているところはありますが、「ああ似ているね、一緒だね」なんてところで人間は深く感動なんてしない。心揺さぶられることはない。「親の愛は海より深い」、「女は強い(怖い)」、「野郎はいざというとき何の役にも立たない」、「悪の栄えた試しなし」。メロドラマみたいな成分しか共通しない。(メロドラマで感動するってなら、それはあなたの自由だ)

 むしろ共通しないから、物語世界が特異だからこそ感動を生む。私はグレイ・ウォーデンでもフェラルデン王でもなければ、カークウォールのチャンピオンでもないし、人類初のスペクターでもない。物語上の主人公と私はなにひとつ、一切、ヒューマンあるいはヒューマノイドである以外どこも「似ていない」。似ている人がいたらお目にかかりたい。

 ここから例によって大澤真幸氏の受け売りです。物語などが深い感動を呼び起こす「普遍的」なものとは、自分の属する特殊な文化に対して抱いている違和感、居心地の悪さ、嫌悪感、不寛容のことではないか。ある文化が自己のアイデンティティを保守しようとするとき、必ず抑圧される何かがある。その文化の特殊性(文脈)に還元できない、回収できない残余がある。それが普遍的なもの。

 物語の(あるいは古典の)主人公たちは、彼らの置かれた特殊な文脈の中で、この残余が文脈の中に取り込まれる(抑圧される)ことに違和感を覚え、抗い、葛藤する。
 それは私たちが今ここで、同じように自分の置かれた社会的文脈との間で感じている居心地の悪さ、文化の特殊性に自己同一化しようとするときにどうしても発生する違和感、内的な抵抗と共通している(普遍的である)。

 共通しているのは(普遍的なのは)、それぞれの特殊な文脈の中に回収しきれない、いかんともしがたい部分を有しているということ。

 大きな物語が死んだということは、つまりそういうことにも関連している。各人が共同体や社会、世界の中である物語を作って、そこに安住することがますます困難になってきている。できなくなっている。
 上にも頻出した「親子」とか「家族」などは、まさにひとつの「物語」でした。「親の愛は海より深い」とか「子はかすがい」とか、そういう決まり文句が今はもう通用しない。むしろMEのミランダ(ジャック)のように、あるいはDA2ホークのように、安定した物語を作ることのできない家族の関係が語られている。(DAOの主要登場人物でまともな、安定した親子・家族関係を築いている者は誰一人いない)
 "A Game of Thrones"も、きっとそういうことなんだと思います。

 「今日的」なものとは、この「普遍的」なもののことなんですね。それを「さもありなん」と思うかどうか、好んで付き合う気があるかどうかで「アダルト」かどうかが決まるってことなんでしょう。

【DA3】The World of Thedas, Hardcover版

 到着。

 ここは前記事のコメントで書いたとおり、バイストン・ウェルについて触れる予定でしたが(書いてねえし)、変更して表題のハードカヴァーが到着したことについて。

 早い、スレッガーさん、早いよ。

 過去記事を見ると、発注したのが日本時間4月19日(金)深夜のようです。一番送料の安い配達方法。太平洋船便のつもりだろうかETA(到着見込み)は6月初旬でした。Kindle版を予約したのでそれでもいいか、と書いてますね。

 えー、本日が4月22日(月)。配送手段の選択を誤ったと思って確認しても、Standard International Shipping となっています。

 最近のAmazon.comは、空きがあったらとっとと航空便に載せちまうんですかね。

 予想外の早い到着にかなり驚きました。

 で、とりあえずの感想です。

 サイズでかい。

 厚さは薄い。

 文字スカスカ。

 第一巻ってことだからでもないような・・・。

 個人的にはDnDワールドガイドのような濃密なテキストを期待していたんですが。DA2の公式ガイドブックより文字はスカスカ。

  11.9 x 9.1 inches というサイズは、あちらのイラストブックやコーヒーテーブル・ブックに用いられる写真集のサイズですね。

 これはあれですか、Dark Horse Comicsが出版元なので、敢えて文章量を抑えてイラストの比率を高めているということなんでしょうか。

 イラスト数はまあまあ多いのですが、掲載されているのは、あくまでDA2までの設定集やコンセプト・アートです。そういう意味ではタイミング的に遅すぎる。

 DA3がリリースされるまで、これ読んで楽しもうかなと思ったが、ぶっちゃけ時間があったら連休前に読み終わる分量です。トータルでも高校生の教科書並みくらいじゃないか。

 新しいうんちくも非常に少ないから、後日リファーするような使い方もしないでしょう。Kindle版が手に入ったころにはもう読まへん、という事態になりかねません。

 やることなすこと違う気がしてきてますよ、BioWare。

 Amazon.com早えーよ、だけが印象として残ったイヴェントでした。

2013年4月21日 (日)

Dragonbornでリハビリ中。

 周回遅れネタ。
 ME3のCitadelもクルー再結集までは進めたのですが、そこで一旦停止中。あちらは本当にシェパード・シリーズのフィナーレを迎えることになるのがわかっているので、最後は結構動揺しそう。

 そこまでの思い入れはないSkyrimから。
 でも、私はどうやら勘違いしていたようで、SkyrimのDLCはDragonbornで最後だそうです。

http://www.gamespot.com/news/skyrim-team-moving-on-to-next-project-6406961

 もう一本出ると思っていたのは、"Redguard"なるDLCの話題があったからだったと思いますが、その時は忙しくて確かめもしなかった。今調べてみたら正真正銘のガセネタだったようだ。

 自分がマイホームづくりに乗り気じゃなかったせいもありますが、ストーリーDLCとしてはDawnguardとDragonbornの二本というのは、ちょっと少なすぎると思っていた。

 長い。かなりかかりますね、これ。
 IGNのレヴューによれば、6から8時間のコンテンツとありますが、例によって私の場合はその二倍以上かかりそうだ。逆にメインクエストだけプレイしたら本当に6時間で終わるのか、これ?

20130413_00001_r
 まさか毎回船旅じゃないだろうな、と当初ひいたのですが、ファスト・トラヴェルの存在に途中で気が付きました。貯めこんだクラフティング用の資材類は全部スカイリムに置いてあるので、そうじゃないときつい・・・。

20130414_00002_r
 火山灰に覆われた集落。それにちなんだ新モブも登場。

20130414_00007_r
 週末にずいぶんやりこんだつもりですが、メイン・クエストでいえばこのような石碑を全部ようやくあれしたところくらい。だからレヴューもまだできない。ドラゴンにも乗れていない。

 Solstheimといえば、Morrowind/Bloodmoon。私のそちらの経験はだいぶ忘却の彼方に消え去っている。なにしろ十年前ですからね。でも首都を描いた方のエキスパンションであるTribunalはなぜかよく覚えているのが不思議。

20130420_00037_r
 あちらでも、このNordの街はありましたね。

20130414_00005_r
 Dragonbornに登場するウィザードの住むキノコのおうち(ん、それオモチャかなんかにあったな)。

 Morrowindのウィザード・ロード(ハウス・テルヴァニ)の住処は確か階段を使わないで魔法で移動するのだ、とかなんとか言われて大変面倒な思いをした記憶も蘇った。そちらはキノコではなく大木かなんかを利用して築いていたはずだが。何度訪れても複雑な構造の屋敷の中をまともに進めなかった。

20130414_00011_r
 パズルも斬新なものがあってなかなかいい感じです。ここのパズルは、正直結構受けました。

20130414_00020_r
 またかよ。Hermaeus Mora。

 一方、今回もOblivion編でぐったりしてます。しかも重要なんだね、これ。
 私の場合、Oblivionに入る際にはまず最初に心構えがいるのです。Dawnguardのときのように自分で「ほな行こか」と始められるものはいいのですが、こちらの場合は長い長いダンジョンなどを抜けてほぼクリアというところで、「あーっ」と気が付いたらブラックブックをクリックして飛ばされてしまうことがほとんど。リハビリ中の身には疲れます。

 DAのFadeといい、これもRPGの定番なのはわかるのですが、うーん。

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 ようやく、ドラゴンボーンとリディア、Nordのふたりに似合いそうなオフィシャル・アーマーをもらえた。
 性能はともかく、デイドリック・アーマーのペアルックってのは、見た目あまりいただけなかったから。

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 最初はずっとドラゴンボーンの実の妻であるリディアと一緒の旅だったのですが、ジモの彼女(フレア?)と出会ってからは、乗り換えてしまった・・・。っても妻じゃなくて同行者、コンパニオンのことですよ。

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 ドラゴンボーン同志の対決の答えが、なんだか最初から見えている感じがするメインクエストよか、あたしはウィザードの墓暴きのほうが俄然燃えます。いや、燃焼しているって意味じゃなく、情熱のほう。

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 リッチ(高級ウィザード・アンデッド)が全部で何体出てくるのかわかりませんけど、わくわくしてしまう。
 ちなみにこの新登場のシミター・ライクな二刀流レガシー・ウエポンは途中からHP/MPドレインが利かなくなったくさい。バグなのかなんなのか知らないけど。ソウルのチャージは欠かさずしてますけどね。

 チャージといえば、ドラゴンボーンのレヴェルアップ制限(計算上81かな)を解除するため、100まで極めたスキルを一旦15まで戻す趣向がつきましたよね。
 でもそれによってせっかく取得したパーク(個々の特典)までチャラになってしまう。

 最初よくわからなかったので、すでに100ポイントに達していたエンチャントメントをクリアしてしまったのです。ほとんど最初からやり直し・・・。ドラゴンボーンはレヴェル60あたりだったから、今解除する必要もなかった。

 ほっといても上がっていくコンバット・スキル(ツーハンデドとかアーマーとか)にするべきだったのか。まあ素材は山ほど手に入るので、すでに80近くまで復帰してはいるのですが・・・。新アーマーにふたつのエンチャントメントをつけるためには100ポイント必要なので我慢が続く。

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 Bloodmoonは、ウェアウルフ初登場だったんでしたっけ。
 このドラゴンボーンはすでに最初からそうですが。

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 だから地元の同類のお姉さまたちと、なんかあるのかなーと期待したんですが、今のところ何も起きないみたい。何を期待してるんだと。 

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 シャウトも本編の使いまわしではないわけだし、ちょっと驚きました。

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 また別のアーマーセットもある。

 この規模のコンテンツ、今風のDLCという呼び方でくくっちゃうのがいいのかどうか。往年のエキスパンション・パックのデジタル配信並みの分量ではないでしょうか。

 もちろんベースはSkyrimだから、めちゃくちゃ驚かされるようなノリのクエストがあるわけじゃないし、ドラゴン空襲も結構頻繁にあるし(しかも嫌らしい仕掛けがあるし)、同行中にコンパニオンが逐一気の利くセリフを言うわけでもない。

 でもベースが完成しちゃってるから、この水準でこの規模の新コンテンツのDLC作れるわけですよね。ひとつの完成形ですねえ。

 すでに取り掛かる後先によって選択できなくなってしまったコンテンツ(ミード鋳造所のやつ?)も発見してしまったので、別のドラゴンボーンでもやってみないといけなくなりました。

 プレイヤーの時間をどれだけ長く占有するかがゲームの優劣を決めるなら、(英語版はすでにリリースから1年半を経過している)Skyrimは、相当優れているってことになるんでしょう。どうやら最低2年くらいは遊ぶことになりそうです。Steamの時計によればプレイ時間500時間台に突入するのもそう遠くはないようだ(笑)。 

2013年4月20日 (土)

【DA3】The World of Thedas、Kindle版

 あーっ、気が付いてよかったーっ!

 Dragon Ageの”The World of Thedas Volume 1”、しばらく前にAmazon.co.jpでハードカヴァーを予約注文していたが、あちらではすでに出荷されているという記事がDAWikiのユーザーブログに載っていた。

http://dragonage.wikia.com/wiki/User_blog:IlidanDA

 そこからリンクされているDark Horse Comicsのサイトを覗くと、ハードカヴァー版はすでに発売開始されていることを確認。
 
 そこで嫌な予感がした。まさかデジタル版も同時発売とかされているのではなかろうか。
 少なくともDark Horse Comicsにはなかったのだが、Amazon.co.jpを覗いてみると・・・。

 ありましたKindle版。予約すると5月1日に私のKindle Fire HDに自動配信されるそうな。
(iPadもAndroidも利用可能端末であるとは書いてあるが、なんかアプリがh必要なのでしょうね。私は存じ上げないのでご利用は自己責任で)

 しかも、お値段はハードカヴァー版の半額である。

 あわててKindle版を予約しました。ここまではいい。

 問題はずっと前に予約していたハードカヴァー版の取り扱いである。

 デジタル版があれば、もう分厚いハードカヴァー版はいらないかなあ・・・。
 でもコレクターズ・グッズ的な意味はあるのかなあ・・・。
 Volume 2以降もいずれ出版されたら棚に一緒に並んでると恰好いいんだろうなあ。
 この手のものは発売後すぐに品切れになって、再版されないことも多いしなあ。

 Amazon.comを覗くと、送料込みでAmazon.co.jpよか安いんですよね。
 もちろん運賃をケチって船便ですから到着は1か月以上先になるが、それ以前にKindle版を入手しているはずだから閲覧はそっちでできるし。

 しばし熟考(3分くらい)。
 
 Amazon.co.jpの予約をキャンセル。どっちみち、”Dragon Ag”とかふざけた書名で放置していたしね。
 Amazon.comで注文。

 結局両方購入して出費が増えてまんがな!

 BioWare亡者だし。

 紙の本の手触りと、あの洋書のインクや糊の匂いに取りつかれている古いタイプの人間でございます。
 

2013年4月18日 (木)

【ME3】テレメトリ・データー

 すみません、だいぶ古い記事見落としていました。3月末の映像です。

 PAX EASTのMass Effectパネルで、シリーズ恒例となったシングルプレイヤーのテレメトリー・データが紹介されています。ディレクターのケーシー・ハドソンはじめ開発スタッフも登壇している。

http://www.ign.com/videos/2013/03/24/mass-effect-3-statistics-many-people-murdered-tali-pax-east-2013

 まずケーシーは、多くのプレイヤーがパラゴンを選んだことが印象深いと述べています。

・パラゴン 64.5%、レネゲイド 35.5 %

 ME3でパラゴンがこんなに多いのは意外ですね。やっぱシェパードは「兵士」だからかな。
(以前SWTORのローンチ直後のデーターがあって、あそこではシス(ダークサイド)をプレイするプレイヤーがジェダイ(ライトサイド)を若干上回っていた)

 ケーシーのお気に入りキャラクターであるレックスに関してはこんな数字。

・ME3でレックスと出会わなかったプレイヤー 64%

 BioWareのクリエイティヴ・ディレクターにしてME3のリード・デザイナーである プレストン・ワタマニューク(Preston Watamaniuk、発音は不確か)氏がショックを受けたのは次の数字。より多くのプレイヤーがクオリアンに対してゲスのほうを救っている。

・どちらを救ったプレイヤーが多いか

クオリアン - 27% ゲス - 37% 双方 - 36%

 ME3のファンにはオタクが多いから、AIであるゲス贔屓が多いのか。それとも、やはりあのクオリアン提督連中のダメさ加減を見切ったせいか。

 プレストン曰く、ゲスを救うということはタリを殺さなければならないことを意味するとパトリック(MEシリーズ・ライターのPatric Weekes氏、このたびDAチームに異動となり、同時にDAの小説を執筆することになった人物)のオフィスでふたりで話しあったのが開発中のもっとも印象深い思い出だったのだそうです。パトリックはそれが正しい展開であると頭ではわかっていながら納得するのに二日かかったという。
 (そのあと、ちょっと顔だけでは誰かわかりませんが別の開発者が、ジェノフェイジ・キュアを食い止めるためにはモルディンを撃たなければならなかったのと同じだね、と言ってますね。ME3ではモルディンもパトリックが担当しています)

・ジェノフェイジをキュアしなかったプレイヤー 8%
・モルディンを射殺したプレイヤー 3.8% 

 さらにプレストンによれば、かつてプレイヤーの選ぶクラスはソルジャーの比率がもっと高かったのですが、今作ではだいぶ低く落ち着いてきている。
 (ただしソルジャーが一番多く、エンジニアが一番少ないのは公開されたME2のテレメトリ・データーでもそうでした)

・シングルプレイヤーのクラス

 ソルジャー 43.7%
 インフィルトレーター 18.7
 ヴァンガード 14.3
 センチネル 10.2
 アデプト 8.1
 エンジニア 5.1

 その他、パネルでは触れられていない部分。

・ME3をコンプリートしたキャラクター性別

 男性シェパード 82%
 女性シェパード 18%

・100%レディネスを達成したプレイヤー  37.6%
・インサニティ難易度をコンプしたプレイヤー 4.0%
・ロング・サーヴィスメダルを獲得したプレイヤー 39.8%
(ME3を二回コンプする、または、ME2からインポートしたファイルでME3を一回クリアする) 

・もっとも用いられたスコード・メンバー

 リアラ 24.1 %
 ギャレス 23.8
 ヴェガ 16.8
 EDI 13.0
 タリ 7.8
 アシュリー 5.4
 ケイダン  1.5

・スコード・メンバーの生存率(サヴァイヴァル・レイト)

 ヴェガ 82%
 ギャレス 77
 リアラ 54
 アシュリー53
 EDI 44
 タリ 39
 ケイダン 17

 そして最後に。

・シタデルのシューティング競争でギャレスにわざと負けたプレイヤー(私だ!)

