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2013年2月

2013年2月22日 (金)

【ME3】DLCシタデル

 さて、いよいよ本当のファイナルがやってきますねえ。

 Mass Effect シリーズ、そのシェパードの物語のフィナーレを飾るソロ・コンテンツは「シタデル」(Citadel)DLC。リリースは一部地域を除いて3月5日(現地)。本編リリースからちょうど1年目。

 一足先の2月26日(現地、一部地域を除く)にリリースのマルチプレイ無料DLCである「レコニング」(Reckoning)も最終コンテンツだそうだ。

http://blog.bioware.com/2013/02/21/mass-effect-3-citadel-reckoning-dlc-announced/

 申し訳ないけどソロプレイしか興味ないので、そこだけ紹介。

 どうやらシェパード艦長を狙った謀略なるものがあるらしく、シタデルに赴いてその真相をクルーたちと究明するというのが本筋。シタデルの魅力的な各地区(ワード)から、極秘にされているカウンシルのアーカイヴまで探索する。

 伴うクルー・メンバーは本編のスコード・メンバー。その他にシリーズ過去作品に登場したキャラクターも登場するという。もちろんアードナット・レックスを含む!(訳:生きていれば・・・。ふっ)

 その他、ストーリー部分が終わってからも過去三部作のキャラクターとの再会を祝い、シタデルのカジノで運試し、コンバット・アリーナで腕試し、シェパード専用の居住施設でくつろぐなんてのはどうでしょうか。
 さらには過去のロマンス相手との恋の再燃のチャンスまで?

  お値段は、プラットフォームごとに$14.99、1200MS points、1200 BW pointsだそうで。

(追加)

 IGNの記事によれば、容量が大きすぎるためX360版ダウンロードは二つのファイルに分割されるそうだ(料金は一本目にしかかからない。もちろん両方そろわないと意味がない)。
 PCとPS3はひとつのファイルで関係ない。
 どんだけ大きいDLCと思われるかについては、下にリンクした私のブログの過去記事とそのもとになるIGNの過去記事でも予想されていましたね。Mass Effectのライター全員が参加しているという内容だった。

http://vanitie3.cocolog-nifty.com/blog/2012/12/me3-8b12.html

http://www.gamespot.com/news/bioware-teases-next-mass-effect-3-dlc-6401104

(追加終わり)

 クルーメンバーが本編のままというのはうれしい。声優さんもみな集まったのだろうか。

 そういえばザイードの声優さんはつい先日訃報が出ていた。合掌。

 開発サイドは、カジノとかアリーナも最初からやりたかったんだろうなあ。中途半端なスロットマシンはオリジナル一作目からありましたからね。

 Mass Effect 3のコンテンツ・サポート期間は、下のリンク先で私が予想したとおり本編リリースから9か月間でした。それがエクステンデド・カットで3か月延びてしまい、ちょうど一年目にリリースするってことですね。あ、拍手は結構です。こんなのあてるのはふつうです。

http://vanitie3.cocolog-nifty.com/blog/2012/12/da2me3-b68d.html

 ソロプレイ、マルチプレイともサーヴァーの電源をいきなり落とすようなことは、さすがにないだろうが(EAはゲームのリリースからしばらくすると情け容赦なくサーヴァーの電源を落とす悪名がありますが)、新コンテンツはおしまい。

 Xbox版2007年11月(PC版は2008年5月)のオリジナルリリースから5年以上。一つの時代が終わったなあ。

2013年2月21日 (木)

on narrative design 6

 第五回の趣旨は、「名前なんて、どうでもいいじゃないか!」ですね。

 自分の子供(あるいは孫、親戚など)の名前はともかく、まあ個人的には動物・ペットもどうでもいいんだけど、ゲームのキャラクターの名前こそ正直どうでもいいですな。

(余談ではありますが、産経新聞の記事だったか、最近日本人の親は子供の命名に際して、まずインターネットで検索して他にも同姓同名がいることを確認して決めるのだそうだ。唯一無二がいいとは言わないが、その行動様式はちょっと驚くという趣旨の記事。
またこれは「ヤバい経済学」という名著にあったと思うが、アメリカ人の場合ファーストネームと学歴・収入には関係があるという統計データ。これはさもありなんで、教養レベルの低い親は子供に風変りな名前を付けているのが原因だ)

 たとえばMMOやソーシャルなどで"Vanity"を使えるチャンスはほとんどゼロになってきた。非常に一般的なのだ。以前はだいたい通ったのだが、最近は必ずユニークチェックで引っかかる。フリーメールのアドレスでもあきらめている。"Vanitie"なんて言葉をひねり出したのもそのせいだ。当初は嘘くさく安っぽく、非常に嫌いで仕方なく用いていたのだが、半年もしたらもうこれしか考えられなくなった(笑)。

 正直に言えば、初期のDQやFFなどを遊んでいた頃は色々主人公の名前を考えたりもしていたのですが、そのうちひらがな四文字のキャラクター名を最初から決めて、どの和製ゲームでもそれを使うことにしました。ただし世の中で他に誰も使っていなさそうなやつ。

 ざっくりひらがな表記80の4乗として計算すると(DQ初期の入力は果たして五十音表すべて網羅していたか不明、濁点・半濁点が一文字カウントだったかどうかも失念したので最近のDQのケースで計算)4000万以上の組み合わせがある。もちろん「ぬぬぬぬ」など意味不明なものを含むし、「ゃんごぇ」など発音不明なものも含む。

 MMOなどで複数のキャラクターを使うときも、最初から数名分リスト化していて、それを使いまわす。たとえばメイジ系(魔法使い)の女性ならこれ、ローグ系ならこれなど。野郎キャラの場合は超適当。デフォルトやランダム・ジェネレーションがない場合AdamとかAceとかAで始まる名前のどれか。Mass EffectシリーズはデフォルトがJohnとJaneですね。周回を重ねて足りなくなったら、Jで始まる名前を探してつける。例えばJeremy(Jerry)、Janet(Janette)とか? 実は後から登場するキャラクター名でJack、Jacob、Jamesがかぶるんですね。使わなくてよかった(笑)。
 
 ゲイダーさんも書いてますが、ああでもないこうでもないと紛糾する理由は、単に「誰しもが」名前に関する意見を有しているから、に間違いありません。
 これに似たようなものに「教育」があります。誰もが子供を育てるわけではないかもしれないが、誰もが子供であったのは間違いない。日本の場合は義務教育がある。だから疾病などの理由でもない限り誰でも「経験者」。誰もが何かしらの「意見」がある。何もなくても「あるはず」と期待されてしまう。

 「体罰」、「しごき」、「秋入学」、「ゆとり」、「六三三廃止」、「小学生英語教育」、「週休二日返上」などなど、日本人なら何か言わないといけない雰囲気。「そんなの知らんがね」と突っぱねられる人は少ないのではないか。皆自分の経験(だけ)に基づいて話すから、実際まったく意味がない議論がほとんど。
 あまりに身近すぎて、実は何も見えていない状況ってのが似ている感じがします。

 第六回目の副題は、creating quests、クエスト・デザイン。

http://dgaider.tumblr.com/post/37007444989/on-narrative-design-part-6-creating-quests

*****

 開発前段階の初期の頃に、ライター衆はグループとしてクエストのプランについて話し合っていた。クエスト群は異なる方法で分割することが可能だ。Dragon Age: Originsのクエスト群は数は少なく、ひとつひとつが長いものであったが、Dragon Age 2はより数の多い「連鎖」クエスト群であった。だがどの場合でも、次に述べるような要点を把握していたはずだ。

・プレイヤーがそれぞれのクエストを始める理由
・それぞれのクエストの究極的な目的/結果
・それぞれのクエストの舞台となるエリアの種類
・持ち込もうとしている基本的な選択肢

 概ねそんなところである。クエストのストーリーについて言えば、基本事項をカヴァーする売り口上が用意されているだろう。誰にでもすぐに内容を説明できる非常に短いサマリーのことだ。

 Dragon AgeのAct1最後、ディープロード探索のクエストを例にとる。プレイヤーは一定以上の資金を用意するという条件を満たすことで(それによって従前のクエスト群を手掛ける動機も与えられる)、ディープロードの探索に参加することができ、最終的に喪われたタイグを発見するとともに、そこで赤いレリウム、具体的には赤いレリウムの偶像を見つける。この探索の結果、プレイヤーはAct2で必要となる活動原資を手にすることができるわけだ。つまりこういうことだ。
 
 ライターそれぞれは、この段階でどのクエストを書きたいかすでに申し出ているかもしれない。通常多少の交渉を要するのだが、皆が想像するほどの苦痛は伴わない。ライターたちはだいぶ前からお気に入りのクエストを決めていて、それは彼らが個人的に最も得意な分野と考えているものだったり、あるいは誰しもが粋(クール)と思う優れたアイデアを有していて、それを実現したいと考えているものだったりする。時には必要に迫られて望んでいなかったクエストを割り振られることもある。

 二人以上の者がひとつのクエストを希望する場合の仲裁は私が行うのが筋だが、我々はみな大人なので自然と落ち着くところに落ち着く。この場合のリード・ライターとしての主たる役割は次のふたつだ。1)どのライターにも彼らのスケジュールに見合った分量の作業が割り振られる状況を確保する、2)クエストの複雑さがライターのクエスト・デザインに関する経験や能力に合致している状態を確保する。

 最後の部分が重要だ。すべてのライターが同じではない。あるライターはキャラクターを書くことに優れているが、クエスト・デザインに苦労する。他のライターはその逆だったりする。あるライターの書き進めるスピードは非常に遅かったり、逆にとても早かったりする。自分の優れている点を心得ているライターもいれば、自分で消化できる許容範囲を超えて抱え込んでしまう者もいる(経験を積めば自分の実力がわかってくる)。

 私が自分の役割を果たそうとするなら、問題を抱えているライターがいるのがわかればその解決のため介在し、誰かがクエスト・デザインに苦労しているなら、彼らのミーティングに参加して助言をすることになるだろう。ある者がスケジュールから遅れているなら問題について話しあい、自力で解決できるかそれとも割り当てを見直すべきかどうか判断する。

 これらを行うのは容易ではない。自分自身にもライティングの割り当てがあるし、マネージャーとしての責務もあるから、ライター衆のため費やす時間は限られている。これは終わりなき戦いであり、心底正直に言うと、たまに何度かヘマをやらかしたことだってある。言って愉しい話でもないが、自分でできることをするしかない。
 
 ライターがクエストを書く際に最初にすべきことはその肉付けだ。そのためにライターは自分の属する「群れ」(pod、クジラなどの群れ)のメンバーと会うことになる。様々な分野からそのクエストに割り当てられた小集団のことで、レヴェル(マップ)デザイナー、レヴェル・アーティスト、シネマティック・デザイナー、それから理想的には専任のQAテスターが含まれる。

 なぜそんなことを? 以前にゲームはミーティングの場でデザインされると言ったはずだ。ミーティングが一番多く開かれるのがこの時期なのだ。開発前段階のデザインづくりはライターからはじまるため、彼らが群れの先駆けにならなければならないのだが、作業はひとりではできない。もっと言えば、ひとりで「やるべきではない」。ひとりでやると、往々にして例えばレヴェル・デザイナーが実装できないものをデザインしてしまったりする可能性がかなり大きくなる。我々が重要な見せ場とさえ思っていないシーンについて、シネマティック・デザイナーがあまりにタイム・コンジュ―ミングな仕様になるとこぼしたり、単にシネマティック・デザイナーの能力がわからないが故に、彼らの保有するスキルを活かせない可能性も高くなる。プロットの流れと馴染まないレヴェルを受け取るかもしれないし、その理由はレヴェル・アーティストたちがプロットをあまり理解していないか、あまり気乗りしない中身だったからだろう。だから早めに話をして正しておくのだ。

 ライターは説明する。「こんなストーリーを考えているのだが」 ブレインストーミングがずっと続く。ここではライターがグループをうまくまとめなければならないが、それはいつもたやすいわけではない。ときには群れを支配したがる者が現れるかもしれないし、ライター自身が会話づくりが不得手で、結局どうにも手の付けようのないごちゃごちゃのアイデアの塊しか手にできず終わるかもしれない(モデレーターのいないフォーラムのようなものだ)。私の経験から言えば「どうすべきだろう?」という質問はしないに限り、「プロットにはXの問題があるね・・・、どうすれば直る?」などのもっと結果指向の質問をするのが最良の方法だ。

 そうやってできあがるのが「クエスト・フロー」だ。それぞれの段階がAからB、C、Dへどう進んでいくのかを示す。シナリオ・デザインをするうえでライターが一番苦労するのがこの部分でもある。ライターはストーリーについて「なぜ」そんなことが起きるのかについては考えているものの、「どのように」起きるかを考えていないからだ。

 「彼女は入口に入り、最後にはそこの支配者であるメイジと出会う」だって? 待て、待て! 「最後には」ってのはやめてくれ。彼女は「どうやって」そのメイジと出会うのだ? そのエリアを渡り歩くのか? そこで何が起きる? プレイヤーに体験させるそれぞれの段階について、まるでゲームそのものの様子を描写するように示す必要があるんだ。ここでの曖昧さは許されない。

 事実、曖昧さこそ新人ライターたちが(ライティングを担当したいと応募する者たちが)もっとも陥りやすい部分だ。プレイヤーは「何を」するのだ? それをすべての段階について考えなければならない。あるセクションがぼんやりしたままのプランを作って書き始めると、そこで行き詰まってしまう。レヴェル・デザイナーがそのプランを実装しようとすれば、穴があることはたちどころに発覚してしまい、ライターはその穴埋めに戦闘だのなんだの入れ込むように突然強要されてしまう。君のプロットは木端微塵になる。

 どんな選択肢を入れるつもりだ? RPGは何をおいても選択が命だが、君のクエストには選択があるか? 異なるタイプのプレイヤーがいることを考えてデザインしているか? すべての種類の選択を持ち込む必要はないが(どのみちそんな余裕もないだろうが)、何らかの選択は必要で、そうでなければ君の素晴らしいストーリーはプレイヤーにエイジェンシーを提供しないものになってしまう。そして、そう、開発が進むにつれて結果的にそうなることも起こりうるが、プランが最初からそうであってはいけない。