 58%

 みんなよーわかっちょるっちゅうの、ME3のプレイヤー諸君。

2013年4月15日 (月)

2013年はジャックポットか(dark side)

 前回のELYSIUMからはじまる2013年リストにある映画のトレイラーを全部立て続けに観たときに改めて思いましたが、ほとんどが「差別・格差」またはその反動としての「報復・復讐」、あるいは「滅亡・破滅」の物語なんですね。そこまでのレヴェルに概念化してしまうとDA2のテーマと何ら変わりがありません。

 しかもちょっと考えればわかるんですが、「差別・格差」と「滅亡・破滅」は非常に親和性(同居性?)の高いテーマである。「差別」からはじまり「暴動・革命」にいたり、果ては「体制転覆」てのはわかりやすい道筋だと思います(DA2の物語もその流れを彷彿とさせる)。
 「破滅」から逆に考えてみてもいい。人類文明(現代社会)が滅亡すれば、社会は(近代・現代国家という)暴力を独占した存在(暴力装置)のない原初状態に近い形に戻る。暴力が再配分され、当然のように格差(所有の再構築)と、そして差別(人間疎外)が再表出する。カタストロフィーもの、ディザスター・ムーヴィーでは定番ですね。

 ここまで考えれば、このように非常に限られた範疇のテーマを取り扱うサイファイ映画がなぜここにきて隆盛してきているのか、わかる気がします。これらの映画は「今日的」なテーマを取り扱っている、という言い方でもまだ甘くて、(少なくともハリウッド、すなわちUS、西欧文明から見た)「明日にでも実現しそうな」世界(社会)のあり様そのものを描いているんでしょう。破滅願望までいかずとも滅亡の予感。

 キャメロンの元妻(Kathryn Bigelow)監督の"Zero Dark Thirty"(2012)のように、「アメリカの戦争」をドキュメンタリー風にリアリスティックに描く社会派作品は、かつては映画の「主流」だったのでしょうが、今ではなんと「逆張り」になってしまっている。
 実際、そう昔でもない時代には、"The Insider"(1999)とか"Traffic"(2000)などのシリアスな社会派がもてはやされた時代があり、間違いなく映画の「主流」でした。

 その頃の映画で「差別」と「復讐」で言えば"Gladiator"(2000)があちらでは絶大な人気を博しましたが、ご承知のとおり「今日的」でもなんでもないベタな物語。サイファイ関係で「差別」、もっといえば「人間疎外」を描いたものでは"Minority Report"(2002)あたりがそうですが、あまりにサイファイ・サイファイしていて「今日的」なんてとても言えない。

 その時代でいえば「破滅・滅亡」ものも大変わかりやすい。サイファイものといえば"Armageddon"(1998)と"Deep Impact "(1998)が双璧ですが、他にも"Twister"(1996)、"Volcano"(1997)、"Dante's Peak"(1997)、"The Perfect Storm"(2000)などなど、この時代は極めてストレートなナチュラル・ディザスター(天災)ものが続けて制作されていた。なぜか同じテーマのディザスターものを複数の映画会社が同時に制作することもよくある話であった。この世界は"The Day After Tomorrow"(2004)あたりまで続いた。
 この流れには"Titanic" (1997)も含まれる、っていうといかにも恰好いいのですけどね。ちょっと言い切る自信はない。ここら辺には「20世紀末」っていう風潮もあったんでしょうね。

 こんな傾向がある時点から様変わりしました。「今日的」なテーマを、あるがまま直截的に取り上げることが憚られるようになってきた。身も蓋もないという印象を与え、観客から忌避されるようになってきました。
   敢えてそういうテーマを(変換が手っ取り早い、観客のリテラシーすなわち変換フォーマットがわりと信頼できるようになった)サイファイの舞台に移して、寓話化して描く風潮が蔓延してきた。

 それがいつからか、なぜかは説明不要だと思います。

 例として"Minority Report"と同じようにトム主演、スピルバーグ監督の作品、ウェルズの古典を再現した"War of the Worlds"(2005)をあげます。あの映画は非常に「今日的」です。あそこで描かれているのは「破滅の危機に直面して」、「いたいけな家族を抱えて」、「右往左往逃げ惑う」、「父親像」です。この類型の作品は、出来栄えはともかくとして"2012"(2009)もそうですし、人気TVシリーズも含めれば他にもたくさん出てきました。上の説明文のパーツそれぞれに意味があることを説明すると長くなりますからまたの機会にしますが、それらが実は「今日的」である証拠になっていると思います。

 と、ここまで書いてきて気が付いたのですが、この類型はなんとそのままDA2のホークの物語を言い表していることもわかります。形式的な面では「父親像」という部分が異なりますが、上でいう「父親像」とはすなわち「ダメおやじ」、「父親の(権威の、権威としての父親の)存在/不在」を表現しているので大きな違いはありません。

 そのように状況が変化してきた事態にうすうす(あるいはわりと完璧に)気が付いていたアカデミーや映画批評界は、だからキャメロンの"Avatar"(2009、なんと映画内の設定そのものが現実逃避でした)にネガキャンを張り、元妻が監督した「社会派」作品である"The Hurt Locker"(2008)を2010年のオスカー作品賞に選出したのかもしれない。とはいえ彼女の「アメリカの戦争」ものの二作目(上述の"Zero Dark Thirty")はさすがに「もう大概にしろ」という食傷気味の論調に押されてオスカー作品賞は逃してしまってる。

("Avatar"が現実からの逃避の物語であれば、"The Hurt Locker"は大澤真幸氏のいう現実への逃避の物語と言えるかもしれない。主人公は壮絶な命懸けの任務から抜け出す自由を得たにも係らず、危険な日常(現実)に舞い戻ってしまう)

 こんな風に考えれば、単純に2013年がサイファイ当たり年とは喜んでいられないことになります。「たくさんサイファイ映画が観れる」と無邪気に手放しで歓迎できないことになります。

 なぜなら2013年のサイファイ映画のリストの作品を見続けることは、ハリウッド映画人の(USの、西欧文明の)抱える病理を何度も何度も繰り返し、立て続けに見せつけられることを意味するからです。
 リストアップされたどの映画もまだ観ていない段階ですから、これはあくまで仮説です。ただ自分ではかなり自信がある説なので、敢えて全部観てみようと思っているわけです。

 もちろん、"Iron Sky"のフィンランド人監督が「おい日本人よ、君らもそっちサイドだぜ」と茶化したように、我々も西欧文明側に半身くらいはどっぷりつかっているので無傷では済まないのかもしれない。逆にクリスチャニティ世界の住人ではないのでそのダメージを100%引き受けることも決してないと思うけど。

(こんなことを書いている間にも、テレビでは日本・NATO共同宣言を発表と言っているし・・・。"Iron Sky"を笑えない世界がもう来ている)
 
 もしハリウッド映画でサイファイが「主流」の地位を占めつつあるのであれば、それはサイファイが「今日的な」テーマを引き受けるようになったということなのでしょう。ある意味でジャンルの成熟(脱ジャンル化)を示しているのかもしれない。
 それが一方では定型化・陳腐化した未来をこれでもかと量産して見せつけてくるようになってきたことを意味するのかもしれません。ジャンルの堕落? どうなのでしょうねえ・・・。

(DA2が「今日的な」テーマを手掛けているね、という最初の話も、同じように考えると、よく言えば同時代的、悪く言えばありがちなネタってことになっちゃいますね。まあ、みんな一度はやりたくなっちゃうんだろうな)

2013年はジャックポットか(near side)

 先日紹介したゲイダーさんへのインタヴュー記事の中に、DA2は(ファンタジー・ジャンルであるにも関わらず)極めて「今日的な」(relevant)テーマ群を多く取り扱っているというインタヴュアーの指摘がありました。そこで例示されていたテーマは、「差別」、それから「個人の自由と安全保障との間の葛藤」について。

 現代的なテーマを概念化して示すことは専らサイファイ(SF、sci-fi)が手掛けてきた分野であろうというインタヴュアーの意見に対して、ファンタジーであるからと言って自らテーマに足枷をはめるべきではないという趣旨の発言をゲイダーさんはしていました。

 昨今のサイファイ小説がいまいちな理由が、今日的なテーマを示すことが難しくなってきたからなのかどうかは意見の分かれるところでしょうが(実際にその説は随分前からありました)、こと映画に関してはそんな心配は無用のようです。

 映画は製作に取り掛かる前に何年もの長い時間アイデアを揉むことが一般的だそうなので、今でもその企画が死んだわけではないようですが、Mass Effectの実写版ハリウッド映画の企画についてちょっと盛り上がった時期がありました。
 自分のブログを検索すると、その話題が持ち上がったのは2010年5月あたり。もはや3年前ですね・・・。

http://vanitie.cocolog-nifty.com/blog/2010/05/me2-07a6.html

 上のリンク先の記事で引用されているIGNの記事などでは、「Mass Effectの監督は誰がやるべきか」について勝手に人選しています。
 (タイトルは過去の監督作品、公開年度はUSのもの、以下同じ)

・ジェームズ・キャメロン
James Cameron、"Aliens"(1986)、"Avatar"(2009)

・ジョシュ・ウェドン
Joss Whedon、"Buffy the Vampire Slayer(TV、1996-2003)"、"Firefly"(TV、2002-2003)、"The Avengers"(2012)

・J.J.エイブラムズ
J.J. Abrams、"Star Trek"(2009)、"Super 8"(2011)

・アルフォンゾ・クアロン
Alfonso Cuarón、"Harry Potter and the Prisoner of Azkaban"(2004)、"Children of Men"(2006)

・ニール・ブロムカンプ
Neill Blomkamp、"District 9"(2009)

・リドリー・スコット
Ridley Scott、"Alien"(1979)、"Prometheus"(2012)

・ダンカン・ジョーンズ
Duncan Jones、"Moon"(2009)、"Source Code"(2011)

・アレックス・プロヤス
Alex Proyas、"The Crow"(1994)、"Dark City"(1998)、"I, Robot"(2004)、"The Knowing"(2009)

 以下IGNの記事と同時期に別サイト(Den of Geek)の記事で触れられている人たち。

・クリストファー・ノーラン
Christopher Nolan、"The Dark Knight"(2008)、"Inception"(2010)、"The Dark Knight Rises"(2012)

・サム・ライミ
Sam Raimi、"Spider-Man"(trilogy, 2002-2007)

・ダニー・ボイル
Danny Boyle、"28 Days Later"(2002)、"Slumdog Millionaire"(2008)

 主要作品は「あの映画の監督ね!」とわかればいい程度に適当に選んでいます。だから「スラムドッグ・・・」はサイファイか?!とか怒らないように。
 さらにIGN記事掲載当時には公開されておらず、ここ三年の間に上映された(名の知れた)作品まで書き足しています。上演年でだいたいおわかりいただけるかと思います。

 当時は、サイファイ映画を撮れる監督がこんなに増えたのね、「うれしい」という率直な感想を述べておりました。だって、これは驚異的な布陣ですよ。しかもIGN(および他サイトひとつ)が勝手に選んだだけであって、これで網羅的でもなんでもないのです。

 まあ、さすがにマイケル・ベイは含まれないだろうけど。どう選んでも。

 でも、これらの大作レヴェルだと構想期間を含めずとも制作には2、3年かかる。ご覧のとおり年代にムラがありますね。2010年に上映されたサイファイというと、上の"Inception"のほかは"Iron Man 2"、"Tron: Legacy"・・・、"Resident Evil: Afterlife"(「バイオハザード」のどれか忘れた)まで入れたくなっちゃうくらい少ない。

 7年蝉か13年蝉か知りませんが、どうやらサイファイ映画には「当たり年」(ジャックポット)ってのがあるみたいです。実は2013年がそのひとつみたいだ。

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 「地獄の3月」もようやく終わり、ずっと気に掛けていたME3のCitadelと、SkyrimのDragonbornを遊ぶまとまった時間を手に入れた。
 でもなかなか取り掛からない(笑)。一か月も離れているからリハビリがきついのだ。

 買い貯めてあったBD/DVDの洋画をいくつか観る(Citadelやれよ)。ちょっと古いけど”O Brother, Where Art Thou?”(2000)などのように素敵な作品もあって満足は満足だが、英語版で観ている関係もあってセリフがわからん部分は何度か聴き直したり(あの映画は南部訛りがきつい)、細かい部分の洒落や冗談ネタを見落とさないように正座してみないといけない。
 まだ観ていない他の作品も中身が重たいのが多そうなのばかり集めている。”Million Dollar Baby”(2004)などは入口からいかにも重たそうなので、とりあえずパスしておく。

 もうちょっと肩が凝らないのがいいなと思ってPSNを眺めていたら(Dragonborn遊べよ)、丁度見逃していた”Skyfall”(2012)があったので観る。予想通りいい出来栄えで満足。
 ところがそこでネタは打ち止め。“The Hobbit: An Unexpected Journey”(2012)はまだ「セル」しか許可されていないらしいので無料の冒頭部分だけ観て「レンタル」解禁待ち。

 中に、説明読むだけで笑っちゃうサイファイ映画があった。“Iron Sky”(2012)。月の裏側に逃げ延びていたナチスの残兵が地球侵略を企てるというもの。もちろん英語の「月の裏側」(dark side of the moon)には、不気味なもの、得体のしれない狂気をはらんだ何かという含意がある。それから未来のエネルギー源と目されるヘリウム3が大量にあるとされている。

  フィンランド(芬)・独・墺共同制作のフィンランド人監督(Timo Vuorensola)の手によるサイファイ・ドタバタ・コメディでした。あまりにバカ臭くて最後まで観てしまった。主演のドイツ人女優のお姉さん(Julia Dietze)も好みだし! 合衆国やロシアだけじゃなく、日本も攻撃用宇宙船を(三隻も!)ちゃっかり建造していたってところも受けた。フィンランドから見れば日本も小汚い帝国主義国の一員ってわけだ(事実だし)。

 さて、そこからサイファイ中毒の禁断症状がひどくなりはじめた。とはいえPSNで鑑賞できる作品はほとんどが観たものか、観たら間違いなく時間を損しそうなものばかり(だったらいい加減にDLC遊ぼうよ)。しょうがなくネットの映画紹介サイトを彷徨っていたら、なんとこんなリストが出てきました。カッコ内は監督、イタリックは主要作品(説明不要な人を除く)。

・ELYSIUM (ニール・ブロムカンプ)
・STAR TREK INTO THE DARKNESS  (J.J.エイブラムズ)
・AFTER EARTH  (ナイト・シャマラン、M. Night Shyamalan) 
・OBLIVION  (ジョセフ・コシンスキー、Joseph Kosinski、Tron: Legacy) 
・PACIFIC RIM  (ギレルモ・デル・トロ、Guillermo del Toro)
・ENDER’S GAME  (ギャヴィン・フッド、Gavin Hood、X-Men Origins: Wolverine
・WORLD WAR Z (マーク・フォースター、Marc Forster、Quantum of Solace

 たぶん、マット・ディーモン/ジュディ・フォスター出演のELYSIUMに最初に引っかかって、そこからお勧め作品が自動的に列挙されたんだと思う。それにしてもなんだよ、この布陣。ありえません。

 2013年がサイファイ映画にとって当たり年であるのは間違いないだろう。

 しかもこのリストからは、スーパーマンやらアイアンマンやら、いわゆるスーパーヒーローもの多数を除外しています(マイケル・ベイは最初から除外されている)。そういうサイファイの周辺部分もお好みの向きにとっては至福の一年になることでしょう。

 それだけじゃない。"Oblivion"のトム(クルーズ)もそうですが、出演俳優の(ギャラ的な)レヴェルが見事にあがっている。ウィル・スミス("After Earth")はともかくブラピ("World War Z")どうしちゃったの?ってくらいメジャーな役者が出てる。
 皆が皆お金に困っているわけでもあるまいし、サイファイ映画が「主流」ジャンルとしてのステータスを確立したと考えるべきなのでしょうか。

 上述した2010年時点のリストの方々のうち、2013年のリストにない方たちの次回監督作品(サイファイぽいものに限る)。

・ジェームズ・キャメロン "Avater 2"(2014)
・ジョシュ・ウェドン "The Avengers 2"(2015)
・アルフォンゾ・クアロン、"Gravity "(2013)
・リドリー・スコット、"Blade Runner project "(?)
・ダンカン・ジョーンズ、"Warcraft"(?)
・アレックス・プロヤス、 "The Unpleasant Profession of Jonathan Hoag "(2013)
・クリストファー・ノーラン" Interstellar "(2014)
・サム・ライミ、" Oz the Great and Powerful"(2013)
・ダニー・ボイル、"Trance (2013) *果たしてサイファイかというとちょっとこじつけかも

 ここにも2013年中に公開されることが確実な、または可能性の高そうな作品が含まれています。

  ちなみにJ.J.エイブラムズは、ディズニー作品となった”Star Wars: Episode VII”(2015)の監督にも抜擢されてました。Star Trekシリーズとあわせて両方の作品を手掛けるのはあちらのオタクの「夢」のような話かというと、彼自身は「Star Trekの過去の作品はあまり観ておらず、全然トレッキーじゃなかった」そうですね。金儲け上さすがに「好きじゃなかった」とは言わないけど、「俺は君らが考えているようなオタクじゃないぞ」と力説してるのか。

 個人的には、デル・トロ作品の"Pacific Rim"というのがとっても危なそうで(はずしそうで)興味をそそります。トレイラーで観た、明らかに日本への理解に根本的に欠けた東京?の街並みづくり、あの菊地凜子さん出演、ゴジラ・ライクな設定と巨大ロボットなどなど、リスクの塊みたいな作品です。なにしろ監督本人が・・・(日本では夏の公開ですね)。