 ライターがやる必要のないことは、コンバット・エンカウンター、パズル、その他のゲームプレイに関するクエスト要素などであり、それらはレヴェル・デザイナーの仕事である。ライターがやるべきことは、それがどこで起きるか決めることだ。どこかで大規模な戦闘が起きるとしたら、ライターはレヴェル・デザイナーたちに相談し、彼らは自分の持ち場に戻って彼ら自らプランを作る。彼らはレヴェル・アーティストたちと相談して戦闘に必要なスペースを作りあげてくれるので、ライターはそこではキャラクターの会話が発生しないことを知っておけばいい。パズル要素を入れるのであれば、「彼らはそこでパズルを解き、先に進んだ」と書けばよい。群れの中では、どんなパズルにするかライターも討議に加わることはあるかもしれないが、そこでもデザイナーは持ち場に戻って詳細を詰めてくれる。それでいいのだ。

 ライターは予算についても考慮しなければならない。言わせてもらえば、どんなライターにとってもこれが悩みの種である。まず時間予算(time-budget、「このクエストはどのくらい長いのだ?」)があり、群れの仲間と一緒にそれぞれのクエスト段階が概ねどのくらいの時間を要するのかを見極めなければならない。ライターにとってさらに重要なのは言葉予算(word-budget、「セリフの中のワード数がどこまで許されるか?」)だ。プロジェクト全体の総言葉予算はすでに決められており、自分で使えるのがそのうちどれだけかも決まっているから、それぞれのセクションでどれだけの会話を入れることが可能か見極めなければならない。この発想の説明は難しすぎるだろうか? 次のような方法で示したほうがいいかもしれない。この会話はあまりに長過ぎてプロットのペースを損なうことになるのではないか? このシーンには多くのシネマティック作業が必要とされるのではないか?

 大抵の場合、最初のデザインは過剰になってしまうだろう。クエストが長すぎるか、言葉が多すぎる。重要ではない見せ場を削り落としてスッキリさせてみる。会話以外の方法で自分のアイデアを実現できないかどうか考えてみる。どこが自分のストーリーの「一番の見せ場」(bang for your buck)であって努力を傾注すべきか考える。もしかしたら自分のコンセプトは予算に対してあまりに壮大過ぎたことに気がつき、心を痛める結果になるかもしれない。

 だが、それに早く気が付くに越したことはない。そしてそれは難しい。スコープの管理は我々の最大の敵であり、スコープ・クリープ現象(scope creep、スコープが徐々に肥大化すること)は我々にとっての一種の風土病だ。プロットは時間の経過とともに常に、必ず、大きくなっていくので、プランは最初から予算よりも小さく作っておくことだ。この技に熟練することはできない。決して。私などはスコープ・クリープの夢でうなされることがある。

 これらの事柄すべてを決定するには時間を要する。ライターは皆が理解できるように、物語概括(narrative overview)なる文書、齟齬なく書き込まれたフローチャートと、各段階の内容を網羅的に記述したものをまとめた文書を用意する。それは何度も読み直し、書き直すことになる。どれだけ時間的余裕があるかによるが、完成には何週間か、あるいは何か月か要する。定期的ミーティング、リード・ライター向けミーティング、問題解決ミーティング、それらすべてが最終的にピッチをまとめ上げるために行われる。

 全体のストーリーをまとめるときに用いたピッチと同様、ここでいうピッチは各担当のリードたち、すべてのリードとサブ・リード(私もその一人だ、忘れないで)を集めて、自分のクエストの価値を認めてもらうものだ。このミーティングには三つの結果があり得る。1)グリーンライト、ゴー・サイン、2)グリーンライト、ただし一部手直しあり、3)一からやり直し。

 やり直しの場合もよくある。最近では私自身もあったし、ご想像どおりにストレスが溜まる経験だ。ヘマをやらかした気分になる。ありがたいことには、やり直すためのなんらかの方向性は与えられるので、何が悪くてどこを直すべきかはわかっている。ダラダラしている暇なんてないので、それはいいことだ。時間は疑いもなく限られてきているのだから、今度の新しいプランは前よりもずっと早く思いつかなければならない。

 グリーンライトが点灯したら、レヴェル・デザイナーが群れのリーダーシップを担う番だ。プランをどのように実装するかを見極め、彼らが実行計画(execution document)と呼ぶ、より詳細な文書を作成する。それはライターの書いた物語概括に非常に細かい部分まで書き加えるものであり、例えばどのレヴェルではどのリソースが必要で、コンバットはどうなるか、などなどだ。愉しい作業だ。

 それでライターが群れから自由放免されるわけではない。クエストを書き始めなければならないのはもちろんだが、いずれ問題に出くわすことになるのだから、群れとの接触は切らさず維持しておく必要がある。実行計画が正確にそのまんまの形でゲームになるなら、確かにそれほど素敵なことはない。
 だが、そんなことは万が一にも決して起こらない。

on narrative design 5

 第四回の趣旨は、「キャラクター(フォロワー)はライターのものでもあり、アーティストのものでもあり、結局のところ誰のものでもない」というところでしょうか。
 ライターが書いたキャラクター・コンセプトをアーティストが具現化する過程で、すり合わせと妥協にかなり苦労しているのがわかります。さらにアーティストのコンセプト・アートをモデリングに起こすところでも歪みや変形があって、妥協があって、ほかのキャラクターとの整合性、バランス調整があってと、延々と続くってことでしょうね。 

 日本の場合、まず外見(容姿)ありき、イラストありきのような気がしないでもありません。シナリオ・ライターよりもアーティストの地位が相対的に高い感じである。多くの人が何かしらの絵(イラスト)を描く、少なくとも描こうとする国民性に由来するのかもしれないし、やっぱここでもクリエーターの人口動静(需給バランスというより、競争率ですね)が関係するのかもしれない。
 あるいは「形」、様式がある程度固定化されているから可能なのかもしれない。例えば「萌え」。それがガラパゴ化の原因でもあるのかもしれないけど。

 私などは、物語のデザイン・プロセスという主題もさることながら、レリアナがドラゴン・ハンターの末裔であったという初期設定(ボツになった)とか(だから弓使いなのか!)、アーチディーモンがドラゴンですらなかった(じゃあなんだったんだ)とか、そっちの話題のほうが興味津々である。

 ただ、DA:Oの骨格となったキャラクターたち、モリガン、アリスター、ローゲインなどは当初からぼんやりとはその存在があったというところは興味深い。もちろんアリスターなどは初期設定案からまったく別の人格に変貌してしまったわけですが。

 またオステガーの戦い、闇の儀式、遺灰、森の精霊とウェアウルフのイヴェントなどもある程度初期からイメージされていたというのも同じく興味深い。もちろん、生き残ったものだけを列記しているのかもしれず、裏にはボツったプロットが同じくらいかそれ以上あったのかもしれません。

 気になることがひとつ。ゲイダーさんは、このシリーズでDA:Oの例はよく出すのですが、DA2の例になかなか触れません。やっぱ、「手塩にかけた」と思うレヴェルが相当違うんでしょうかね。DA:Oのほうがよりゲイダー案に沿っていて、DA2はそうでもなかったのかもしれない。

 あるいは、DA:Oは構想から完成までほぼ5年くらいかかったと言っている。DA2は2年足らずのはず。そういった部分でも思い入れの深さが違うのかもしれない。

 第五回の副題はNaming Things、「命名」について。個人的には「法則」ものは大好きな話題です(笑)。

http://dgaider.tumblr.com/post/36859373489/on-narrative-design-part-5-naming-things

***** 

 確かに次回はクエストのデザインについて書くとは言ったが、それはともかく。気まぐれに突き動かされなくなったら私は私じゃなくなる。

 何かを命名することは自分にとってかなりのフラストレーションを生む根源である。究極的にこれほどにも無意味な事柄が、これだけ多くの問題を惹起するなんてことはあるべきではないんだ! だが惹起するんだ! 神に誓って言うが、選り抜きの三つの事柄を命名することのほうが、ほかのすべての事柄をひっくるめたよりも多くの狼狽と騒動をもたらしているのではないだろうか。その三つとは主要なキャラクター、場所、そしてプロジェクト自体の命名だ。

 このことについて我々が相当な議論を重ねている理由は、単に「誰しもが」名前に関する意見を有しているからだろう。名前の良し悪しに関する客観的尺度などない。アートや、より少ない程度にはストーリーに関してもそういう尺度はありうる。それらに関してはどれが良くてどれが悪いか明確に述べることができる。名前については、ただ単に「好き嫌い」だ。

 その名前、あなたのお好みに十分しっくりきたかね?
 
「さあね。『歌い』もしなければ、『踊り』もしないよ」なんて答えは、足しにもならない

 そう。私は何年にもわたって、事物に命名するという数多くの様々な苦行に耐えてきた。17名もの人が部屋に集まって「三時間」もの間、ある名前についての合意を得ようと努力したことさえあって、結局あまりに陳腐なものしか思いつかなかったので、通路を通りすがる誰かを適当に捕まえて、その場で何か思いつけと要求してみたら、きっとそのほうがましな答えを手に入れることができたんじゃないかと思ったほどだ。そこで私は二つの法則に思い至った。

 これらの法則は、なにしろ私が作り出して以来この方、まだ外れたことがない。

 事物の命名に関するゲイダーの法則

1)もしその名前があるもののためにでっちあげられた言葉であるなら、すべての者がそれぞれ異なる含意を有し、即座に嫌う。

2)三から六か月の間に、人々はそのでっちあげられた言葉に馴染んでいき・・・、もともと反対だったことなどすっかり忘れてしまう。もちろんその名前に決まってるじゃないか。ほかに何て呼ぶつもりなんだ? 

 ふざけてるのかって? ふざけてなんかいない。

 「クナリ」(Qunari)は当初嫌悪されていた。カナリー(canary、カナリア)に近すぎると考える者がいた。「クン(キュン)」(the Qun)など発音しにくいし、汚い言葉に音が似すぎていると考える者がいた(ほんとに?)。仮の名前としては残ったものの、のちに正式な名前を思いつく手筈であった。だが見よ、驚くなかれ、六か月後にその話題を持ち出したとき、誰一人変更したいと言う者はいなかった。そんな名前だったよ。他にどんな名前があり得るっていうんだ? 

  Dragon Ageの世界だって、最初は「セダス」(Thedas)とは呼ばれていなかった。実際ある名前があって、私はそれが気に食わなくて、文書や会話に用いることを拒絶していて・・・、結局呼ぶときには"the Dragon Age World"とか、"the Dragon Age setting"とか呼んでいた(最終的には正規の名前を決めるのだとみな理解していた)。

 我々が愉快だったのは、他に呼び名がないものだから、我々のフォーラムでは誰かがTheDASという"the Dragon Age setting"の略称を使い始め・・・、それがしっくりきたことだ。不思議なことに! それで我々も会話でそう呼び始めたのだが、短いのがよかったのだろう。そして見よ、驚くなかれ、その正式名称を決める会議に集まったとき、我々はどんな合意にもたどり着けなかった。どの選択肢も思わしくない気がした。どれもがそぐわない。シェリルが質問した。「セダスじゃダメなの?」・・・、そこで皆が真実に気付いた。良くも悪くも、上述の第二法則が生きていたのだ。

 「グレイ・ウォーデン」。一体「他に」どんな呼び名があり得るって言うんだ? いくらでもある! 思い出せる一番古い呼び名は(それでも一番最初ではないだろうが)「ホワイト・レンジャー」だった。まず「レンジャー」がトールキン世界に近すぎるので変えることにした。そうだな、二十回くらいは練り直したかな。「うーん、どうだろう・・・、あまり『好き』じゃない」という反応を聞くたびに、私のフラストレーションが高まっていった。なんの代案も示されず、それがDA:Oの世界にとって非常に重要な集団であり、その名前は「本当に」煌めいていなければならないという点だけが問題視された。ううう。最後に 私がやけくそになって「ウォーデン」という言葉を放り込んだら、驚くべきことにそれがはまった。そこで今度は「ホワイト」があまりに善人ぽ過ぎるんじゃないかという話になって、私の髪の毛がさらに減った。

 だからリード・ライターになったとき、私は即座に二つの法則に基づく二つのルールを追加することにした。

 事物の命名に関するゲイダーのルール

1)もしその名前が好きじゃなく、だがより良い代案も示せないなら、私はそんな話は聞きたくない。

2)もし我々が合意できないなら、とりあえず仮の名前ということにしておいて、二、三カ月たってからもう一度議論しよう。

 第一のルールはよく役に立っている。多くの者が命名についてダメだどうだと言うが、実際に代案を出して今度は自分が皆から槍玉にあげられるようなリスクを冒す者はほとんどいない。マイク・レイドロウ(リード・デザイナー)だけは例外でこの件に関してフリー・パスを持っている。正確には「拒否権」を持っている。だが彼の名誉のため申し添えれば、彼はそれを滅多に用いようとしないのだ。あまり野放図に行使すると、私の仏頂面(注)を見なければならなくなるからだろう(誰も見たくはない)。

 第二のルールは、第二の法則があるのである種のおふざけだ。だが今日に至るまでこの戦法で失敗したことはない。

 命名の法則に関する警告をひとつ。それが最終的に正式名称になってしまうリスクを取りたくないなら、何かに仮の名前をつけてはいけない。その名前が正真正銘仮の名前なら、メチャクチャなものを付けておくべきだ。つまり「誰もがそのまま残しておきたくなくなるような」名前をつける。アーティストたちは仮のテクスチャーを貼るなどして、よくこの方法を使う。ギラギラ光る色彩によってそれが仮置きであることが明らかにわかるため、後から正規のものと取り換える作業を忘れなくて済む。だからプロジェクト名は「紫色の猿のキャン玉」(Purple Monkey Balls)にしておく。キャラクター名は「笑い上戸の旦那」(Dude McSmilesALot)にしておく。こうしておけば、皆が急いで正式名称をひねり出そうとしてくれるという特典も生まれる。

 ところが、時たまではあるが、一発で皆が気に入る名前が生まれることだってある。その理由も方法もわからないが、非常に稀なことは確かだ。モリガンがそうだった。フェラルデンもそうだったが、不思議なことに、セダス大陸の他の国名はどれも最低一回は変更されていたんだ(だから私は今でもたまに、アンティヴ(Antiva)のことをカラブリア(Calabria)、アンダーフェル(Anderfels)のことをオースランド(Orthland)と呼んでしまう)。

トリヴィア: 「他と隔絶して超然としている」(Too cool for school)ように作らなくてはならない場所の命名について話しているときはいつも決まって、アート・ディレクターのマット・ゴールドマンが同じ案を出してくる。「ヘイトキャッスル!」(唾棄すべき城、Hatecastle!)