 とまあ、ここまで調べて満足して、ようやくCitadelに取り掛かったわけですが(どんだけ時間空費してんだと)。

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 おっと、はしゃぎすぎて本来書くべき話題を完全に失念していた。「今日的な」テーマについての話であった。

 ちょうど洒落にもなるので、ここまでを「月のこっち側」(near side of the moon)ってことにしときましょうか。地球からいつも見えている、馴染み深く、満ち欠けこそ変化に富むが規則正しい日常的な面。
 次回は「月の裏側」(dark side of the moon)。地球からは永久に見ることができない面、とらえどころがなく、ある種の狂気を帯びているかもしれないという意味にこじつけて書いてみよう。

2013年4月13日 (土)

On Narrative Design 10

 最終回となる第十回は、getting the job、「プロのライターになるにはどうすればいい?」
 
 個人的にやる気が限りなくゼロに近い理由は、ひとつには「嫉妬」。ふたつめには「老い」(あるいは悔い)。
 まあ、どちらも一緒のことを言っているわけですね。
 この場合の嫉妬は、若さ(すなわち将来の可能性がまだかなり広い範囲に渡ること)に対するものですから。もしその可能性の広がりを「ポテンシャル」と言うなら、別に年齢の差に限ったことでもないわけですね。

 他者の成功などを嫉妬しないのが一番ですが、私のようにどうしても嫉妬に苛まれてしまう場合、それを避けるひとつの(わりと有益と思われる)方法は、何かを目指してもがいている若い人たち(まだ可能性を秘めている人たち)の努力を見守り、応援・支援することでしょう。「同一視」(identification)ってやつですね。その対象が自分の子供や親戚なら自然でいいのかもしれないが、それに限らない。また同世代という理由でその作家の作品を好んで読んだりするのも「同一視」の一種でしょう。

 よく人気作家、評論家のユーザー書評などで、「まったくなっていない」など誰も頼んでいないのにクソミソにけなしてみせるものがありますが、あれはユーザー自身の不足している部分(つまり自分が人気作家にも評論家にもなれなかった事実)、悪い部分(うすうすわかっているダメだった理由)、自分を好きになれない部分を他人の中に見出そうとする「投影」(projection)あるいは「投影同一視」(projective identification)ってやつでしょうね。筒井康隆先生が以前書いていた「同人ゴロ」(自分では書きもしないのに(だから評判になるはずもないのに)同人の集まりで他人のあるいは著名な作品を延々とけなしまくる)なども同じ。
 話題の村上春樹氏の新作でもその世界がはじまってますね(笑)。

 そう、私の場合は筒井康隆先生などの好きな作家(随分年代は離れていますが)を「同一視」しているし、むしろユーザー書評で集中砲火を浴び、ケチョンケチョンに言われている作家・評論家の作品を好んで読んでいる事実もある意味同じ理由なのかもしれない。(村上春樹氏は翻訳もの以外何も読んだことはないですが)
 
 これからどこかのスタジオのプロのライターを目指す人に参考になるかどうかわかりませんが、そもそもこのブログをはじめた一番最初の動機のひとつは、「洋ゲー氷河期に、島国の住民が世界の潮流に関する情報から取り残されてしまう危惧」であったわけで、本当は自分たちの世代ではなく、もっとずっと若い世代に対する情報提供の意味が強かったはずです(そうだったかどうか忘れてるけど)。良質の洋ゲーがしっかり日本に紹介されるように祈るためのレインダンシング、雨乞いの踊りでした。

 いまや日本語訳されない洋ゲーのビッグタイトルはあまりなくなりましたので、実際には杞憂でした。

http://dgaider.tumblr.com/post/37466820242/on-narrative-design-part-10-getting-the-job

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 厳密にいえば今回は物語デザインの話題ではないが、この質問を受けることが「一番」多いのだ。ゲーム産業のライターになるにはどうすればいいのか? 本当に短い回答は「無理・・・」だが、だからといってトライするべきではないとは言わない。だから、もうちょっとだけ長い回答を示すなら、「もしトライしてみたいなら、ここで説明してあげよう」というものになる(すでにBioWare Blogで同じ話題の三つの記事を書いているので参照のこと。Part 1Part2Part 3)。

自分はまっとうな候補でしょうか? 

 最初に自問しなければならないのは、どうしてそういう仕事を望むのかである。ゲームのストーリーを操りたい、ヴィジョンを完璧に再現する力を得たいと考えているなら、ライターを目指すのではなく・・・、リード・デザイナーを目指すべきだ。おそらくそれだけでも足りず、自分で会社を興すべきだろう。ライターの仕事は、ひとりで椅子の背もたれによりかかかったまま、どんな物語をどう書こうかと一日中夢想していることではなく、割り当てられたプロジェクトの一員として働くことである。リード・ライターの立場を得たとしても、現在のプロジェクトについて色々と意見を主張しなければならないし、自分のチームのマネジメントに対してより大きな責任を負うことになるのだ。

 だがリード・デザイナーやリード・ライターの仕事を最初から得るなどということは決してない。まず徐々に仕事に慣れる必要があるから、ゲームの小さな部分から取り掛かることになり、そのため自分はプロジェクト全体に対してなにひとつ影響を与えていないという感覚を持つことになるだろう。しかもそれはBioWareの場合の話であり・・・、会社によってはさらに些末な権限しか与えてくれないかもしれない。一部の会社では、ライターは開発のずっと最後のほうになって呼び出され、すでにほとんど完成しかかっている作品に物語をつけることを要求される。ゲーム・ライティングが小説やファン同人小説を書くのと同じことであり、創造性を発揮する主たる中心人物はライター自身であると考えている者たちにとっては、話はここでおしまいなわけだ。

 だから、この仕事についてそんな勘違いはしていないという前提で話を進めよう。どんな資質や資格が必要なのか?

大学の学位は必要ですか?

 厳密に言えば必要ない。だからといって、大学を卒業するべきではないとはもちろん言っていない。この業界を見渡してみれば、大学の学位があるから即座に採用されることはないというjことがわかるだろう。アートやプログラミング部門に応募する際にはさらにそうである。

 ライティングについて言えば、受けてきた教育は自分の技能を磨くための手段だと考えてほしい。クリエイティヴ・ライティングの授業や英文学の学位は助けにはなるし、その他のどんな種類の学位であっても専門知識を付与してくれるのだから役に立つ・・・、へっ、中世史だって使えるんだよ。中にはインターンシップの機会を提供する学校もあり、我々の会社も受け入れているわけだから、それだって無意味な道じゃない。どの学校がやっているかは残念ながら言えない。我々が受け入れた少ない数のライティング・インターンは非常に広い範囲の土地からやってきているから、どこか調べるのはそちらの仕事だ。
 
 なんらかの教育を受けていれば、自分のことをより真剣な応募者だと示すことにもなる。大変な数の履歴書を選り分けなければならない人事担当の目にとまり、この人物は真面目にその職を得ることを考えているという印象を与えやすく、ただ勘違いして応募してきた奴だと思われることはない。後者のような人物が受からないかというとそうではないが、越えるべきハードルはさらに上がってしまうことになる。

経験は必要ですか?

 あまりいらないが、それはBioWareのライティング部門がこのゲーム業界の中でも非常に特殊な分野だからだ。我々のところに応募してくる者が業界経験を有している可能性は非常に少ないので、我々もそれは期待していない。だがそれは同時に、この分野の職を得ることが難しいことも意味する。本当に優れている人であっても、チャンスを手に入れるには苦労するだろう・・・、職に空きがあるだけではなく、かつ自分が提供しようとしている特定の技能を要求している会社を探すのは忍耐を必要とするのだ。

 多くの会社ではライターに別の仕事も要求する。例えばプログラミングだ。そもそもライターの仕事を職として割り当てていない会社もあるだろうし・・・、応募者がライティングに興味があるとわかったら、ライティングの素養も有しているアーティスト、プログラマー、デザイナーとして雇いたいと思うかもしれない。だから業界に入るチャンスを増やそうと思ったら、他の技能もそこそこできるくらいには身に着けておくべきだということになる。ライティングに特化し、ライティングだけをしたいのなら、それもいい。だが、それによって働く場所を自分で狭くしているのも間違いない。

女性であることは気に掛けるべきですか?

 おおっと、そのとおりだ。頼むから気に掛けてくれ。受ける会社にもよることだから、女性だからより難しいとは言えない・・・、だがもし応募者の性別で雇うことをためらう会社があったなら(その会社が理由をわかっていても、いなくても)、よしたほうがいい。そんなところに入る価値はない。ほとんどの職場では、使えるかどうかによって応募者を採用するのであって、女性の応募が多ければ採用される女性も多いことになる。だから性別にかかわらず自分は初心者であると自覚し、自分が何者であろうが一番下っ端から始める気概があるのであれば、時間をかけてトライする価値があるだろう。

提出すべきものはありますか?

 ある、もちろんある。理想的には以下の二つのことを明らかにできるような文章を提出物として差し出す必要がある。1)セリフの書き方を知っていること、できれば応募する会社が現に用いているような種類のライティングができること、2)クエスト・デザインについていくばくかの知識を有していること。

 つまり応募するには簡単なクエストをまとめあげることになるのだが・・・、あくまで「簡単に」だ。サイド・クエストのような。ゲーム全体のストーリーを根底から作り上げなければならないような規模のクエストを書いてきた者はひとりやふたりじゃない。それはそれで素晴らしいが、まるで新しい世界を創出したいと考えている野心に燃えるゲーム・マスターの地位を狙っているみたいだし、すでに述べたように、我々は最初からそんな高いレベルに就く者を雇うつもりはない。だから、まず限られた範囲の中での力を証明することで、実際に雇われて最初に手掛ける仕事をこなすことができることを示すのだ。応募の際に提出すべき簡単なクエストには次のような要件がある。

・クエストが起きる場面(プレイヤーが何かを求められるような文字通りのクエストでも、プレイヤーが何かの知識を得るだけのものでもいい)

・そのクエストが解決する場面

・プレイヤーに与える何らかの選択

・少なくともひとつの意表をつく展開(twist、変わった仕掛け)- ちょっとした複雑さを持ち込むか、またはプレイヤーが任務を達成する際の異なる方法を用意

 これだけだ。応募者が実際に書いたそれらの場面から我々が評価するのは、セリフを書くことができるか(プレイヤーに異なる意見・態度を表明する機会を与え、情報収集の選択肢を用いることができ、選択を与えることができるなど)、RPGがどのような仕組みであるか理解しているか、つまりプレイヤーにエイジェンシーを提供することができて、プレイヤーをただ強引に引っ張る(railroading)のではなく、書き手の優れたストーリーを味わう機会を与えることができるか。例えばテーブルトップゲーム・キャンペーンのゲームマスターのように自分のストーリーで皆を唸らせ、プレイヤーがいかに好き勝手しようとしても彼らに自分の方法でゲームを体験させることができるようになっているか(それができていない提出物は、普通に考えられるだろうよりも多い)。

 最後に警告しておこう。提出物で採用が決まるわけではない。さらに「面接」がある。会社にもよるが、このプロセスには非常に時間をかける。我々の場合、応募者と話をするだけではなく、彼らを試してみる。我々がよくやるのは、応募者にある指示と期限を与えて短期間で何ができるか見ることだ。結局、我々のライターは手が早ければ早いほど良いわけで、応募者が何か月もかけずとも提出物を完成することができるかどうか見る必要があるのだ。神経が擦り減りそう? もちろん、でもそうじゃない面接なんてあるかい?

でも提出物は「どうやって」まとめればいいのですか? 決まったフォーマットがあるのですか?

 厳密には決まったフォーマットはない。そのほうが容易ならNwNやDAOのエディターを用いてもよいが・・・、多くの人たちはそうではない。我々はスクリプティングやシネマティックまで含めたストーリー全体を作るためのmodの知識を求めはしないが、「かつて」それをやったことはある(そしてシェリル・チーのように、そうやって受かった者もいる)。また、画面の表示をクリックすると物語や指示が出てきて、さらに次のセリフをしゃべるキャラクターをクリックせよと即してくるように構築されたゲーム内モジュールを提出して採用された者もいる。さらにはワード文書で提出しても構わないし、それで採用された者もいる。「これがクエストの中身だ」と純粋なテキストで書いてあり、セリフもテキストのままで、プレイヤーの選択肢はハイパーリンクが貼ってあるものだった。話の後を追いかけられるのであれば、見せ方は問題ではない。

 応募する会社のIP(知的財産、タイトル、フランチャイズ、シリーズ)を選んで書くこと。BioWareなら、Mass EffectやDragon Ageのことだ。そしてそのIPのルールに従って書けばよい。もしMass Effectのクエストを書くなら、あのシリーズがどのようになっているか自分が知っていることを相手に示せるように書く。レネゲイドとパラゴンの選択肢を用意して、あのゲームのセリフのスタイルを踏襲するのだ。
 
 その会社のIPを用いるべきであるとは言ったが、すでに存在しているキャラクターを用いるには注意が必要だ。そのキャラクターを創造したまさにその人物が応募者のライティングを評価する可能性があるためで・・・、自分のライティングのみならずそのキャラクターについて書く能力まで評価されるような込み入った事態は避けたいと思わないかい? 評価する側がどんなに分けて考えようとしても、間違いなく評価に混入してしまうのだ。かつてアリスターの登場するクエストを書いてきた者がいた。明らかにお世辞のつもりでそうしたのだろうし、アリスターが登場すれば我々が喜ぶとでも思ったのだろう。ただしそこに書かれていたのはアリスターではなく、応募者の書いたアリスターらしくない部分があまりに気になって、ライティングの他の部分に注意を払うことが難しくなってしまったのだ。

 最後に、提出物は小奇麗にまとめること。NwNやDAOのモジュールとして提出するなら、どう使うかの説明を加えること・・・、どこからはじめればいいかなど。すぐに使えるようになっているのか、それともまず会話ファイルを分解してみて書いたものを直接読む必要があるのか? ワード文書で仕上げるのであれば、きちんと読めるように書いてほしい。余白をきちんととり、クエストのそれぞれのセクションやシーンごとにページを変える必要はない。

 応募書類について一番重要なことは? まず、全く目に留まらない可能性のほうが高いということを覚えておくべきだ。本当にライターを探し始めるまで我々が提出書類を手にすることはないし、それはそんなにあることではない(ここでは離職する者はさほど多くないんだ)。だから職に空が生まれるタイミングで応募書類が届くことを期待すべきなんだが、それがいつなのかもわからないうえに、我々も応募書類を長い間取っておくなんてことはあまりしない。

 だから忍耐が必要だ。返事がなければ半年後にまた提出するんだ。もし万が一返事が来たら、そしてそれが否定的なものだったら、できればフィードバックを聴いておいたほうがいい・・・、もし評価が聞けたのなら、どこが悪かったか気を付けることができる。評価がもらえなかったら、自分の提出したものを自己分析して、どこを改善すればいいか考えて再トライするのだ。

 もしあっさり諦めるようなタイプの人だったら、あるいは「ああ、送ったものに何も返事が来ないよ、もういいや、やるだけのことはやったから」と思い始めたら、そこでおわってしまうだろうね。

採用されるチャンスを増やすようなことは何かありますか?