 彼はその言葉を「ファックヤー!」(ご機嫌だぜ、fuckyeah!)と同じイントネーションで言うものだから、私はどうしてもまごついてしまうのだ。なぜそんなことを? マット・ゴールドマンの守護霊(spirit animal)がトロールだからだ。これにはもう何度もつき合わされたので、DA2のDLC「マーク・オヴ・ジ・アサシン」に登場する城の名前を決める時には彼に敬意を表し、英語ではキャッスル・ヘイト(Castle Hate)の意味になるシャトー・ヘイン(Chateau Haine)とすることにした。

 彼は笑っていたよ。我々ライターは気前がいいんだ。 

**********

(注)原文では”The Face”。Urban Dictionaryによれば下あごを上あごより前に突き出して不平不満を示すフェイシャル・ランゲッジ。You Tubeなどでも実際に見ることができるようだが、私が想像するにはアメフトのノートルダム大学のマスコット、ファイティング・アイリッシュの顔が近いのではないか。ちびのアイリッシュ(エシカル・ジョーク的にはこれは冗長表現)が下あごをぐっと前に突き出してボクシングのファイティング・ポーズをとっている様子。

 本当に仮の名前ならメチャクチャな名前をつけておくというアドヴァイスですが、そのまま流出なんて事件もありました・・・。銀行の顧客システムのダミーデーターにキャバクラのお姉ちゃんたちの名前をつけていたら、そのまま展開・・・。公共放送かどこかのテロップにテスト用としてくだらない戯言を書いていたらそのまま放映。ありましたねえ。

 too cool for schoolはファッション・ブランド名ですね。そこに行きつくまで珍訳迷訳してました(笑)。

 調べると「学校に持っていく(だけ)にはオシャレすぎる」という意味だともっともらしいことが書いてありますが、仮にそんな意味が通用しているのだとしても、そっちは元の意味からずれて流用されたもののようです。

 んなわけないやん。これ悪口やん。

 実際には「同種の連中と一緒にできないくらい素敵」という意味。そう自負している傲慢な奴に対する皮肉。悪い意味で「学校(社会)にハマらないやつ」。 

 こういうときももっともらしい訳にしておくと後で直し忘れるのでダメですね。そのまま英語にしておくほうがましかもしれない。

2013年2月20日 (水)

on narrative design 4

 第三回の趣旨は、「開発前段階では、ライターの社内売り込みが大変かつ大事」でした。

 ヴィジオとかパワポとか、人によってはおなじみのビジネス・ソフトウェアの名前も出てきました。ブレインストーミング、ディスカッション、エレヴェーター・ピッチ、ワン・ページャー、プレゼンテーション、ふつうのビジネスのオフィス光景と何も変わらないのですね。

 ワン・ページャーが本当に一枚ものだと、「エグゼクティヴ・サマリー」などと呼んだりすることもあります。エレヴェーター・ピッチもそうですが、秒単位で仕事しているあちらの重役連中に何かを売り込んだり、伝えたりしたくても、長くて数十秒しか時間が与えられないことが多い(エレヴェーターに乗っている間というのは象徴的コマギレ時間)。そして重役たち自身がそういうサマリーやピッチを駆使してのし上がってきたわけだから、要点を得ない、長くてくどい話は最初から聞いてもらえない。

 でも、短く要領よく(nice and clean)まとめること、「簡にして要を得る」ことほど、難しいことはないのですが。

 最近ではなんでも短きゃいいというのも多いが、一方で文章の長さは知性と比例もしたりする。長く書くとバカが読まないので非常に助かる。しまった、手の内がばれた。

 
 ブレイン・ストーミングは一時期日本でもやたらと流行りましたが、見かけ安上がりだけどタイム・コンジュ―ミングで(だから実は安上がりではなくて)結果が出るかどうかもわからないと批判する向きもあります。もっと「生産的」と謳う手法も色々あるのですが、ことが「ストーリー」や「プロット」であるだけに、どんな便利なツールやソフトウェアであっても、勝手に何かを書いてくれるわけではない。

 
 第四回目の副題は、Creating Characters。キャラクター創造です。

http://dgaider.tumblr.com/post/36725834932/on-narrative-design-part-4-creating-characters

*****

 
 ああ、キャラクターたち。

 BioWareのゲームにおいてはもちろんフォロワーたちのことである。プレイヤーである君の冒険グループを構成し、ともに旅し、ともに戦い、君と親しい間柄になる・・・、そしてそう、ロマンスを育む相手でもある。活動中のグループのフォロワーの数は様々だが(Neverwinter Nightsの場合のひとりから、Baldur’s Gateの5人まで)、良くも悪くもBioWareゲームはフォロワー・キャラクターで名を知られ、もしフォロワーのいないゲームを出したら、一部の顰蹙を買うのも間違いないだろう。

 「一体全体、どうしてそんなことをするのだ?」と聴く者がいるかもしれない。答えは簡単。フォロワー登場のため必要とされる開発リソースがとてつもない量なのだ。たとえパス・ファインディング(パーティー全員が乗馬、ステルス、登攀、水泳などをする場合が特にそうだ)などにもたらされる複雑化を無視したとしても、フォロワーはゲームの高額な言葉予算(word-budget、訳:第一回にあったようにライターが書くシナリオの言葉ひとつひとつにドルマーク(開発コスト)がくっついているという意味)の半分までも持って行ってしまう。そしてそれは他の部分に用いることができたかもしれない予算だ。

 そんな価値があるのだろうか? 誰に尋ねるかによるのだろう。例えばロマンスを好きではない者もいるわけで、まあそれはそれでいい。個人的にはロマンスのことも含んで「ファンガールに迎合している」と我々を批判する向きにはイライラさせられる。迎合という言葉が重要で、なぜなら我々は「彼女たち」に迎合などしていないからだ。だから明らかに迎合などではなくて、それはすなわち・・・、ああ、「アート」ではどうだろうか。そしてそういう言説は、ロマンスを好む男性たちがたくさんいることすら無視しているし(エッチのシーンの話だけではない。モリガンとレリアナに関するセンチメンタルなスレッドのリンクだってここに貼ろうと思えば貼れるのだ)、「ファンガール」をこの文脈に放り込む唯一の理由は、女性が好むかもしれないゲームはどれであっても、その事実を持ってよくないゲームであるとみなす発想ではないのだろうか?

 ああ、わかった、認めよう。やはり相当イライラしているようだ。

 言うまでもないことだが、ライティング・チームがメイン・キャラクターたちを創造する段階に差し掛かると、最近では、かなり戦慄を覚えることになる。一方ではこう言いたい衝動に駆られる。「ふざけるな。あと一個でもロマンスに関するスレッドをフォーラムで目にしたら、逆上してしまうだろう。ロマンスというコンセプト全体をどぶに捨てちまおうぜ」 だがそこで我々は、これらのキャラクターを書くことが本当に「好き」であるという事実を思い出すのだ。フォロワーに声優の声がついて肉付けが完全にできあがることこそ、我々の仕事の中では、「ライティング」そのものと並ぶくらい愉しいことであるのは疑いもない(クエストを書くことの愉しみは少し違う理由であって、そこでは実際に書くよりも「デザイン」するほうに長い時間を費やすことになるのだ)。だからファンの望むことについての考えは脇に置いておいて、我々のゲームにとって必要なことだけに考えを集中することになる。

 このタイミングは開発前段階の初期である。実際には独立した開発フェイズではないものの、記事一つ分に匹敵する内容だ。その理由は今更言うまでもないだろう。

 順番に行こう。ピッチが完成した段階で我々の手元にはキャラクターの非常に基本的なリストがあるはずだ。その記載もそれらのキャラクターがメインプロットにどれだけ絡むかに本当に依存するのだが。例えばアリスターとモリガンについてDragon Age: Originsの概要をまとめる時点で思いついたとしても、その時にはまだそんな名前もついていないだろう。「バスタード・プリンス」(非嫡子の王子)と「ウィッチ・オヴ・ザ・ワイルド」(荒野の魔女)という呼び名だったりするはずで、それ以外の売り要素も何もない状態かもしれない。

 さて、我々はいくつかのことを決めなければならない。手始めは、フォロワーは何人必要か? 通常はゲームプレイの要請(コンバットの役割をカヴァーするクラス構成(スペシャリゼーションも考慮されるかもしれない))とワード・バジェット(言葉予算)の両方を考慮して決められる。どれだけのワード数を書かなければならないかがわかっているとして、それらの言葉をどれだけ薄くまぶせばいいのか? フォロワーの数が少ないほど、ひとりひとりに与えるコンテンツの量が増すが、プレイヤーの選択肢がその分減るし、フォロワーひとりひとりがより多くの「ベース」(bases)をカヴァーしなければならなくなる。

 「ベース」とは何か? それはストーリーに依存するんだ。キャラクターを扱う最良の方法は、彼らをサイファー(ciphers、謎解きの鍵)として扱うことだ。何かの葛藤(コンフリクト)を人格化し、ある対立点の双方の立場にそれぞれキャラクターを配するのが理想的で・・・、道徳的な者と不道徳な者、異なる文化や視点を体現する者、異なる物事を「求める」者などを用意する。キャラクターを面白くするのは、プレイヤーに対するこうした押しと引き(プッシュ・プル、push-pull)である・・・、万人がすべての事について賛同するのであれば、それは恐ろしく退屈な体験となるだろう。

 ではベースをカヴァーするにはどうするのか? 話し合いしかない。どのライターもどうするか知っている。ライターズ・ピットのグループはアイデアを話し始める。自分で書きたいキャラクター・タイプについて(スケジュールの制約もあるので、好みにあまり固執することはできない)話すかもしれないし、単に面白そうだと感じるキャラクターについてかもしれない。我々が持ち出すアイデアのどれもが、我々がカヴァーする必要のあるひとつか複数のベースをすくい取るのが理想的だ(「不道徳なアポステイト・メイジ。いけるかも!」)

 この段階で忘れてはならないことは、まだ純粋なコンセプトについて話し合っているということだ。キャラクターは「謎めいた一匹オオカミ」とか「切れ者の先棒担ぎ」とか呼ばれているだけかもしれず、我々はそうしたキャラクターを数多く、それぞれなぜ粋(クール)なのかを説明する短い文章をつけて作り出す。プロットについてはピッチを提示して承認を得たので、キャラクターもピッチを書かなければならないと思うかもしれないが、間違い! それはまだ先の話。我々がそんな作業をする理由は、真っ先に見せる相手がアーティストたちだからだ。

 キャラクターを創造するのはライターたちだけではない。何かを書いてアーティストに渡して「これ作って」なんてことはしない。あるいはそうすることも「できる」かもしれない。確かに、過去そういうこともやったが、結果は理想的とは呼べなかった・・・、ライターがキャラクターの外見を決定することなどできないからだ。我々ライターは、ゲームに登場する「いかなる事物」についてもどういう外見か決めることはできない。ああ、もちろん、提案はできるが、ゲームのストーリーの部分がライターに依拠しているのと同様、見かけの部分は彼らアーティストに属しているわけだ。お互い分かち合わないといけない。だから、我々も彼らもインスパイアされるようなキャラクター・コンセプトについての共通の素地を見つけるため、我々は早い段階からアーティストと協力するように努めるのだ。

 正直に言おう。私自身もその部分はまだ熟練の境地には達していない。他のライターについてはわからないが、私はキャラクターのアイデアを人と分かち合うことが苦手だ。我々の大事な大事なキャラクターたちがどう見えるかという問題以外で、それを上回るほど多くの議論を呼んだり、担当間の敵意を生み出してしまうものはないと思う。とどのつまり、そのキャラクターがどういう人物かについてはどう見えるかに多くを依っているのであり、それが我々同様アーティストたちがキャラクターの外見を気に掛ける理由だ。ただし、お互いの立脚点が合致している場合には出来栄えが素晴らしいという事実から考えれば、創造プロセスを分かち合う必要性は自明だろう。

 だから大抵の場合、我々が当初好ましいと思っていたコンセプトはだいぶ絞り込まれてくる。まだそれでも完成には至っていないかもしれないが、少なくとも双方の担当が許容できるまでにはこぎつけられる。もしかしたらアーティストがあるコンセプトについてどう考えているかがわかる準備段階のスケッチを描いてくれることさえあるかもしれない。ライターはそのコンセプトが自分のものだと主張し、そこからさらに肉付けし、少なくともしばらくの間は自分のものとして扱えるのがこのタイミングだ。名前がいる。バックグラウンドがいる。彼らがプロットにどう組み込まれ、プロットにどう「影響を与える」のかを考えないといけない。

 そして、そうだ、ロマンス相手として適当なのは誰かを考え始める。あきらかな候補もいるだろうが、正直なところ、後でリストが変更されてしまう可能性もある。かなりある。リード・デザイナー(我々のキャラクター・リストの最終承認者)のインプットを追加した後でも、リストは、男女別、クラス、種族、ロマンス候補の有無などは何か月にも渡って変更し続けるのだ。なぜか? おそらくゲームのストーリーも同時に変更されているからだろう。キャラクターの正しい組み合わせ(ミックス)になっているかどうかの議論があるし、あるキャラクターの名前が誰かにとって高校時代の知り合いと同じだから嫌悪感を抱いたりすることもある。それから、どんな理由でもありうる。常に交渉が続く。

 最終的にリストは決定版に落ち着くのだが、大抵の場合、当初のものとは似ても似つかないものだ。最初のコンセプトは、もはや影も形もないかもしれない。モリガンはコミックSandmanのDeliriumのような幽玄で夢見心地な話し方をまだしているか? していない。アリスターは胡麻塩頭で百戦錬磨のグレイ・ウォーデンで、望まず背負わされた非嫡子という身分のせいで、他者に敵意しか抱かない男のままか? 違う。レリアナは由緒正しいドラゴン・ハンターの血を継ぐ自由奔放な女性冒険家のままか? うーん、違う。シェイルは心のない単調なしゃべり方をする自動人形で、君が人間の生命の価値を証明しなければならない相手か? もうそうじゃない。 

 そうだ、変更だ。ときには書き始める前から、ときには書き始めてから。一般的には完全に書き終わってから変更することはないが、ときにはある(シェイルがそうだった)。キャラクターの外見も頻繁に変わり、ゲーム開発がだいぶ進んだ頃でなければ最終形に落ち着かないのが一般的だ。例えばフェンリスの外見が何度修正されたか、数える事もできないくらいだ。通常の場合、キャラクターを書き始めるまで、あるいはすべて書き終わるまで、最終形を目にし始めることはない。 