 モッドの作り手(modder、mod、ゲームの追加・修正・改造パック、ファイル、スクリプト、モジュールの作り手)になれ。

 真面目な話、モッドを作れ。どんなものでもいいからツールセットを用いて、どうやって作るのか学ぶんだ。モッドのチームに入ってもいいし・・・、だが気を付けたまえ、「ええと、スキルは何もないんですが、書くことはできます」というような人の助けに困っているチームなんてどこにもない。まるで「本当の」スキルが何もないかのような扱いだ。だからモッド・チームにライティングで参加したいと言ってバカにされたり、それ以上ひどい目にあっても驚くべきじゃない。他のスキル群を有しているか、あるいは自分は本当に役に立つと証明しないといけないのが普通だ。

 そしてそういうスキル群を身に着けるには、実際やってみて試すしかない。だから、アドヴァイスを求める人には私はいつでもそう答えるんだが、相手は大抵ガッカリしたような顔をする・・・、まるでもっと容易なことがあるんじゃないかというように。だが簡単な方法なんてない。ゲーム産業でライティングや他の仕事に就きたいなら、「コインを入れたら職を得た」なんて道はない。ツールセットを手にしてただ「試してみる」ことがとてつもないことに思えるなら、やめとこう。我々の訓練を必要とするようなまっさらな初心者向けの職を探しているなら、やめとこう。たぶん、この仕事はそういう人向きではないんだ。

 さて、ここまでだ。これら以外のアドヴァイスがあるとすれば、例えばQAテスターとか業界の他の仕事も考えたらどうだいというもので、一旦業界の中に入ってしまえば、その中で動くのは容易になるかもしれないからだ。もちろん、QAテスターにも固有の難しさがあるだろう。もし他に何のスキルも有していないものがまず選ぶにふさわしい仕事だなどと言ったらQAの連中から総スカンだろうし、私だってライティングがそうだって言われたら腹が立つ。 だからそれがお勧めかどうかはわからない。

 とどのつまり、自分が何をしたいかを決め、自学自習でもどこかで教わるのでも、どんな方法でもいいから必要なスキルを磨くこと。より多くのスキルを身につければつけるほど自分の力を示すチャンスが増え、苦労は減っていくだろう。

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 かつてNeverwinter Nights(NwN)のユーザー・コンテンツが一部好事家(こうずか)の間で大ブームとなっていた(公開されていたのは5000以上、十分遊べるものだけでも200以上あった)時期、BioWareはNwNのツールセットを用いたライティング・コンテストを開催したことがあります。

 最大4*4のタイル(正方形のマップのパーツのことですね)まで用いてよく、会話のワード数はある制限以下で、場面転換は禁止。
 その他の要件は、ゲイダーさんが上に列挙したように、クエストがはじまり、選択が与えられ、ちょっとした意外な仕掛けがあって、解決するという流れが含まれていること。
 あくまでライティングのスキルを評価するもので、モッドの才能を求めるものではありませんでした。とはいえ多くの応募者が凝ったマップや仕掛けを用いたのですが。

 優秀作品のライティングがBioWareライターの採用基準を満たすのであれば、作者は即座に採用されるというのがそのコンテストの一番の報酬で、コミュニティの著名モッダーをはじめ多くのユーザーがチャレンジしてました。しかし優秀賞は選ばれたものの、そのときは結局誰もBioWareに採用されなかった。

 応募作品はコンテスト期間中に原則公開されますから、私も(一般ユーザーの評判の良い順番に)かなりの数(50くらいでしょうか)の作品を遊んでみました。その中には優秀作品も含まれていて、これでも採用されないならBioWareライターの採用基準は相当高いんだな、と舌を巻いた記憶があります。

 文中、現在のBioWareライターのひとりであるシェリルさんが採用されたのもモッドが評価されたからとあります。少なくとも私の記憶にあるNwNツールセットのコンテストでは採用された人はいないはずなんですが、別にコンテストがあったのか、非公開だったのか。どのタイミングで採用されたんでしょうね。

 ゲーム・ライターの就活も相当大変そうです。そもそも(勘違いも含めた)人気に対して業界全体での職の数が少なすぎます。文中あるようにシナリオ・ライターを単なるゲームの味付け役の道具のように扱うゲーム会社もありますし。BioWareと同じような趣向の作品を手がけるObsidianですらフルタイムの専属ライターは非常に少なく、多くはパートタイムです。

 ゲイダーさん自身のように「会社の近所に住んでいる知り合いの物書き好き」が即採用されたのは、古き良き時代ということなんでしょう。もちろん、すでにRPGのテーブルトップ作品を自主制作していたことが大きな要因です。

2013年4月11日 (木)

ゲイダーさんのインタヴュー@ROCK, PAPER, SHOTGUN

 実は、このゲームサイト(ロック、ペーパー、ショットガン、RPS)にゲイダーさんがインタヴューを受けるため招かれた本来の理由は、セクシャリティに関する別の記事のためだったようですが、引き続き行われたインタヴューについてのこちらの記事ではDAIIとDAIIIに関する話題が中心である。

http://www.rockpapershotgun.com/2013/03/29/biowares-gaider-on-dragon-age-iis-flaws-dragon-age-iii/

 冒頭部分はRPSの記者によるもの。かなり皮肉まみれですが、記者個人のDAIIに関する好き嫌いはまだら模様という感じです。

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 Dragon Age IIがそれほどひどかったとは実は思っていない。むしろこう言うべきか、ある部分はとっても、とっても出来が悪いが(例えばRon Gilbertの”The Cave”(訳:ヴィデオゲーム・タイトル)よりも洞窟の数が多いが、狙ってそうなったわけじゃない)、他の部分は驚くほど魅惑的だ。パーティー・メンバーたちそれぞれの人生が描かれているし、人種差別について、また安全保障と自由の間の葛藤についてのテーマが脚光を浴びるのだが、プレイヤーの選択は本当のところ言うほどあまり意味がない。予算と納期の制約が首元をじわじわと締め付けてくるような環境下で開発された、ポテンシャルをちらりと垣間見させただけのゲームであったのか? 間違いない。だがそうした制約がゲームを形作ったわけでもあり、万全ではない状態のBioWareがこの物語、そう、無力感に関する物語を作り出したのは興味深いことだった。「性差別主義の不可解な非現実性」に関する議論の後、Dragon Ageのリード・ライターであるデヴィッド・ゲイダーと筆者はDragon Age IIの功罪、そして最終的にDragon Age IIIはそれとはどのように違う世界に導いていこうとしているのかについて語り合った。

RPS: BioWareでは長い間ライターをやってますね。

Gaider(DG): 14年になる。ほんとに長いね。

RPS: BioWareのほとんどのゲームに共通する際立った特徴があります。でかくて、エピックな冒険。いくつかの異なる典型(キャラクター・アーチタイプ)が異なるゲームで示されている。例えばHK-47(訳:KotORのキャラクター)とシェイル(訳:DA2のキャラクター)は非常に似ている。長く書いてきたことによって、陳腐化している危惧は感じませんか?

DG: 何かを書き始めるとそのうちデジャヴを感じることはときたまあるよ。「これ、前も書いたな」と。特に私のように同じジャンルにずっと長く居座ると、ときどき起こるものだ。別のジャンルだって特定の同じテーマを何度も何度も持ち出している。だがそれについてどうにかできると思うなら、そもそもどうにかする価値があるかどうか考えなくちゃならない。我々のフォーラムでも、始終誰かが「また同じ典型が繰り返して出てきてるぞ」と言っているよ。

 典型が悪いわけじゃない。キャラクターが何か異なることをやっている限り、互いにどこか似ているところがあるという事実は重要じゃない。違いがある限りはね。ライターとして、それは自覚することができる。何の考えもなく繰り返した後になって、誰かから指摘されて「ああ、そいつは気が付かなかった」というのはよくないね。自分で気が付いているべきだ。

RPS: フォーラムについて触れられました。BioWareは自社のゲームについて人々がどういう意見を持っているか熱心に傾聴しているように思えます。決して万人を満足させるわけにはいかないにも関わらず。

DG: そう、一部の人々が考えるほど重要視しているわけではないが、他の一部が考えるほど軽んじているわけでもない。ゲーム・フォーラムのような場所でのフィードバックを受けなければ、一体どこで受けるつもりなんだろう? それらを完璧に無視して、世間から隔絶した状態の中でゲームを作るようになったら最悪だ。ただしファンからのインプットを見たり、あるいはフィードバックを読んだりしても、ある程度までは自分の考えが正しいことを確信しなければならない。フォーラムのような場所では、ファンの意見はごちゃごちゃに入り乱れている。しばしばフォーラムでの発言は、まるでフォーラムの全員が総意として懸念している事柄があり、全員が正確に同じように考えているというような言い方をする。今までそんな状況にお目にかかったことはないがね。

 究極的には、自分で正しいと思っていることをやっているなら、少なくともひとりは正しいと思っているわけだ。自分個人では賛同しているわけでもないのに、ファンの望むことに完全に迎合してしまうのは最悪だ。結局誰も満足させられないことになりがちである。ファンの声は別なものとして考えるよう心掛けなければならない。意識の中で区別して横に置いておかなければならない。「ファンがこんなことを言っている・・・」というのは、地域の公聴会での要望(a voice at the table)のようなものだ。彼らが「こう望んでいる」というなら「ああ、それも考えておこうか、いずれ話をしよう」という感じだね。

RPS: DAIIIのことを考えると、そうするには面白いタイミングですね。あなたたちはファンのフィードバックと直接交流している。あなたたちは「次のDAゲームはどんなものであると良いと思う?」と尋ねている。キックスターターが重要視されてきた時代に。あそこでは人々が実際に資金を拠出しているわけだから、より直接的な協業開発を創出している。開発者は「あなたにも権利がある。なにが望み? あなたの願いを実際に取り込むよ」と言う。

DG: キックスターターの市場は間違いなくずっとニッチ指向だ。ニッチが悪いわけじゃない。ある特定の事柄に集中的に注目する観客のセグメントのひとつだ。広い範囲にわたって一般向けを狙う必要がない。ニッチにはそれは必要ないんだ。小規模なチームで、少額の予算で開発する。そこが彼らの強い点でもある。彼らの力の源泉だ。

RPS: ところが気になるのは、そういうトレンドがあるからこそ、あなた方がDAIIIに彼らのすべての要求を受け入れられないのも避けられないことであるのに、そうなった場合ファンは大変怒り出すのではないかという点ですが?

DG: かもしれんね。我々のファンは、すでに述べたように、何一つの事柄に対しても総意なんて持ち合わせていないのだ。ある事柄について熱心な興味を抱いている一部のファンがいる一方で、他の事柄が実現するよう要求するため努力を惜しまない大きなグループがあったりする。万人をハッピーにさせる方法なんて、ありえないんだ。

 長い目で見て、もし誰かが我々のゲームで楽しむことができないと考えるなら、ファンベースの別の側面に応じようとしているキックスターターのような取組みが世の中にあることは良いことだ。我々の元から人々を遠ざけようなどとしているつもりはこれっぽっちもないが、すでに我々が一部のフィードバックについてファンとの交流を行っていて、さらにこれからもより交流を深めようとしていくだろう理由ではある。ファンベースは特定の問題について少しばかり極端な二元論になりがちだと言っていいだろう。我々は「万人を満足させます」などと言うつもりはないかわりに、彼らの不安を聴き、できるだけ最良のゲームを作り、ファンベースであまりにも意見の違いの大きい要素について、多少とも近くに引き寄せることができなかったものがあるかどうか見極める。試すには良いことだと思う。もちろん、すでに述べたように我々にできるのはせいぜいそこまでだ。

RPS: 間違いなく、あなたは興味深い立場に立たされることになりますね。(訳:つまり「窮地に立たされかねない」という皮肉)

DG: 儒教的な意味合いで興味深いね(笑)。

RPS: 多くの人々が、今のあなた方の仕事ぶりを見て、90年代後半のBioWareの姿すっかりそのままのようにやってくれればいいのにと考えている。現在のゲームが対象としている観客は、当時よりずっと大きな範囲であるにも関わらず。今や、当時より多くの人々がこの種のゲームを遊んでいる。

DG: 当時よりずっと大きな予算だから、ずっと多くの観客に受け入れられないといけないんだよ。

RPS:: 広範囲の観客と、RPGコアファン(RPG diehards)の間で股裂きになりそうですが、どちらを注視するのでしょう? ライターとして最優先事項はなんでしょう?

DG: ストーリーに関する主たる懸念は、古くからこのシリーズの物語のファンである者たちの興味とバランスさせることだ。つまりDragon Age: OriginsもDragon Age IIもプレイしてくれた人がDragon Age IIIにやってくる場合のことだが、シリーズについて何の経験もなく真っ新な状態でDragon Age IIIからプレイする人々のことも気に掛けなければならない。我々自身が一番気にしなければならないのはそれだ。

 開発チームは様々なグループからもたらされた懸念点を見て、そのうち最大の懸念点について銘記し、できるだけ対応することになる。すべての点に対応することはできないだろう。対応するとしたものですら、こんなふうに言わざるを得なくなるかもしれない。「我々の主目標はなんだろう? 例えば、DAIIに満足しなかったかもしれない古くからのファンに対する勧誘? あるいは、ある趣向(フィーチャー)について彼らの気持ちを宥めることができ、話のつながりから取り残されたと、置いてきぼりにされたと感じなくて済むようにできる事柄はあるか?」 できることもある。Dragon Age IIIの中身についてお目にかけることができるようになったら、我々の今までの取り組み内容がわかるだろう。いくつかの新しいアイデアも持ち込んだし、いくつかの古いアイデアも再登場させる。ファンはそれらを自分で評価することができる。

RPS: あなたはBioWareタイプの冒険についてたくさん手掛けてきました。こんなふうに思ったことはないですか、「もういい、英雄の旅じゃない、成長や発展に関するものでない何かを手掛けたい」とか。それのある程度は、より狭い範囲にフォーカスして、大地を轟かすような選択肢を用いることのなかったDragon Age IIで実現したのでしょうが、どうでしょうか?

DG: あれは試みであった。意図して複数の公式を組み合わせた。マイク・レイドロウ(訳:リード・デザイナー)から指示された事柄のひとつだ。彼は枠物語と時代の移ろいの表現といった、今までと異なることを試みることを望んでいた。後から気が付いたのだが、我々のアイデアの一部が、またそのアイデアを支えるために必要となったコンテンツが、与えられた納期に対して大きすぎるという問題があったということだ。

 また繰り返すのか? かもしれない。次はあまり風呂敷を広げすぎないようにもう少し注意深くやるだろう。「それを手掛ける時間は実際どれだけあるのか?」とね。たとえそうであっても、我々はなかなか良い仕事をしたと思っている。様々な点に対する多くの好意的な反応もあったし・・・。典型的な英雄譚は凡庸な出だしから始まり、英雄になり、危機を救い、世界を救う。それとは少し違うことを手掛けたのは良いことだと思う。エピックな成功に関するものと同じくらい、失敗に関するストーリーを盛り込んだんだ。

RPS: 言わせてもらえば、ホーク自身に関する物語は全編ひどくてうんざりさせられましたよ。

DG:(笑)まあ、確かに今までとは違う。DAIIはその構造上、究極的にはDAOよりも幾分一本道だが、我々が試みようとしたストーリーテリングの性質上、元々そういう制限を内包していたとは考えていない。プロジェクトにつぎ込める時間がどれだけあったかのほうが関係していた。時間が限られればそれだけ、取り込める分岐も少なくなる。だがもしもう一度やり直すのであれば、分岐点ひとつひとつ、今まで試したことのなかったストーリー要素ひとつひとつを考慮して、もっと総体的な視点からのアプローチを用いるだろう。そこにはどれだけ時間がかかるのか? その部分のコストは支払う意味があるか? それも面白そうだ。我々がDAIIでなしたことを見直して「ある部分はとてもよくできていた。ある部分はそうではなかった。うまく行かなかった部分はもう二度とやらない」というのは嫌いだ。それは誤った道だと思う。

RPS: 自分自身、個人的には多くのほかの人よりはDAIIを楽しんだと思います。たとえ選択の余地は非常に限られていたとしてもストーリーは魅惑的だった。無力感に関する物語だとほとんど言い切ってしまっていいと思います。とある男性/女性が悲惨な状況に追いやられ、そこで生きるために何とかしなければならないという点で。シェパード艦長の物語のような英雄譚ではまったくない。むしろエピックさを欠いている。

DG: 世界のあり様を変えていくようなことではない。

RPS: そう、むしろ生き残るための戦い。それはストーリーで表現しようと意図したことなのでしょうか?

DG: そうだね。DAIIのテーマは必ずしも英雄譚ではなかった。それはテーマではなかった。自由と安全保障の間の葛藤がテーマであり、個人的にはそれは時節にあった優れた問題だと思った。人々にどれだけの自由を与えるか、それに対し人々の安全保障はどれだけ必要か? メイジとテンプラーの間の葛藤のように。もちろんそれ以外にも適用可能なテーマであって、安全な社会を構築することと、個人の自由を守ることの間には葛藤があるんだ。

 その問題に注目を集めるため、ある家族を登場させた。その部分がゲームのかなりの部分を占めることになった。一度に多すぎる数のテーマを出してしまったか? かもしれない。我々はストーリーを書き終えるたびに、必ず次のように振り返るのだ。「今わかったことを書き始める前からわかっていたら、別なストーリーを書いていただろうか?」DAOの後でも、あれだけ成功したゲームを書いた後でもそうだ。ゲームの中に実際取り込まれたものの中にも、振り返ると色々・・・。ストーリーを書くに際して、意識的に決断したものがあるのと同じくらい、慣れに従って書いたものもある。だから、ストーリーを書く方法と要素について考えることは、長期的に見て我々にとって有益であると思う。

RPS: DAIIについて、多くの人々を驚かせたまた別の点がそれでした。多くのテーマがそれぞれ今日的な意味合いを強く帯びている。そういうことはサイファイ(SF)の範疇ならあり得るでしょうが。「現代のこれらのテーマを、未来に置き換えて概念化してみようぜ」というふうに。

DG: 個人的にはあまりそういう考えは好きではない。人々はファンタジーを、サイエンス・フィクションなどと比べてずっと狭い範囲のジャンルであると思いこんでいる。必ずしもそうである必要はないと思う。だがそんな先入観を超えるようなファンタジー作品は今まであまり多くない。手にするファンタジーは大抵「巨大な古代の邪悪な存在が世界を脅かす」というような、ほとんど慣れに近い、お決まりのものだ。ファンタジー自体がそのように取り扱うテーマの制限を内包しているとは考えていない。色々やってみるべきだ。

 多くの人々が犯す過ちは、これは頻繁に見かけるものだが、一番最後の作品で手掛けた内容が、次の作品でも同じように手掛けられるという前提を置くことだ。それは決してありえない。我々はいつも、最後に手掛けたものを振り返って、次には何か新しいことを手掛けようとしている。あるゲームとその次のゲームで全く同じタイプのストーリーが用いられる可能性は・・・、まずない。

RPS: そうはいっても、DAIIのテーマのいずれかをDAIIIでより入念に詳述することはしないのですか?