 そしてその間我々が何もしていないわけではない。キャラクター・プラン(彼らの物語(アーク)がどのようなものか、ほかのキャラクターとの関係はどうか、好感度(アプルーヴァル)の段階が変わるたびにどんなことが起きるかなど詳細を記述した文書)に肉付けを施し、書き出す必要がある。それも極めて速やかに。キャラクターの全容(キャンプでの会話、ロマンストーク、そのほかクエストに直接関与しない事柄すべて)は、通常最初の二三週間かあるいは一か月ほどで第一稿が完成しているように期待される。 

 うーん、これでプロセスをすべて網羅したとは思えない。例えば、キャラクターの名前を決める際の畳み込み(コンヴォリューション)について触れていないし、何かを名付けるときはプロジェクト全体でも最も熱い議論を呼ぶのは当たり前だ(ゲームそのものの命名がそのトップだ)。だがそれについては記事一つ書くことができるだろう。だからそれは置いておいて、上のプロセスの説明が複雑すぎると受け取られないように祈ろう。自分で書いたものを読み直してみての唯一の問題は、キャラクターを書くことがまるで孤立した作業かのように読めることかもしれない。話し合う時間と、ずっとキャラクターを書いているだけの時間とがあって、それ以外には何もないかのように思われるかもしれないが・・・、実際にはクエストのプランを練り、ゲームのそれ以外の部分について書いている隙間を縫ってキャラクターを書かなければならないのだ。 

 楽しい部分だ。少なくとも過去一か月書き上げてきたキャラクターがカットされないだけで十分だ。確かにカットされたら完璧に最低な気分を味わう。でもそうじゃなきゃ? いい感じだ。

on narrative design 3

 第二回の趣旨は、「お前らのアイデアなんてクソだ」じゃないな、「カジュアルはゲームをするな」でもなくて・・・。
 前者はBioShockのケン・レヴィンが、後者はMGSの小島監督が「言った」とされているセリフですが、「だったらお前ら作ってみろや」という暴言と似ているようで違うんですけどね。
 
 本当の趣旨は、「ゲームの全責任はリード・デザイナーが負う」という部分ですかね。ゲーム・ライターは(他の担当・分野の者たちと同様)その支えである。

 映画・演劇の「監督」(ディレクター/マネージャー)も、ベースボールの「監督」(マネージャー/スキッパー)も、工事現場のように「監督」(通常サイト・マネージャー)と訳したのは素晴らしいと思う。発案者は「現場」感が共通していると考えたのでしょうか。サッカーでもかつて監督という呼称はあったようだが、今ではアメフト、バスケットなどと同様「ヘッドコーチ」で統一されているかな。
 ベースボールの監督と他のスポーツのヘッドコーチとの大きな違いのひとつは、選手と同じ背番号つきユニフォームを着るか着ないか(日本の高校野球だけは極めて悪しき習慣を踏襲していて監督に背番号がない? あれはベースボールじゃなく高校野球)。ベースボールの監督だけはフィールド(ダイアモンド)に入ってよい(入る際の手続きが決まっている)。他のスポーツのコーチは本来フィールド、コート、リンク、土俵などに競技中に立ち入ることはできない。ペナルティの対象であったり、そもそもそういう事態を想定していない。
 ベースボールのベンチと違って、他のスポーツでは個々のプレイの具体的な指示を(普通は)出さないことなどとも絡み合っているんでしょうが、これも長くなりそうなネタだからやめよう。

 全責任は監督ならぬリード・デザイナーにある。

 とはいえ、(特にBioWareのRPG作品のような場合は)ストーリーによって他のスタッフの開発期間中の仕事・生活が左右される。ライターはあくまでひとつの分野の担当であるものの、音楽で言えばコンポーザー(が言い過ぎならアレンジャー)のような役割も担っていると考えればいいのか。

 第三回目の副題は、pre-production。開発前の段階。

http://dgaider.tumblr.com/post/36573821952/on-narrative-design-part-3-pre-production

*****

 
 さて、私は上から降ってきた指図と、ゲームがどのくらいの長さになるかというラフなアイデアと、導入が計画されているゲーム趣向(フィーチャー)などのリストを手に入れた。そしてどうする? せっせと働き始める。ストーリーを紡ぎだすための青写真が必要だ。

 その青写真は、魔法のように忽然と姿を現すのではない。また、次のような要約をささっと書き出すなんてわけにも決していかない。

「プレイヤーはグレイ・ウォーデン最後の生き残り、侵略するダークスポーンの大群と戦う一方で、国王の死に責任があるという濡れ衣を自分に着せた王国とも戦わなければならない。しかしながら、主人公こそ勝利をつかむための最後の希望、デネリムに迫りくる恐るべきアーチディーモンとの最終決戦のため、ともに戦う同盟軍を招集しなければならない」

 もちろん最終的にはそこに行き着いたわけだが、最初からそんな風にははじまらなかった。嘘じゃない(”Trust me”)、Dragon Ageのため私が最初に差し出したアイデアは、みなからこんな歓迎を受けるなんてことはなかった。

「デイヴ、あんたはえらい! これはもう完成品だ!」

 皮肉でそう言われたことはあったかもしれないけど。仲間はみんな皮肉屋ばかりだから。

 いや、いや、いや。もちろん、みなの耳目を集めそうなストーリーの掴み(hook)が十分にあると思えば、上に書いたような基本的な謳い文句から書き始めることになる。リード・デザイナーとの間で、どの「掴み」にこだわるべきか多くの議論を重ね、ふつうは何度かの試行錯誤の後に合意に達し、その線で書き進めるように指示が出る。私は細部を追加したりしながらしばし書き進めるだろうが、結局これじゃぜんぜんうまく行かないとふたりとも合意する点にたどり着き、また別のことを試してみることになる。だが最終的には興味をそそるに足りると思えるような足がかりにたどり着く。この時点で我々はどんなクエスト群を想定しているか? まだなにも。キャラクターは誰かひとりでもはっきりしてるか? たぶんまだ誰も。そのときふたりで探しているのは、プレイヤーはどんな者で、その主たる目的は何かという点だけであって、このプロジェクトについて他には何も知らない誰かに伝えたときに、なかなかいけてると思ってくれるような小粋な設定だ。

 それを私は「エレヴェーター・ピッチ」(elevator pitch)と呼んでいて、ゲームのメイン・ストーリーの説明にも、我々が手掛けているどんな主要なクエストの説明にも用いている。それはすべてのライターが会得しなければならない技だ。根本的に自分のストーリーがどうであって、どうしてそれが粋なのかをエレヴェーターに乗っているわずかな時間でうまく説明できないのであれば、それはまだ複雑すぎるんだ。やり直し。

 それがどうして有益な取り組みなのか? なぜなら我々はライターだから。おいおい。皆我々のことはわかってるじゃないか。誰かと一緒に座り込んで、それぞれのキャラクターの成長物語の複雑怪奇な込み入り具合を、ランズミートにおける裁定の多種多様な場合分けを、DA:Oのプロットがどのようにアーサー王物語と異なるかを長々と説明し続ければ、聴かされている相手の目はどんよりと曇ってくるに決まっている。ストーリーの紆余曲折は「我々」ライターにとっては恐ろしく魅惑的な代物だが、ライター以外の者に伝えようとするときには完璧に意味のないものである。そして、伝えなければならないというところが肝心だ。嘘じゃない、ライターのヴィジョンとプロジェクトの他の連中の考えが食い違うなんてことはしょっちゅうあったのだ。なぜか?