DG: 前作ではまだ何の決着もついていない事柄も残っている。そのままにはできない。DAIIのエンディングでも未決着な事柄をどうにかしなければならない。それらを放っておいて全く新しいことに取り掛かるわけにはいかない。大陸の別な地方に飛んで行って、全く違う問題に取り組んだりすることはできない。対処しなければならないことが残っているからだ。とはいえ、全体的なテーマは新しいものに移行していくことになるのではないかな。また。異なる物語要素を試すことになるだろう。

RPS: お時間、ありがとうございました。

**********

 DAIIに関するお話はもういいですね。不可避な展開、無力感の物語であるとか、失敗(喪失)の物語だとか、アンタイ・クライマックス、エピックじゃないとか、正直語りつくされている感がある。

 それよりもキックスターターの話題がAAAタイトルと並列して語られると、いつもイライラしてしまう。

 両者を同じ論調で語るのは問題である。前も書いたが街の八百屋とイトーヨーカドーを経営するくらい違う。同じように見えるが必要とされるノウハウも一部を除いて共通していないし、片方でうまくいったからもう一方でうまくいくかどうかもわからない(両者は端的に無関係だ)。

 あなた、根本的にキックスターターのような「草の根」、「リヴェラル」、「市民活動」的な発想がキライなだけでしょう? まあ、そうとも言えるか。
 根底には大企業(メガ・パブリッシャー)は常に邪悪で、草の根活動は常に善であるという先入観があるのだ。一種のアナーキズム。

 だがもしキックスターターが本当に主流になったとしたら(ありえないが)、フリーの(つまり余っている待機中の)開発者たちはみないつ始まるか(呼ばれるか)わからない次のプロジェクトを待ち焦がれつつ、空いている期間は他のことで生計を立てていないといけなくなるわけで、メガ・スタジオが支配している状況よりもなお悪い状況に置かれることになるでしょう。開発者たちはスタジオに飼われているだけじゃないかと皮肉を言ったって、そっちのほうが比較的生活は安定しているのだ(もちろんレイオフはある)。

 キックスターターによる資金集めのゲーム開発が「主流」になるということは定義上ありえない。もしそれだけ魅力的な活動になるなら、結局大手パブリッシャーが参入してくることとを防止できない。

 とはいえ、キックスターターやスマホゲームなどの隆盛とは全く無関係に、今主流(メインストリーム、PC/コンソール)のタイトル群が勢いを喪って、市場の主役の座から滑り落ちることは、ユーザー層の世代交代を考えるとないとも言い切れません。日本国内の市場を見ていると、その世界は相当近くなっている感じもしますしね。ヴィデオゲーム・タイトルは本当に売れていないです。

 ああ、訳す暇がないだろうけど、このGameSpotの記事なんて、上に述べたことの補強になります。

http://www.gamespot.com/news/its-anarchy-out-there-says-former-ea-manager-6406016

 もしキックスターターが「主流」になる日が来るとしたら、その時はヴィデオゲーム市場が今に比べて本当にどうしようもないほどシュリンク(縮小)して、業界丸ごと真のニッチになったとき。はたしてそれでも「主流」と呼ぶのかどうか知らないし、そんな時代にもゲームを開発し続ける人がいるのかどうかもわからない。

2013年4月10日 (水)

The Masked Empire

 DAの次の小説。ザ・マスクト・エンパイア。

 オリージャン・シヴィル・ウォーが舞台で、メイジ・テンプラー抗争が主要テーマ。女帝セレーヌ(セリーン)(Empress Celene)と叛乱勢力を束ねるギャスパール(ギャスパード)大公(Grand Duke Gaspard)との確執が描かれるそうです。またエルフの叛乱が勃発する様子も含まれているとか。
 ところが著者はゲイダーさんではなく、Mass Effectのシナリオも担当したことがあるパトリック・ウィーケス(Patrick Weekes)氏。発売は2014年4月。

 この装丁、ハヤカワかどこかのものかと思ってしまいました。

Dragonagemaskedempirelarge

 ゲイダーさんが「マイ・ベイビー」と呼ぶDAシリーズの小説を、どうしてほかのライターに渡す決心をしたのか、それとも会社から強制されたのか気になっていました。

 さらに小説が2014年4月発売予定ということで、DA3までもその時期までリリースが伸びる(今のところ2013年秋の予定)のではないかと心配にもなる。

 全く同じことを考えている、BSNのポスターがおりました。ま、普通考えるわな。

http://social.bioware.com/forum/1/topic/371/index/16419169/1

 ゲイダーさん。

「もう一冊書きたいのはやまやまだが、なにしろ時間がなかったのだ。ありがたいことに、よき書き手に手渡すことができた。パトリックは今はDAチームに移っている。優れたライターだ。もし私の小説を気に入ってくれたのであれば、彼の作品も気に入ると思うよ」

 DA3のリリース時期については言及なし。

(おまけ)

 そういえば、以前にマーク・オヴ・ジ・アサシンのところでオリージャンの爵位廃止について触れました。初代皇帝の時代に、貴族の爵位は一斉に廃止されたことになっている。だからあのDLCに登場するデューク(公爵)プロスパーも、バロン(男爵)何ちゃらも、上のグランド・デューク(大公)ギャスパールもそうですが、帝国時代の爵位は全部過去の身分を懐かしんで勝手に名乗っているだけなのである。
(「僭称」というと根拠も正統性もなく勝手に高い身分を名乗ることであるから、この場合はちょっと違うのかな。「自称」、「通称」くらいでしょうね)

 気になるのは、爵位の廃止が貴族制の廃止までを意味するのかというところ。貴族制まで廃止されると領土の私有も廃止されているはず。あのDLCの舞台となったシャトウ・ヘインも本当は女帝(帝国)の所有物であって、デュークは借りている(領地管理を委託されているだけ)ってことになるのですが、どうやら貴族制まで廃止されたわけではない(Lord、Ladyという称号だけは残されている)。皇帝の前では貴族全部平等、全員平(ひら)という扱いにしたという解釈でしょうかね。

 なお皇帝制への移行に伴って、貴族の私有まで一斉に廃止したような劇的な体制変更の実例は、実は秦の始皇帝くらいなのだそうだ。DAチームが大陸国の歴史を紐解くとは思えない反面、今後紹介するつもりのゲイダーさんのインタヴューで彼は儒教思想なんかにも言及しているから、あながちそうとも言い切れないかなとも思う。

 もちろんDAにおけるオーレイ(フランスがモデル)の初代皇帝はシャルルマーニュ(カール大帝)、そして時代考証的にはだいぶずれるけど、おそらく皇帝ナポレオン・ボナパルドのイメージまで含意されているのでしょう。

on narrative design (ちょっと休憩)

 前回のテーマは、「ゲーム・ライターはライターとは違う」ってことですね。

 ライターのうちでもprose writerとは、一般的物書き、文章書き、散文書き。「散文」は形式制限のある「韻文」に対するもので要するに「自由文」、水泳でいうなら「自由形」(他の種目と異なり泳法制限が原則何もない種目)のイメージに近いでしょうか。prose(散文)は抑揚や感情表現が豊かなpoem(詩文)に対して事実を列挙するなどした平板で陳腐な文章を指していたそうだ。日本語の「散文」も味気なく情趣の薄い文章というネガティヴな先入観が付与された言葉です。

 ところが、かの大震災の直後には、あの出来事を詩文(詩的表現)を用いて表現するな、散文で(事実を淡々と列挙するなどして)書き記せ、記録を残せという主張をする者もいたように記憶している。感傷的になり、情緒に衝き動かされて、何かを見失うことを戒めていたつもりなのでしょう。

 そのことの是非は私にはわかりませんが、最大の問題は、おそらく誰も何もまっとうなことが書けなかった、書ける状況にはとてもなかったということなのかもしれない。はたして今書けるのかというと、それもまた疑問なんでしょうが。

 文章を書く技能などへのツッパリにもならない。言われてみればそのとおりですね。本当に「習い事」でマスターできちゃうんだと思います。つうか、書き続ければ自然に上達する。
 ただ日本人だからって、皆が皆日本語のマスターであるとも限らないわけですが。

 いまでもまだピンときていないのが、BioWareのワード・バジェット(語数予算枠)の発想。たしかにプレイスルー50時間近いRPGゲーム全体を見渡せば、単語数(ワード・カウント)と開発コストの間には密接な相関関係がありそうだなあ、とは頭ではわかるのですが、部外者には実感としてわからないですものね。
 しかも、この発想が例えばSkyrimやWitcherなど、異なるフォーマットのゲーム開発に適用できるかというと、できなさそう。

 ちょっと難しくいうと、あるビジネスの製品・サーヴィス別のコストを決定づける、間接コストを製品・サーヴィスなどに割り付ける指標となり得る要素を指してコスト・ドライヴァー(cost driver)と呼ぶ発想があるのですが、それはビジネスの種類によってさまざま違うとされていますし、必ずしもひとつしかないわけではない。

 BioWareではシナリオのワード・カウントをコントロールすることによって、開発コストを一定の範囲に収めることができるという前提を置いている。ここではなんと単語数が一種のコスト・ドライヴァー(のひとつ)です。

 前回でも、ある場合のyes や noは冗長で不要であると書いてあり、その一語で何が変わるんだよ、ととっさに思ってしまった。もちろん、そうした小さな事柄が積もり積もれば膨大になっていくと頭ではわかる。アニメーション時間が少しづつ増え、声優さんの拘束時間が伸び、モデルの動きとの整合性をとる必要が増え(唇の動きやボディ・ランゲッジなど)、ゲーム容量が肥大化していき、最終的に開発コストがかさむ。

 それだけではなく、冗長な、あるいは不要な文章が増えてしまえば、プレイヤーの没入度合を決める大事な大事な「テンポ」(ドライヴ感)も損なわれてしまう。そういったことも頭ではなんとなくわかります。

 ヴィデオゲームがアート(芸術作品)かどうかは依然としてわかりませんが、こういう話を読むにつけ、インダストリアル・プロダクト(工業製品)では決してない気が改めてします。クラフト(工芸製品)が近いのでしょう。
 このシリーズでも頻出した、コンピューター時代である現代の重要概念(と私が勝手に思っている)イテレーション(iteration、反復代入、書き直し、作り直し・やり直し)なんて、まさに壺つくりの発想ですよね・・・。

 一方で、KISSの話とか、まだ渡していない情報を使うなとか、クリティカル・パスで渡せ、可変文がどうとか、ここらはプログラミング、コーディングを少しでも齧った人にはお馴染みなところじゃないでしょうか。可変文(variant lines)には変数(variables)を用いるなんて、当たり前なこと書いてるなあ、と思いました。

 BioWareのゲームでこっちが驚かされるのは、そんなごく初歩的なプログラミングのお作法なんかではなく、「えっ、そんなデーター(変数)まで後々のために保持してたの?! マニアック!」という場面に遭遇するときですよね。例えば、まさかWarden's Keepの結末をDA2にまで引っ張るなんて予想外でした。あんまりマイナー過ぎて、最初関連がわからなかったくらい。DA2のセーヴファイルだって事細かなデーター(変数)をDA3で用いることができるように組まれているのでしょうけど、それを解析したところで網羅的に保持されているのでしょうから、どれが用いられるか予想するのは山カンにたよるしかない。

 そういえば、Baldur's Geteシリーズの著名なバグが"too many variables"、「変数が多すぎます」。だからゲイダーさんは控えめに用いるべしと断っていたのか。

 次回のネタが、BioWareにライターで入社するにはどうすればいいの?という、もうさらに興味の薄いネタ。気乗りしないので、ちょっとお休みさせてください。

on narrative design 9

 前回はゲイダーさんのゲーム開発におけるスイート・メモリーズの話題でした。
 すでに書いてしまったように、いつもだいたい一緒のネタです。
 
 BioWareはいまでこそDragon Age、Mass Effect、んー・・・、SWTORといった高額予算AAAタイトルを複数擁しているビッグ・スタジオの扱いですが、ゲイダーさん自身が携わったタイトルはいうほど多くありません。ゲイダーさんが入社前のもの(オリジナルのBaldur’s Gate)、無関係なもの(Mass Effectシリーズ、Jade Empire)などを除くと、意外に少ないのです。限定的に参加したもの(Neverwinter Nightsシリーズ、ただしHordes of the Underdarkではリード・ライター)まで含めて列挙します。

    Baldur's Gate II: Shadows of Amn (2000)
    Baldur's Gate II: Throne of Bhaal (2001)
    Neverwinter Nights (2002)
    Star Wars: Knights of the Old Republic (2003)
    Neverwinter Nights: Shadows of Undrentide (2003)
    Neverwinter Nights: Hordes of the Underdark (2003)
    Dragon Age: Origins (2009)
    Dragon Age: Origins - Awakening (2010)
    Dragon Age II (2011)
    Dragon Age III: Inquisition (2013) 制作中

 前回、ディーキン(Neverwinter Nights: Shadows of UndrentideとHordes of the Underdarkに登場)の話題もありましたが、ゲイダーさんが手掛けたのは後者の作品のほうでしょうかね。前者もそうであったか確証が得られる情報が見当たらない・・・。
 どちらの作品にもコンパニオンとして登場しましたが、後者のディーキンは前者とはかなり違う(極めて内省的な、実存主義的な、だからゲイダーさんが書いたのかなと予想するのですが)性格付けになっていた。(ちなみにObsidianが開発したNeverwinter Nights 2にも再登場しますが、そちらではほとんどカメオ出演の扱いでした)

 Neverwinter Nights(NwN)自体は、本来ダンジョン・マスターの存在まで前提としたマルチプレイRPG、ユーザー・コンテンツ推奨の「箱庭キット」、「素材集」として位置づけられていたために、キャンペーン・シナリオは良質ではあるものの「売り」としてグイグイ引っ張るような感じではなかった。主人公が(いわゆるオールドスクール派的な)どこの誰でもいい人物であったせいもあるかもしれません。主要登場人物やコンパニオン(ヘンチマン)の物語も基本テキスト・オンリー。まだ当時はフルタイムのヴォイスオーヴァー(声優)もついていません。

 エキスパンションであるShadows of Undrentideは、プロのファンタジー・ライターの手を借りたストーリーであった。小気味良い展開と、思わずニヤリとしてしまう仕掛けが用意されているクライマックス・シーン(あれは見事だった)のおかげで、個人的にはわりと好きな作品なのですが、どちらかといえばベタなファンタジー。
 Hordes of the Underdarkは、(高レベルに達したDnDキャラクターが用いる)ど派手な魔法や武芸の技、高レベルのモブのせいで見た目イケイケドンドンの趣きがあるのですが、一方で実は極めて内省的な(つぶやきの)物語。中盤あたりに登場するケイオティック・イーヴィルなウィザードの造形が強烈で今でも記憶に残っているし、「あのお方」の再登場(しかもコンパニオンとして!)もシリーズ・ファンにとってはたまらないし、その人自身の内省的な物語も含まれている。シナリオはオリジナルより優れている面が多いと思います。
(ここで内省的な物語というのは、ゲイダーさんのいうところの「複雑な内面的人格に関する」ことですね)

 それにしても、NwN時代には二年以内に本編と大型エキスパンションパック2本までリリースしていたわけです。もともとユーザー・コンテンツ(Mod、シナリオ)の創作を推奨するゲームであり、かつ物語はテキスト・ベースですから、開発効率も高かったのでしょう。NPC・コンパニオンの声優もフルタイムではついていない時代。

 ちょっと脱線してしまいましたが、ゲイダーさんのスイート・メモリーズは(小説・コミックを除けば)この範囲に限られるわけです。たったこれだけなのに存在感があると感じるか、それとも少ないと感じるか。個人的には、10年ちょっとの期間でフランチャイズ(シリーズ)4つに携わったというのはかなり多いほうだと思いますが。

 そういえば、Dragon Ageの次の小説のタイトルが発表されていた。"The Masked Empire"。オリージャン・シヴィル・ウォーが舞台で、女帝セレーヌ(セリーン)(Empress Celene)と叛乱勢力を束ねるギャスパール(ギャスパード)卿(Grand Duke Gaspard)との確執が描かれるそうです。
 ところが著者はゲイダーさんではなく、Mass Effectのシナリオも担当したことがあるパトリック・ウィーケス(Patrick Weekes)氏。発売は2014年4月。

 ゲイダーさんは先週あたりサバティカル・リーヴ(長期有給休暇)だったそうですが、今年はDA3の開発もあれば、DAコミックの原作もまだあるかもしれない。The World of Thedasも4月に発売されるのは第一巻であり、続編が用意されているはず。多忙な一年になりそうなのが筆者交替の理由なのか。あるいはDAシリーズのフランチャイズ展開はまだまだいけると踏んだ拡張主義なのか。 
 ゲイダーさんが「自分のベイビー」に等しいDAの小説を他人の手に委ねた動機について教えてほしいものです(すでにフォーラムのどこかに書いてあるのかな)。

*****

 第九回はWriting, BioWare Style(ライティング、BioWareスタイル)。

 ゲイダーさん本人が「退屈だよ?」と断っているように、実は私個人の興味も限りなく低く(いまさらゲームライター志望なんてありえない)、真面目に訳する元気が出ない。とはいえ、シリーズの訳をここで終わらせるのもどうかと思うし、プレイヤー(読み手)が書き手の手の内を知ることは無駄なわけじゃない。ただし、例えば私のような「すれっからし」の読者・観客・プレイヤーになってしまう危険は大きいのですが。Ignorance is bliss!(無知こそ至福、知らぬが仏)

 ぼちぼちやってみましょう。

http://dgaider.tumblr.com/post/37339682142/on-narrative-design-part-9-writing-bioware-style

 警告しておくが、今回の話は、セリフを書くにあたっての事細かなお作法について好奇心を抱いている一部の人の興味にしか合致しないだろう。他の種類のライティングにどれだけ適用できるかどうかもわからないし・・・、おそらく一部はできるだろうが、我々がゲームのためにやっていることの多くは、ゲームのためだけのものだ。その事実は、ここ何年もの間にわたって新たにライターを雇おうと試みてきた我々の経験から実証されている。言ってしまえば、文章を綴る(prose)技能だけでは足りないのだ。良い文章を書かなければならないことに違いはないが、それをどう用いるかがわからない限り、ゲームの世界では通用しない。

 その最後の部分が常にフラストレーションが溜まる原因になる。ライティング一般は技能としてほとんど評価されないのであり、訓練によって身に付けることができ、あるいは自分で「上達」することができるものとみなされる。自分で書けるか書けないかによらず多くの人たちがそれを才能だと考えているし、確かにそういう部分もあるとはいえ、それは数式全体のごく一部を占めるだけだという事実に変わりはない。文章を書けるからと言って自動的に良いライターであることを意味するわけではないし、良いライターだからと言って自動的に良いゲーム・ライターであることを意味するわけでもない(良いゲーム・ライターであるからといって自動的に良い小説家を意味するわけでもない。私も三冊の小説を書いて、それまで全く知らなかったことを「山ほど」学んだ)

 BioWareに応募してくるライターにとって、この困難さは実際自分で手掛けてみるまでわからないからやっかいだ。突然、「いやいや待ってくれ、想像していたよりもずっと多くのことを気に掛けないといけないのか!」と気が付く。突然、プレイヤー・エイジェンシーについて考慮することを求められ、会話は分岐することを迫られながらも全体の調子は統一されていなければならず、主人公の声は自分の力ではコントロールできない。まあ、そこが面白いのだが。

 一緒に働く新米ライターに私が贈る、いくつかの力量向上のためのアドヴァイスをここに示しておこう。

1.会話の流れをコントロールしろ
 
 どんなライターでも、それぞれのセリフの分岐をまったく別の会話の流れとして書こうとする本能を持っている。ひとたびそうやってしまえば、あっという間にそれぞれの流れに対するコントロールを喪うことに気が付く。予算枠(訳:ワード・バジェット、語数制限のこと。BioWareのRPG開発では、セリフの長さと開発コストに相関関係があるという発想にたっている)も吹き飛んでしまい、書いた3千語のセリフのうちの80%もの部分がプレイヤーの目に決して触れないことになり、驚くほど容易に会話の脈絡が喪われていく(特に情報提供が目的のセリフの場合、最悪の事態を招く)。ボトルネック(セリフの流れが合流するポイント)を頻繁に用いること、さらに重要なことは、自分の書いたセリフを声を出して読むこと! 会話が自然に感じられるようにする最良の方策は、感じが全く異なっている関連したセリフを続けて読んだときにどのように聞こえるか試すことである。

2.まだプレイヤーに渡していない知識を用いるな

 これは大事。新米ライターは、ある知識が、プレイヤーがまだアクセスすることができない場面の別のセリフでしか学べない事実を忘れがちである。あるいは「別の」クエストを通じてしか学べないにも係らず、プレイヤーがそのクエストをまだ完了していない可能性もある。この手の齟齬をつぶすには二つの方法がある。

・必須(クリティカルな)情報は、クリティカル・パス(プレイヤーの「全員」か必ず通過する場面の会話)で開示せよ。例えばボトルネックはクリティカル・パスの一種だ。流れはこんな感じになる。

 クリティカル・パスのセリフ - クリティカル・パスのセリフ - 選択肢 - 選択肢 - ボトルネック - クリティカル・パスのセリフ - クリティカル・パスのセリフ - 選択肢 - 選択肢 - 選択肢 - ボトルネック - エンディング。

 この場合、分岐をもたらすプレイヤーの選択は最初の「選択肢」セクションで発生するが、またボトルネックによってクリティカル・パスに引き戻されるわけだ。

・可変文(variant lines)を用いよ。会話の別の部分か別のクエストにおいて、必須ではない(optional、訳:必ずしもすべてのプレイヤーが知るところにはならない)情報の一部を開示することになっている場合には、プレイヤーがその情報を受け取ったことをゲームに記憶させる変数を用意する。プレイヤーのあることについての知識の有無を考慮したセリフを用いようとするときは、プレイヤーが当該知識を「有していない」場合まで想定した「可変文」を用意する必要がある。可変文は素晴らしく、プレイヤーの行動に対する反応を表現したいときは特に重宝するが、控えめに用いなければならない。

3.「もし自分がプレイヤーだったらどうしたいだろう?」

 これは重要だ。質問の部分を書こうとしているなら、プレイヤーが理論的に何を知りたいと思うか考えよ。「君は誰?」、「私はどうしてそうすべきなの?」
 もしキャラクターが述べた内容がより多くの疑問を惹起しそうであれば、プレイヤーにそれを掘り下げることができる機会を与えよ。

4.プレイヤーに異なる意見を与えよ

 散文書きが犯す最も一般的な誤りは、主人公の表明する意見(voice、示す態度)をひとつに固めてしまうことであるが、自分が完全にコントロールできるひとりの主人公について書くことに慣れている者にとって、それは致し方のないことだろう。

 ゲームが特定の主人公(Mass Effectのように、主人公は常に兵士)の場合であっても、異なるプレイスタイルを念頭においておかなければならない。「善良なる」プレイヤーはこの状況で何をしようとするか? 他人に対する興味を持たない者ならどうか? 後先構わず突っ走る(gung)タイプのセリフ・パスと同時に、もっと注意深い、情報重視型のプレイヤー向けのものも用意したか?

 確信がないなら、あるタイプのプレイヤーの「ロールプレイ」をしながら全部のセリフを読み直してみて、そのタイプらしい発言をなし、行動に示す機会を与えているかどうかチェックしてみることだ。すべてのプレイヤー・タイプ向けに用意する必要はないが、それらを「排除しない」ように気を配る必要もあるわけで・・・、つまり複数のプレイスタイルに適応できる「中立的」な選択肢を用意するほうが、ある過激なタイプのプレイヤーにしか向かないたったひとつの反応しか用意しないよりずっと優れているということだ。

   また、自分の主人公が男性に限らず女性かもしれないことも忘れないこと。ゲイかもしれずストレートかもしれない。主人公の示す意見(態度)よりさらに深い人格面にまで踏み込むことを意味する。ただし、あまりに差異を強調しすぎてライター自身の人格の一部を押し付けてしまうようなことは避け(「ああ、あなたは『女性』キャラクターですか! ではあなたがどれだけ『女性的』であるか示してあげましょう!」)、また一方では、ライターがたったひとつのものの見方しか有していないとプレイヤーにはっきり悟られるような押し付けも避けること。私自身は、時折「彼女」を主語に用いて書くことを心がけている。なぜか? そうすることで、男性の視点だけを用いることのないように始終注意を払うことができるし、私にはそういう注意喚起が必要だからだ。この手のことをやればやるほど、主人公が男女ともありうること(訳:原文shared creationなので、その他様々な属性の差異も含意しているのでしょう)を忘れる罠に陥る危険も減っていく。

5.ある事柄についてプレイヤーになんら選択の自由を与えない場面であっても、プレイヤーはそれをどう「感じるか」について常に自由を有している。

 ライターは、プレイヤーのセリフに対する反応やプロット上の出来事すべてをコントロールしている。プレイヤーをプロットに従わせるための無数の手段を有している。とはいえ、プレイヤーがプロットについて様々な感じ方をすることを妨げることはできない。

 時たまプロットが強引に進行してしまう(railroading)ことに対して、プレイヤーが不満を表明するセリフを用意してあげれば、プレイヤーのストーリーへの没入度合が減じられることはない。その反対に、プレイヤーも共感できるような形で、主人公が抱く感情を表現できるようにしてやれば、プレイヤーはプロット上の出来事にとても深く感情移入することになるだろう。
 とどのつまり、優れたドラマとは、望みもしないのにとある状況に無理やり置かれた「たくさんの」人々からなるものである。やり方は色々だが、それがドラマを「作り出す」のだ。

6.大きな選択がないのであれば小さな選択を与えよ

 会話の行きつく先があからさまであればあるほど、プレイヤーがその当然の帰結にいきつくまでの間に多くの選択を与えるべきである。プレイヤーに代替策を提案させ、どうしてそれがうまく行きそうなのか説明させる。不公平に対する愚痴をこぼさせる。もちろん、回りくどさや説明に付き合うようにプレイヤーに「強制」することは避け、最大スピードで結論に突っ走るチャンスを与えることも忘れてはならない。プレイヤーのすべての反応を単一の中途半端な承諾に行き着くようにしてワード・カウントを節約することは確かにできるが、プロットが強引に進行する部分というのは大抵もっとも重要な場面であるから、我々はプレイヤーから好意的に受け止めてほしいのだ。

7.「もしこれがなかったら惜しいか?」と常に自問せよ

 プレイヤーに対して「すべての」質問をする機会を与える必要はない。すべてのありうべき情報を与える必要はなく、敢えてそうすれば説明過剰という範疇に陥ってしまい、それは説明不足と同じくらいよろしくない。そのセリフがなかったとしても、プレイヤーがゲームを進めるうえで困らず、ゲーム体験を損なうこともないのでなければ、取り除いてしまえ。情報はセリフ以外の方法、例えばコーデックスでも提示できるし、プレイヤーの想像に任せてしまうことだってできる。どのみち、プレイヤーはみんな自分で想像する力を持っているのだ。

8.「咳払い」を避けよ

 ここはライティング全般に適応できると思われるが、特にゲームのセリフを書いている場合に大変な過ちをもたらす点だ。結局のところ、我々は映画の台本と似たようなスタイルを用いなければならないのであって、世間一般における社交儀礼は省略されなければならず、言葉を水増しすれば場面から緊迫感を丸ごと奪ってしまうことになる。編集者はそうした点を見つけ出すように訓練されているのではあるが、より良いライターになるためには自分自身でできるよう心がけなければならない。特に以下のようなことだ。

 “seems”, “believe”, “feels like” 

 そこに表現された内容は単なる意見である、と示すことが必須でない限りこれらの単語はただの水増しだ。

  “ing” form of verbs

 (動詞の進行形) 動詞を原形(現在形)で用いた場合より表現が弱いうえに、”is”を伴う。

   two closely linked verbs

  (ふたつの密接に関連した動詞) プレイヤーがあることとまた他のあることを行うように求められた場合(例えば、“find him and call him back to camp”「彼を探してキャンプに戻れと告げよ」)、第二の動詞が第一の動詞を包含していないかどうか自問せよ(この例の場合、彼を探し出さない限り、彼に戻るように伝えることはできない)。もしそうであれば、第一の動詞を削除せよ。

 “yes” and “no”

  内容を明示する文が次に続くのであれば(例えば、“Yes, I imagine that’s so.”「はい、そうだと思います」)、最初のyesやnoは不要である。

  rephrasing of the player’s previous line

  プレイヤーの反応を繰り返すのはありがちな誤りであり(例えば、“I am a Grey Warden.” “A Grey Warden? My father was a Grey Warden!”「私はグレイ・ウォーデンだ」、「グレイ・ウォーデンですって? 私の父もグレイ・ウォーデンだったのですよ!」)、大抵の場合、最初のオウム返しの文は不要だ。(だがこれには重要な例外があって、そのセリフが、その話題を明示的には持ち出していない他のセリフにもつながっていく場合には必要である)   

 redundant repetition

 (冗長な繰り返し)「最も」ありがちな間違いは、ライターが同じ感情を異なる表現で繰り返し述べることだ(例えば、“There is nothing we could do. It would be pointless.”「俺たちにできることなんてないよ。何をしても無意味だ」)。こうならないように自分の文章を注意深く監視しなければならない。

 “well…”, “come to think of it…”, “if you’re curious…”, “as a matter of fact…”
 「ええと・・・」、「考えてみれば・・・」、「きっと聴きたがる話だが・・・」、「何を隠そう・・・」

  これらのフレイズすべてが、話者がある者から次の者へ移ることを示すためだけに存在している。ぎこちなさを避けるために必要とされる場合もときとしてあるが、多くの場合はなくても済む)

9.「簡潔にしとけ、ばか」(Keep it Simple, Stupid、KISS)

 KISSが重要なプログラム指針であるには理由がある。クエスト・デザインの見地からも、ライティングの見地からも、物事が必要以上に複雑である必要はまったくない。過剰な複雑さは理論的見地からは常に良いことだとみなされているが(だから我々のフォーラムではゲームを純粋に理論的な観点から評価することがもてはやされている)、実践では全く役立たない。

 もちろん「優雅」なことと「簡潔」なことの間には違いがある。陳腐なものになってしまうまで何もかもそぎ落としてしまえと言っているのではない。キャラクターの意見(態度)の幅や予想外の展開の余地は残さなければならないが、ライターは自分がコントロールを喪うことのない範囲内にそれらを留めておかなければならない。自分で経験したことのあるよりもずっと複雑なことを手掛けると、やがて情報の流れがまだらになって何が起きているのかまったくわからない、しっちゃかめっちゃかな状態に陥ってしまう。一体全体、誰に感心してもらおうとしてるんだい?

 もちろん、上述したもの全部あわせても、会話を構築する物理的プロセスを隅々まで示したものではないわけで、他にもセリフのつながり、ハブ(hub)の構成、シネマティック・シークエンスにおける配慮、クエスト・デザインとの関わり合いなどのテーマがあるが、以上が取り掛かりにはなる。ある一定レヴェルまではどのように「書く」のかまず知る必要があるわけで、ゲーム・ライティングの技能はその基盤の上に構築されていくのだ。ほとんどの場合、新米ライターには簡単なことからはじめてもらうことにしており、例えば場面がひとつだけのクエストとか、複雑さのない「あれとって来い」クエスト(fetch-and-retrieve quest)がそうだ。次は複雑さを加えたものを要求し、(理想的には)クリティカル・パス・クエストが書けるようになるまで、徐々に複雑さを増していく。

 これは仕事だ。イテレーション(訳:書き直し)が求められるし、根気がいる。応募してきた人々の中には、最初の取り組みでこれらすべてを一発でマスターできると考えている者がいるが、自分が書いたものに対して、本質的ですら全くない部分で数知れないくらい基本的な問題があるという添削結果のフィードバックを受け取ると、そこで諦めてしまうのだ。この仕事はとりあえず飛び込んで、自分でうまく乗り切らなければならない類のものであって・・・、それ以外に方法はない。

 ともあれ、ここまでにしよう。以上が要点だ。

2013年4月 8日 (月)

on narrative design 8

 前回は「カットとリライト」、ゲイダー節の中でも私のフェイバリットなお話であった。

 ゲイダーさんの「カットは必ずやってくる」ことに対する嘆き節、“Oh, the humanity.”は、「なんともはや」とか「やれやれ」とか、そんな意味の常套句(イディオム)だそうですが、最初は真面目に考えて訳そうとしました。
 「全知全能ではない、一瞬先も予見できない、不完全で憐れなヒューマニティ(人間)よ」とか。

 それ自体は見事に「はずれ」ですが、調べてみたら面白い。ハーバート・モリソンなるアメリカ合衆国シカゴのラジオ局リポーターが飛行船ヒンデンブルグ号の大惨事を実況した際のアドリヴであった。Wikipedia(en)にはその録音まである。

 このアメリカ放送史上屈指の有名な実況は、リアルタイム・ブロードキャストではなく(資機材が手元になかった)、現場で技師が録音したディスクを放送局まで運んで放送したディレイド・ブロードキャスト(当時ニュースを録音してラジオ放送することは原則禁止されていたが、この事件がさきがけとなった)。

 以来このフレーズは、おもにアメリカ合衆国において、過剰に感傷的と見なされる感情表現を小ばかにし、ないがしろにし、些末なものとして扱う、風刺的な意味合いで用いられることになった。

 Urban Dictionaryの例文(多少脚色)。

「教室でメールしたからって教師にスマホ取られたんですけど! ありえない! もう家出するしかないし!」
「Oh, the humanity.(おお、よしよし)」

 あるいは、世界の政治的リーダーの暴虐的活動を皮肉るためにも用いられるようになった。

 ところがモリソンが現場でとっさに口にしたときの本来の意図は、「大勢の人々(humanities)(が死に瀕している)」という意味だったはずであるというから、意味までも二転三転していることになります。

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 今回はwhen things go right、「うまくいったとき」

http://dgaider.tumblr.com/post/37244692510/on-narrative-design-part-8-when-things-go-right

 また嘘をついた。
 
 今回は本当のライティング・プロセスについて書くと言ったのだが、実際のところそれは退屈なんだ。場合分けセリフの構築法なんて読みたがる人いるかい? まあ、中にはいるだろうが。それは後から書くことにしよう。

 前回のポストに対してもらったコメントのひとつに、信じられないくらい上手く行ったときのことも書いたらどうだというものがあった。この仕事でどれだけ悲惨な目に会うことがありうるかを書いた後なので、それもいいかもしれない。

 つまり、そんな場合も多々あるのだ。自分でやらかしたこともあれば、ライター・チームの誰かが成し遂げたこともあるが、どんな場合でもいつのまにかピンときたという感じである。誰もが即座に認めるような素晴らしいアイデアを有していて、それがぴったりはまることはこの世のどんな力も妨げることはできないような場合。プロットやキャラクターが・・・、まあまあなのに、出来上がってみたら期待したより遥かに見事な場合。そしてその理由には口ではとても説明できない何かがある。「みんなが『気に入った』って? へえ・・・」

 HK-47が適切な例だろう。このキャラクターはKnights of the Old Republic(KotOR)に登場するアサシン・ドロイドであり、ドロイドのように喋るとされていた((訳:同じゲームに登場する別のドロイドである)T3M4のように、だがもう少し暗く邪悪な口調で、なかなか掛からない自動車のエンジンのような感じだろうか)。私はジョリー・ビンド(訳:別の登場人物)のセリフを書き終えたばかりで、正直出来栄えにはかなり満足しており、だからこそそんなにも早く書き上げることができたのだった。

 そこでリード・デザイナーであるジェームズ・オーレンがHK-47のセリフを書かないかと言ってきた。私は抵抗した、自動ライフルみたいな名前のアホなドルイドのセリフを書けというのかと?(実際の命名はあの自動ライフルとは関係ない、ただの偶然だったのだが、当時の私はそのことを知る由もなかった) や・め・て・く・れ。だが結局私に割り振られ・・・、仕事が早いとこのようにひどい目に会う、というわけだ。
 
 まあ、それはいい。納期まで一週間ちょっとの時間しかなく、ゆえに他のコンパニオンに比べると短い分量に仕上げなければならなかったのだが、彼には何かの味付けが必要だと思った。Littlest HoboというカナダのTVシリーズ番組がCBCで繰り返し再放送されており、主人公の犬が色々な飼い主のことろを渡り歩きながら、彼らの生活ぶりを良くして回るという内容だったが、そこからインスピレーションを得た。

「へ? HK-47とLittlest Hoboに何の共通点もないじゃないか!」という声があるかもしれない。だがそれは間違いだ。HK-47こそ反(アンタイ)Littlest Hoboなのだ。様々な雇い主の間を渡り歩き、彼らの自滅に何らかの手助けをして回るのだ。この発想が愉快だったので、アイデアの骨格部分はすぐできた。彼の「肉の塊」(ミートバッグ)という口癖は書いている途中で思いついたのだが、アンドロイドがヒューマンを唾棄すべき存在だと考えるのは、我々を有機物の塊として見ているからだと想像したからだった(60%が水分で構成されているなんて私に言わせればピチャピチャだ)。それが気に入ったので過剰気味に用いた。いつもお決まりのセリフをしゃべるキャラクターが生まれるきっかけだった。私はほくそ笑み、納期通りに仕上げて、あとはほうっておいた。

「ほら! 満足したかい、ジェームズ? アホなアンドロイドのセリフを仕上げといたぜ」

 正直言えば、担当した声優が素晴らしかった。優れた声優が手慣れているように、キャラクターを完全に換骨奪胎してくれた。それはもうカンペキだった! 彼は好評を博し、2004年のGDCアワードの「オリジナル・キャラクター・オヴ・ザ・イヤー」賞をはじめとした各種の賞に選ばれ、Star Wars: Galaxiesにまで登場することになった(きっとRobbie the Robotのように腕を振り回しながら、画面から消えるまで「ミートバッグ! ミーーートバーーーッグ!と叫び続けるんだろうと思った。そうじゃないかもしれないが、そんなふうに想像するのが愉しかった)。

 私はいつまでも頭を掻きながら思い悩むことになるだろう。あのキャラクターの人気を妬むわけでもなんでもないが、彼には複雑さがないという事実に思い悩む。キャラクターが人々を楽しませるためには複雑な人格である必要は必ずしもないことに思い悩む。ここには教訓があると思う。私はそんなことはまったく予想もしていなかったのだ。

 他の予期せぬ幸運? ロマンスだ。ああもちろん、我々の書くロマンスに対して「もういい加減にしろ」と考えている者たちがいることは十分承知している(ここでヒップスター・スラッシングのキュー)。まあ、それはともかく。それについてはすでに書いた。すべてのゲームにロマンスが必要だなんて(これっぽっちも)思っていないし、我々が完璧に仕上げているなどとも思っていないが、突き詰めて考えれば、他の会社が手掛けていないものであることには違いない。我々の名が知られていて、我々が際立っている理由の一部だ。

 あるいは、少なくとも今はそう思われている。遡ること1999年にはそうではなかった。私はBioWareに加わったばかりで、Baldur’s Gate II の舞台となるAthkatlaにおける数多くのプロットを書く作業にようやく取り掛かったばかりの頃だったが、ジェームズ・オーレンがゲーム全体を通して続く主人公とロマンス相手との間の長い交流の連鎖、すなわちロマンス・プロットについてのアイデアを私に告げた。なんだか・・・、簡単そうに思えるよね? 当時私の知る限り、その手の試みを手掛けた者はそれまで誰もいなかった。少なくとも、そこまでの広い範囲に渡っては。Final Fantasy 7にもロマンス・アークのようなものはあって、あれは私もプレイしていた。あんな感じのものか?

 とんでもない悪夢だった。BG2の様々な事柄と同じようにこれもまた当初の目論見から肥大化していった。事あるごとにいちいち「ねえ、ロマンスというならここでこういうことがあるんじゃないか?」とか「ねえ、これも入れたら」とか「ねえ、ボーディ(訳:敵役キャラクターのひとり)がロマンス相手を拉致してヴァンパイアにしてしまったりしないのかな」とか追加されていった。それら自体はまあ難しくはないよね?

 確かに素晴らしい考えだったが、スプリプト・チームはコンテンツを遅れず消化しようとてんてこ舞いしているところだった。リアルタイム制のプロット・タイマーをゲーム内タイム準拠のものと同居させるなんてバグを生み出すためのレシピだ。バグ、バグ、バグ、バグ。私の経験した最初のゲーム開発だったので、そこには唖然とするようなバグの海が広がっているように思われた。ジャヘイラ(訳:ロマンス候補である登場人物)のロマンスに関するだけでも数知れないくらいのバグがあって、ひとときジェームズのオフィスのドアにはこんな表示まで貼り出されていたくらいだ。
 「もしジャヘイラのバグに関する話をするため来たのなら、そんな話は聞きたくない!」

 間違いなく全部カットされるんだろうと思っていた。しばらくのあいだその崖っぷちでシーソーを繰り返すんだろうと思っていた。

 だが実装された。あまりに多くの努力が無駄になると思われたし、見事におじゃんになる可能性があまりに高かったとしても、「実のところ」中身はいけていた。あの頃はそんな感じで我々にはかなりの余裕があった。だがまさか「人気を博する」など思いもしなかった。男性ゲーマーたちが(女性ゲーマーにはひとつのロマンスしか用意されていなかったことを覚えているだろうか)この手のコンテンツを本当に望むのだろうか? 見通しはかなり疑わしいものであった。

 ただ気に入られただけではなく・・・、わあ。ロマンス・プロットはひとかどのものになった。独り立ちした。皮肉屋たちはきっと、我々が好意的な反応しか認めておらず、それらのプロットが明らかに退屈極まりないことすらわからない、みじめで騙されやすい阿呆たちの「女衒」(でた、またこの言葉だ)のようなことをしているだけだと考えるのだろうが・・・、それは「理屈抜きの」反応だったのだ。そのことを無視はできない。今までみなが見たこともないものであり、もっと見たいと思うようなものであった。だから、そう、めちゃくちゃ上手くいったものだと言っていい。その出だしに自分が携わったことは素晴らしいと思う一方で、当時男性向けロマンスを書きたいと考えていたライターが自分しかいなかったことを思い出すと、ちょっと癪に触ったりするのだ。時代は変わったものだ。

 「うまくいったこと」について他にもいくつか話ができることもあるだろう。カース・オナシ(訳:KotORのキャラクター)の研究遠征隊についての話もできる(ネヴァーウィンターの淑女たち、元気かい!)。ディーキンの実験に関する話もあるし、闇の儀式がもたらした苦悩に対しては無上の名誉を感じるし、DA2のアヴェリンとイザベラの出来栄えと強い女性モデルとしての評判には大変な誇りを感じている(書いたのは私ではなく、それぞれルーク・クリスチャンソンとシェリル・チー)。さらにはDragon Ageそのものも含まれるかもしれない。特に結局ひとつにまとめ上げることなんてできっこないとずっと思われていたにも関わらず、半分は奇跡のような感じでまとめ上げられ、さらには大変気に入られる作品となったのだから。

 だが、この辺にしておこう。振り返るに、今回についてはあまり有益な情報を含んでおらず、このシリーズで本来意図したよりもずっと回顧の話に傾いているようだ。
 でもいいかい? ここは私のブログなんだからね。

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 まあ、たしかにゲイダーさん自身のお気に入りの「仕事」のお話はいつもこんな感じですね。BGIIヴィコニアのロマンスと、DAOアリスターが加わればフルラインナップかな。

 個人的に大成功と思っている、ジョイニングの儀式のアイデアについても触れてほしいなあ。DnDパラディン・オーラのアイデア(あれはとにかくすごい)に匹敵すると思うのですが。

on narrative design 7

 一か月前から、ゲイダーさんブログの紹介も途切れていました。

 この回はほぼ完成近くまではできていたのに、プツンと途切れたままになっていた。まるでさっきまで書き続けていた主がふいに姿を消したかのように。

 難破船メアリー・セレストかっつの。

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 第六回目のテーマは、「クエスト・デザインはひとりでやるな」でした。

 BioWareでは「群れ」(pod、クジラなどの群れ)なる仕組みを用いて、デザイン分野間の協業を促進しようとしている。
 ビジネスの世界では、横断チームとか、タスク・フォースとか、色々な呼び名があります。
 トラブルシューティングなどテンポラリーに集まる場合はアドホック・チームなど呼んだりもしますが、ここでいう「群れ」はクエストのデザインから、実装、ゲーム全体の完成まで継続的に集まる常設のチーム。

 以下、例によって余談と言えば余談。

 最近(この部分一か月前に書いていたのでネタは古い)珍しくテレビドラマを観ていて(スミマセン、「ビブリオ」だけは観てしまっている(番組はすでに終了している)。いや、あやめちゃん目的じゃないから!)そのまま垂れ流していたら、別の番組でタレントの誰かが映画「トップガン」の大ファンであり、英語のセリフを全部そらんじていると自慢していた。だったら何かやってくれと催促されて披露したのが別に暗記もいらないようなしょうもないセリフ・・・。

 あの映画のシナリオには言うほど大した名セリフが(ロマンス以外には?)ないのですが、次のこのセリフはなぜか今でも覚えている。

 教官が操縦する仮想敵機との2対2の空中戦訓練中、F-14トムキャットを操縦する主人公は、功をあせるあまり自分がペアを組む僚機を置き去りにして敵一機を追撃してしまい、結果的に味方側2機とも撃墜の判定をくらう。
 映画中の空中戦訓練では今巷で大はやり(これももはや旧聞か)の「ロックオン」(攻撃管制レーダー照射)を受けた時点で撃墜扱いとなる決まり。
 米軍では編隊のぺアを組む先導機をリード(lead)、少し後ろにつく僚機(支援機)をウイングマン(wingman)と呼びます。
 訓練終了後、呆然とする主人公に、敵機役のパイロットであった教官のひとりがこう告げます。

 “You never, never leave your wingman.”

「何があっても僚機から離れるな」

 もちろん、ゲイダーさんのお話の本当のポイントは「常に対話しなさい」ということです。デザイン組織のコミュニケーションのことを言っています。
 自分の視座だけからの情報に基づいて、自分の力(脳みそ)だけでなんでもできると思うな、という戒めです。近くに対話できる脳みそが、動かせる身体があるなら全部使え。
 「チームワーク」ってやつですね。これもまた日本人がメチャクチャ勘違いしている言葉のひとつですが。

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 第七回目の副題は、”when things go wrong, and they will” 「物事がうまく行かないとき、それは世の常」

 数あるゲイダー節のなかでも、ここは私が特に好きなくだりです。
 マーフィーの法則ではないですが、予定は未定、計画は完成した瞬間から現実とずれていく、作戦が始まったとたんに事態は想定外、物事はうまく行かないのが当たり前。

「くよくよしてないで今日はニッコリしとけよ。明日にはもう笑うことすらできなくなるんだから」(「マーフィーの法則」から)

 でも、皆、何が起きるかわからないから生きているんでしょうけどね。

「すべてが順調に思えたら、それは単に君の走りが遅いだけ」(マリオ・アンドレティ、F1チャンピオン)

“If everything seems under control, you're not going fast enough. ”

http://dgaider.tumblr.com/post/37172743489/on-narrative-design-part-7-when-things-go-wrong

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 物事がプラン通りに進むなら、それは素敵なことだ。例えば、ゲームのメイン・プロットが計画した通りに製品化されるなら、いや少なくとも主要クエストのひとつでも実行計画から最終実装までそのまま円滑に移行できるなら、私は大満足するだろう。私がそんなことはどちらも決して起きないと言うと、皆は誇張しているだけだと思うかもしれない。完成したゲームはとても素晴らしいわけだし。だとしたら何が問題なんだ?

 私が次のようなことを知っているのが問題なのだ。 

 「ああするべきだった」、「こうなるはずだった」、「こうできたかもしれない」といった数多くの後悔について、私はどれ一つ洩らすことなく苦痛とともに覚えている。カットされたところ、わけのわからなくなったクエスト、一千以上もある理由のどれかのため喪われた素晴らしいチャンス。最近私は、自分の携わったゲームをリリース後にプレイすることはしないと言った。そしてそれは本当だ。その理由の一部は、ゲームがリリースされる頃には私はもう一千回もプレイしていることだ。ありとあらゆる細かいところまでプレイしてしまってるから次のようなことになる。

 あらゆる瞬間に次に何が起きるか知っており、すべてのセリフやシーンがどう作られたか、その陰に隠れた理由まで知っている。それに加え、そこに「ない」もの、すべてのクエストが当初はどう計画されていたかも、どこが削除されたかまでわかっている。だからもうプレイはできない。

 「まるであなたの話を聞いていると」、このような反応があるかもしれない。「ゲームのライティングというものは、内容の素晴らしさを次々と奪っていくようなもので、しかもあなたは自分の作品を丸ごと嫌っているようだね」

 そうではない。私は自分が完成を手助けしたすべての事に対して間違いなく名誉を感じているのであって、それは我々が直面したすべての試練について覚えているからだ。私がアイデアなんてどうでもいいと言ったことを覚えているかい? ゲーム開発は「実装」こそが命だからだ。ごく凡庸なアイデアからなるゲームも、うまく実装されればありえないほと良い出来栄えになるかもしれない。信じられないほど優れたアイデアのゲームは、まずく実装されればごく凡庸なものになるかもしれない。他に抜きんでた開発チームは、こうした試練にいかに耐えたかによって生まれるのだ。

 さらに、これらの試練は開発が進むにつれて深刻なものになっていく。リリースが近づくにつれて試練にきちんと対応するための時間は減っていく。知恵を絞って、あまり優雅とは呼べないその場しのぎの方法を試さなければならなくなる。限られたリソースで間に合うように、とても理想とは呼べないような形にプロットを書き直さなければならなくなる。とてもカットなんてしたくない部分をカットするため、冷酷な気持ちにならなければならなくなる。リリース延期にはペナルティが課されるから、これらは「すべての」チームが直面することなのだ。本当に延期されてしまうことだって往々にしてあるが、それには常に代償が付きまとうのだ。

 これらすべてがゲーム開発の中で最も愉しくない部分であるが、だからこそ我々がプロフェッショナルと呼ばれる理由でもある。有志が集まったグループが作ろうとする数多くのmodが結局完成しない理由も、このすべてを完成させるべき開発の最終段階が面白くないことにある。誰だって何度も試行錯誤を繰り返したりコンテンツをカットしたりするよりも、新しい趣向やコンテンツを付け足したりしたがるわけで、目標としていたリリース時期はどんどん先送りされ、やがて忘却の彼方へと消え、そして放棄される。プロジェクトの完成に勝ることなどないのだから、それは大変気の毒なことだ。

 完成させるために潜り抜けなければならなかったすべての苦行にも関わらず、自分自身の成就したことに対する圧倒的な誇りの気持ちを抱くことは禁じ得ないし、チームがすべてをうまく纏め上げて、二か月前にはどこをどう見ても「ゲーム」になんて見えなかった代物をまがりなりにも皆が実際に楽しめるものに仕立て上げたことに対して、少なからざる驚嘆の念を抱くことになるのだ。

 私が最初に開発の手助けをしたのはBaldur’s Gate IIであった。あのゲームでは多くの事柄をカットした。どでかく、痛ましい数々のカットが当時はまるでゲームのすべてのように思えたものだ。カットされた部分があまりにでかかったため、ゲームがメチャクチャになってしまったと感じられたくらいで、それを糊と糸で無理やり継ぎ接ぎした代物をリリースなんてしたらファンから間違いなく嫌われるだろうと考える者もいた。つまりファンは我々が見事にしくじったと考えざるを得ないだろうと。一日14時間働いて、夜には食堂のカウチで眠りこけていたあの頃の私の働きには何の意味もなかったのだろうと。

 もちろんそうはならなかった。私は今でもBG2のボックスセットを持っているし、なぜだかあのゲーム開発に関する私の記憶は本来そうあるべきものよりもかなり愛おしいものになっている。あそこで教訓を学んだことには違いない。

 つまり、これからとても簡潔な概要を下に示すふたつの事柄を経験すれば、ただ物書きが好きなだけだった者が、「いっぱしの」(bona fide)ゲーム開発者に変貌するって寸法だ。

#1 カット

 それらは残酷で・・・、そして必要。開発中に四肢のひとつを切り落とすのは、患者の残りの部分を生かすため。だが当然のように、そこら中血だらけになる。私が言い争うこともできなかった、残すために戦うこともできなかった、ときにはそのために文字通りむせび泣いたこともあった・・・、そして最終的には認めざるを得ないと悟ったのは、たった一つのカットだけではない。リード・ライターってのは、自分自身でカットを決めなければならない立場であり、自分の書いたものではなく他人の仕事を切ることもある。考えてもみてくれ、誰かの目をまっすぐ見据えて、相手の努力は水泡に帰したと告げなければならないんだ。

 なぜそんなことになるのか? ときには開発プロジェクトに忍び寄っていたスコープ・クリープ(誰も意図せずに開発規模がどんどん肥大化していくこと)の規模がでかくなりすぎて、ゲーム全体をまともに完成することがおぼつかないレベルに達してしまうことがある。必要とされるレヴェル(マップ)やクリチャーを開発する時間がなく、それら抜きではそもそもプロットが立ち行かない事態もある。ときには単に当初思った通りには「うまくいかなかった」だけの場合もあり、それを修正するための努力を費やす余裕がない場合もある。ときにはあまりにも理にかなっていない(unjust)ものもあって、むしろ結局それがうまく行かなかったことに安堵してしまうことすらある。だがほとんどの場合、カットはつらい。ああ、なんてこった(Oh, the humanity)。

 やがて自分の作り出したものとの間にそれなりの距離を置くことを覚えるようになる。なぜならカットは避けられないからそうせざるを得ないし、さもないと、ゲーム開発のこの部分で完璧に頭にきてしまうことが往々にしてあるのだ。

#2 リライト

 クエストがうまくできない? 書き直せ。また書き直せ。さらに書き直せ。これもまたイテレーション(iteration、反復代入)、評価とテストを何度も繰り返してゲームが徐々に良くなっていくプロセスの一部であり、ライターにとっては編集とリライト(書き直し)のことを意味する。情報の流れが悪くて意味が通じないせいかもしれない・・・、自分で書いたもの、あるいは自分のコントロールの及ばないプロットの他の部分で変更されたもののせいかもしれない。カットのところで列挙した事柄のひとつ、レヴェルがうまくできないとかクリチャーがカットされた、リリース期限が変更になったなどが原因かもしれない。だが、こちらの場合は投げ出して済むわけではなく、書き直しが必要となる。

 ある時点からリライトが生産性を損ねはじめる。ライターが問題に対処するための方策を見失ってしまう時点・・・、あるいはもう気持ちが入らなくなってしまう時点だ。普通は私が介入して、誰か他の者の手に委ねることになる。そうできればの話だが。

 私はリライトによって結果の出来栄えが向上すると考える傾向にあるのだが・・・、逆にリライトに抗えば抗うほど、最終的に結果が優れていることもまたある。奇妙な話だ。考えるに、自分の心の奥底ではリライトが必要であることを知りながらもそうしたくない、自分の意識の一部が編集プロセスに抵抗しているためなのだろう。イテレーションはそもそも物事を「より良くするために」行うものなのだから、良くなっていって不思議はないわけだが、作業がより面白くなるかというとそうではない。とりわけ、缶蹴りで四発も五発も缶を蹴られた後ではそうだろう。

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 まるで私が不平不満を述べているだけとか、あるいは同情を買うために書いているように受け取られそうなのはわかっている。中には「ああ、みじめな開発者よ。こっちはどんな手を使ってでも代わりになってやるつもりだよ?」と言う者もいるだろう。それも愉快と言えば愉快だ。ゲーム・ライティングがめちゃいけてる(hella sexy)仕事だと見なされているのは承知している。だが本当に理解してほしいのは、ほとんどの日々の暮らしはただの作業・・・、ただそれだけであることだ。いつか本当に自分の仕事が嫌いになり、どこが愉しいのかわからなくなる(it’ll seem like work.)。いつか宙に両手を投げ出して、オフィスのドアから立ち去り、大声でこう叫びたくなるんだ。「クリエイティヴであるべき事柄をこんなふうに扱うなんてどうかしてるぜ?」

 やがてゲームが完成したあかつきには、自分の携わったゲームが棚に並ぶ。プロットが、あたかも「魔法でも用いたかのように」、まるで最初からそうでなくちゃならなかったかのようにばっちり決まって、それが自分がやらかしたことであることすらほとんど信じられなくなる。ファンのみんなに出会うことがあれば、みな興奮した口調で口々に喋りだし、自分の書いたものでどれだけ「感動させられた」か告げてくれるのであり・・・、それは彼らがストーリーの単なる傍観者ではなく、自分の書いたゲームのストーリーの一部に入り込んでいるから一層そうであるのに違いない。

 そんな日もやってくるのだからこそ、この仕事で食っていきたいと思う者がいることも完璧に理解できる。そして自分もどうにかしてそういう仕事に巡り合う僥倖を得たことがうれしい。カットやリライトがいくらかあっても、それに見合うだけの価値はある。

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 jobとwork、訳に困ってとりあえず「作業」と「仕事」としてみたがご覧のとおり破たんしました(笑)。

 日本語の「仕事」には「作業」(ルーチンワーク)と違ってネガティヴな意味合いはあまりない(中立的)と思う。むしろworkの別の意味である「作品」の意味で用いられることも多い(「良い仕事してますね」)からポジティヴ寄りなのかな? 職人アドマイア文化だからか。
 学者の中にも自分の論文のことをわざわざ「仕事」などと呼ぶ者もいる。works、本当は「作品」とでも呼びたいのかしら。
 
 ところが文中で「どこが愉しいのかわからなくなる」としたところの原文は"(i)t'll seem like work."で、「まるで作業みたいに感じるようになる」。
 逆に"It doesn’t seem like work."だと「(あまりに愉しくて)とても仕事とは思えない」

 「労働」、「役務」とか使いたくないし(それらはむしろlaborだし)、適当な言葉が思いつかないので、本文はそのままにしておきます。

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(余談の続き: 上にはめてもしっくりこなかったが、書いてしまったのでおまけ。せっかく書いたものを「カット」するなんて、そんな勇気は私にはないぞ(笑))

 太平洋戦争中の日本帝国海軍のエース(撃墜王)坂井三郎は、その撃墜数もさることながら、長い戦闘機パイロット時代を通じて僚機が一機も撃墜されていません。同世代のルフトヴァッフェ(ドイツ空軍)のエースであるハルトマン(僚機は一機撃墜されたがパイロットは健在)と並ぶ偉大な記録だそうです。

 複葉機からはじまるプロペラ機の空中戦時代の研究には、敵機を撃墜する能力にはパイロット個人別に有意で差があるが、撃墜されるかどうかには差がないというものがあります。実戦の研究ですから報告データーの信憑性もさほど高くないでしょうし、例えばプロイセンの撃墜王リヒトフォーヘン(レッド・バロン)は地上の機関銃で撃墜されたので対象外だし、撃墜王に対するマークが他よりきついことによる彼我の戦力比の違いなども考慮すべきでしょう。

 ごく稀に、たった一機の獅子奮迅、無双状態になるケースもあった。
フォッカー複葉機時代のドイツの撃墜王ヴェルナー・フォスが戦死した戦いは空中戦史上屈指と呼ばれているものです。単機のフォスに英空軍エリート部隊が6機がかり(最終的に戦いに関与したのは8機)で格闘戦を挑み、英軍側全機が被弾し、うち2機が撃墜されたものの、10分間にわたる戦いの最後にようやくとどめを刺した。(このほか、フォスの劣勢を見て救援に駆けつけようとしたドイツ僚機が手前で撃墜されてしまっています)

 映画「トップガン」でも主人公のライヴァル・パイロットが1対5くらいの数的劣位を(ジェット戦闘機同士の空中戦の熾烈さを現実的に考えればせいぜい1分間くらいの間でしょうか)凌ぐシーンがありますが、ガンダムでもあるまいし、さすがにジェット戦闘機の時代にその状態から反撃に成功などしたらマンガになる。まあ、あの映画自体マンガと言ってしまってもいいかもしれないが。

2013年4月 7日 (日)

リア重でした。

 一か月以上開けてしまった。

 ずっとリアルの重圧に耐えていました。年度末ってやつは、ただでさえなんだかんだで面倒なことが多いのですが、それに加えて、なぜかこの三月には他にもいろいろとイヴェントが次々と襲ってきた。リアル充実なんてとても言えない。リアル充満、リアル重圧ですかね。

 ゲームを遊ぶ時間がどんどん限られてくると、そのうちゲーム関係のネット情報を覗くのがだんだん億劫になってくるんですよね。もちろん自分のブログがその最たるもの。

 自己防衛のいわゆる「合理化」(rationalization)ってやつかな。「なあに、そんな面白いことは最初から載っていないよ」というやつ。「酸っぱいブドウ」でしたっけ。

 本来現実から逃避する手段のひとつであるはずのヴィデオゲームから逆に目を背け、むしろ現実に逃避する(没頭したふりをしてみる)という、さらに倒錯的なことをやっていたわけです。当然ながらこれも一種の病理でしょうから、リアルのほうでも痛ましい(他人から見ればわけがわからない、大したことない)、でも刺激的かつドラマチックなことをやらかしたりしていたわけです(幸いトラウマになるまでには至らなかったようだ)。ここらは大澤真幸氏の受け売りですが。

 と、この一か月余の自分の行動を振り返って観察し直してみると、本当にわかりやすくて面白いのですが・・・。おそらく、自分でも振り返りたくない部分は意識の外に追いやっている、「抑圧」(repression)しているから「クリーン」で「わかりやすい」だけなんでしょうけど。このように「クリーン」なヴァージョンの記憶だけ保持できるのが「人間」である特権でしょうね。正気を保つための。

 なぜ晴れてゲーマーとして復帰できたかというと(というか、またカタギの世界からヴィデオゲームの監獄?に舞い戻ってきたかというと)、リアルの重圧が減少したからもあるけど、「コーリング」、呼び声が聞こえたからですね(ウォーデンかよ)。

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(ここから長い余談です) あ、そういえば、「コーリング」(calling)について、Dragon Ageでは私も解釈違いをやらかしていたようです。解釈違いというか考えが浅かったということですかね。

 コーリングは一般に「召命」と訳されます。逆に「召命」はcallingとvocationの二つの言葉の訳語として用いられることがある。(vocationの語源はvoiceと共通)
 ですが、DAでそうやってしまってはいけないことはわかっていた。ご承知のように(少なくとも二つの意味を持つ)ダブル・ミーニングであるから。

 vocationの現代日本における一般訳は「職業」(たとえば職業教育(訓練)はvocational education、専門(職業)学校はvocational college))ですが、本来は「天職」、「適職」、あるいは「使命」のことですね。
 その意味において、RPGにおけるclassを「職業」と訳すならわからなくもない。現に欧米RPGの中には最初から一般的なclassのことをvocationと規定しているものがある。また「職業」が訳として定着してしまった和製RPGでは(少なくとも食い扶持、報酬が稼げそうな)ロール(役割)のみを「クラス」と呼ぶことにしているのが一般的。例えばバーバリアンとかバーサーカーという「職業」はない(それだけでお金は稼げなさそう)が、バトルマスターとかメディスン・マンなら生活できるお金がもらえそう、とか。

 callingもまた「職業」、「天職」を指すことがある。ですがDAにおけるグレイ・ウォーデンはメイカー(創造主)の命を受けたことは明示されていない。世界の危機に際してどこからともなく表れたことになっている。(この世界における秩序の体現者である)チャントリーはウォーデンの組織を積極的にも消極的にも認めてはいないが、一方あからさまに否定もしない。むしろカソリック・・・、もといチャントリー的には「火付け夜盗、ブラッド・メイジ、叛逆者の類であっても、ただ才のみ挙げよ」というリクルート方針、かつそれを実現する権限、すなわち「自治」を享受しているウォーデン組織のことを苦々しく思っていることは間違いない。

 DA世界ではcallingは違う意味、ダークスポーンの「歌」、「呼び声」も指す。ジョイニングの儀式からある年限を経たウォーデンはやがてその「呼び声」に抗しがたくなる。よってウォーデンとして長い時間を過ごした者は、自分がヒューマノイドとしての正気を喪う前に、ディープロードの深部に潜って斃れるまでダークスポーンと戦い続けるのが専ら習わしとなっている。

 私個人は、両方の意味合いが(メイカーの付託が明示されていないこともあって)同じ比重(つまり無差別)と考えていたのですが、どうやら違いそうですね。DA3のテーマが「宗教戦争」であるから、むしろ前者の意味合いが濃厚になってくるのではないか。もっといえば、クリスチャニティ世界のファンタジーであるから、もとからそうではなかったのか。ここを私は見落としていたようです。
 すなわち、「なぜメイカーは明示的にウォーデンに天命を付託しないのか」という問い。根本的には「なぜメイカーは不在を続けるか」にも通じるのでしょう。 

 でも、明示されているかいないかにかかわらず、DA世界設定にはクリスチャニティの価値観が根本的にビルドインされているのです。以前も書いたようにウォーデンの「ジョイニングの儀式」は非常に見事な仕掛けとなっている。ダークスポーンとの戦いにおいて極めて有益であろう、活躍するであろうと目される者であっても、まずもってダークスポーンの血に耐えなければならない(ジョイニングの儀式)。どれだけ優れた才能を有していようが、儀式を通過できなければ(文字通り)おしまい。誰が血に耐えることができるかの謎も解明されていない。呑んでみなければわからない(まさにメイカーのみぞ知る)。

 戦いにおける様々な才能はグレイ・ウォーデンの任務を果たすための十分条件。ダークスポーンの血に耐えることが必要条件。プロテスタントの予定調和説との対比でいえば、裁きの日に神の国に召されるか否かは神の思し召し次第である(必要条件)。現世でどれだけ隣人愛を発揮し、「天職」のお勤めに没頭し、慈善活動に精を出し、ジーザスが要求するようにすべての財を分け与えたところで、神の国に招かれるかどうかは人は(クリスチャニティでは人しか救済しない)あずかり知らない。そうした行い(人が一般に「善」と呼ぶもの)が基準に用いられるのかどうかすら定かではない。しかも、裁きの結果は予めすでに定められている。個々人の現世での行いと神の裁きに(例えば仏教徒が考えるような)因果関係は成立していない。

 では、どうして現世で「善」なる行いを推奨され、人はその規範に従うべきなのか。基準が定かではないのに闇雲に努力しても無駄ではないのか。裁きの日は、生きている人のみならず、今まで死んだ人まですべていったん蘇生して行われる、想像を絶する規模の壮大な「くじ引き」と何が違うのか。
 つまり、そう考えてしまう人は救済されない(笑)。神の国にふさわしくないと(少なくとも現世では)考えられている。神の国に招かれる人とは、きっと上述したような行い(十分条件)を人並み以上になした人に違いない、少なくともそうした人々の中から選ばれる可能性が高そうだ、と考える。

(もちろん神が人と同じ発想に立つなんて一切根拠なしの「通らばリーチ」ですが、ちょっとだけ答え合わせ(というか「試験にはここが出るかもよ」というヒント出し)をしてくれたお方がおわします。ジーザスですね。ただ彼の言説ですら弟子の伝承でしかないし、解釈についても諸説紛々である)

 そして、このあからさまな類比を避けるためか、DAではダークスポーンの「呼び声」を導入したんでしょうね。ダークスポーンのテイントに対してインミューン(無敵)になってしまったらバランスが悪すぎる。裁きの日に人の歴史は終わってしまうわけですが、むしろウォーデンの戦い、活躍、あるいは苦悩はジョイニングの儀式の日からはじまる。さすがにヴァンパイア的に無敵になってしまったらアダルト向けゲームとしてどうかということで、ウォーデンに「賞味期限」、「寿命」を導入したんでしょう。これもまた「予定された」運命、天命なのかもしれないのですが。

 この余談はいつにもまして長かったですが、長い間DAから離れていても、考えることはできる、ということを示したかっただけかもしれない。

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 ここまでほとんどの情報に意図的に触れず、配信メールなどで受動的に触れたとしても無反応であることを確認し続けてきたのですが、"Dragon's Dogma: Dark Arisen"(DDDA)の「体験版」(!)配信開始という「お知らせ」だけには反応できた。

(正しくは、"Fate/Stay Night"のPSP/Vita版のお値段が予想どおりディスカウントされた情報などには反応していて、PSNからダウンロードまではしていたようだ。だがプレイできるのは、いったいいつのことやらとの諦観付きであろう。よく覚えていない)

 DDDAについては、ほとんどヴィデオ鑑賞用マシーンと化していたPS3を超久しぶりにゲームマシンとして用いて少し触ってみたが、なんのことはない"Dragon's Dogma"の体験版に「日本語吹き替え」が付いただけのような代物であった。ショック。

 とはいえ、(直接的には)DDDAのおかげで正気を喪わずにヴィデオゲームに復帰できそうです。(ここだけのはなし、ME3シタデルもSkyrimドラゴンボーンもまだ手も付けていない。これから遊べるなんて素晴らしい) 

 ブログのほうはなかなかペースが上がらないと思いますが、「死んでいない」ことがわかる程度にはなんとか続けたいですね。BioWareのネタ出しによるでしょうが。

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 「この一か月何もゲームをしていなかった」は嘘で、実際には3DSのDQVIIあたりはいじっていた。それもまたよくなかった。あれはよくない。私のような年代にとって、あのシリーズは「退行」(regression)を呼び起こしてしまう。

 もともと大して面白くなかったタイトルのリメイクですが、すれ違いを含めて新鮮味がほとんどない。堀井節(中身もそうだが、むしろじじいキャラの言い回し)も改めて付き合わされると、何度も繰り返すことが耐えられない、相当鼻につくことがわかった。端的にもう古いんだね。
 とはいえ、憤りこそ生きる原動力。

 

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