 なぜなら、我々がうまく伝えられなかったから。詳細な文書を用意しても、ほんの些細なニュアンスまでも漏らさず網羅した長文のテキスト(walls of text)を用意しても、誰一人読まない。開発チームのライターとして(そしてクリエーター能力のあるチームの誰にでもあてはまるのだが)、自分のヴィジョンの「売り込み方」を学ばなければならない。皆をやる気にさせ、自分のやっていることへの信頼を勝ち取れば、すべてがうまく行く。もし皆が勝手にやる気になって助けてくれるなんて期待しているとしたら、そんなことは単にありえない。

 それを示す好例がある。レッドクリフには墓石がある。その存在にはプロジェクトの終わり頃まで気が付かなかったのだが、そのエリアのプロットをテストするため自分で走り回っていて見つけた。気が付いた途端にアート・チームの連中のところに行って議論した。「プロジェクトの宗教部分に特化したウィキに設定が全部載っていたじゃないか! アンドラステの信徒たちが頭を火だるまにしちまうぞ!」と不満を言った。でも、もう手遅れであった。そしてその責任は、結局のところ私にあった。このファンタジーの村と、他のファンタジー・ワールドの村との違いは何か、きちんと伝えようとしていただろうか? 様々な小題のついた文書の山の中に埋もれないように配慮しただろうか? やっていなかったし、神よ許したまえ、アーティストたちはそれらの文書をほとんど忠実に再現していたのだ。

 それが我々はもっと話し合わなければならないということを知らせるウェイクアップ・コールであった。どのチームでも周りから隔絶した世界に閉じこもって仕事をすることに容易に陥りがちだし、納期が迫っているときは特にそうだ。自分の仕事に没頭し、自分の担当するゲームの特定の部分の出来栄えばかり気にして、他の部分に影響を及ぼすことを忘れてしまう。私の経験からすれば、そういうルール違反の点ではライター連中が最悪だ。

 だから話をする必要がある。最初の売り口上がようやく出来上がったら、私が「ワン・ページャー」と呼ぶものを作成するために「たくさん」話し合うことになる。それは非常に短い文書(名前と異なるが多くて2,3ページ)で、あまり細部まで入り込まずに最初の足がかりを拡張するものだ。ゲームがどのように始まるかについての基本的な事柄や、物語の基調、終わりがどうなるかについて知らしめるものだ。プレイヤーはストーリーの中で何を「する」のか? 主な決断はどのようなものか? より重要なことには、カッコいい演出(sexy bits)はどこにあるか? その手の演出は「インパクト・モーメント」と呼ぶべきもので、なぜならそこにこそシネマティックの努力を傾注するべき部分であり、当然のようにマーケティングの連中の興味を引き付ける部分でもある。ワン・ページャーはチームに対してだけではなく、我々のゲームを他の皆に売ってくれる人々に対しても受け入れられる必要があるのだ。

 まるで数多くの皿を一斉に回す皿回しの曲芸のように聞こえるのも無理はなく、実際にそうなんだ。だが聞いて思うほど大変なことでもない。ライターたちが部屋に閉じこもって、何か思いつくのを待っているなんてことはないとだけわかっていればいい。そうするのはまだ先の話だ。この時点では、とにかく話し合いをする必要がある。同時に人の話を「傾聴」する必要もある。それはつまり他のグループを探してインプットを求めることだ。誰もが何かを提供してくれるわけではないが、何かがあるかもしれない。QAテスターやレヴェル・アーティストがストーリーについてのアイデアや、我々がすでに有しているアイデア(計画のこの段階ではまだぼんやりしたものだろう)への意見を有してはいけないなんてことはないのだ。誰もが同じ考えに立ってくれるようになるわけでもないが、最終的にはコンセンサスを得る必要がある。

 ワン・ページャーは、私が他のライターたちと話を始める際にも用いる。彼らは、正確な意味では同じプロジェクトにまだ参加していないかもしれないが、誰がいずれプロジェクトに加わるかを私がすでに知っている可能性は高い。彼らとストーリーのテーマなどについて話し始める。どんなストーリーを語るべきだろうか? そしてそれは難しいことなのだ。

 個人的には、自分で書き上げたいと感じる重大な場面について思いを巡らす傾向がある。DA:Oなら、一番最初に思いついたのが闇の儀式だ。まだ周囲の状況など何もわかっていなかったが、そのシーンで何がなぜ起きるのかについて基本的な事柄は知っていた。あるスピリットが男でも女でもあり、美女でも野獣でもあり、ウェアウルフのグループを救済するというアイデアも有していて、そのウェアウルフたちの行動にも「単に彼らは邪悪だから」というような理由以外になんらかの理由があるのだろうと考えていた。ローゲインについても、オステガーでの裏切りについても思いついていたが、まだどちらの名前も決まっていなかった。そして聖杯探索にちなんだクエストのアイデアもあった。これらすべてのアイデアは、当初みなバラバラな趣を有していて、だから私はそれらをまとめるストーリーはどのようなものか思いつかなければならなかった。皆がDragon Age: Originsとして知っているものは、このような端緒から広がっていったのだ。

 この段階では、多くの物事が捨てられ、あるいは変更される。自分でどうしても入れたかったプロット群には、いくら頑張っても物語に組み込むことができなかったものがある。ワン・ページャーに書かれていたことですら、話し合いによって変更される。当初ダークスポーンは知性を有していて、ローゲインがアーチディーモンにマインド・コントロールされていたなんて知っていたかい? 当初アーチディーモンとの戦いはコカリ荒野を蝕むブライトのど真ん中で行われることになっていて、アーチディーモンはそもそもドラゴンではなかったなんて知っていたかい? さらには、当初アーチディーモンを殺すには〔仮名〕というアーティファクトが必要だったのに、後になってから「グレイ・ウォーデンのみがアーチディーモンを葬り去れる」設定になったのだ。このトンマなアーティファクトを登場させることがあまりにベタで間抜けに思えたため、十回も練り直してみて、結局どう登場させるかじゃなくて、アーティファクトそのものがいけないことに気が付いたのだ。

 君が仮にライターズ・ピット(我々ライターが集まっている大部屋のことをそう呼んでいる)のライターだとしたら、この段階ではブレインストームのセッションが何度も繰り返されることに気づくだろう。君は自分のプロットのアイデアを放り込み、皆でそのプロット構造、クエストのそれぞれの時点におけるプレイヤーの動機づけのロジックと、それがどうして成立するのか、しないのかについてたくさん話し合う。「成立しない」という場合がたくさんある。ライターの誰かが「でもなぜプレイヤーはxという行動をとりたがるの? yという理由によって意味が通じないよ」などと言う。そこで皆が君を睨みつける。たとえ君のほうが正しかったとしても、今まで皆で労力をかけてきたことが全部ボツになるから。くそっ。

 我々はプレイヤーの歩む道筋を示した大きなフローチャートを描く(ヴィジオ万歳!)。それぞれの丸がプロットを示し、それらをつなぐ結線に「必ず行う(must do)」や「ある場合に起きる(happens if)」などと記載されている。プロットの分岐がどこで起きるか、ボトルネックがどこにあるか知りたいからだ。それぞれの結線にロジックを示すラベルが貼られる。だいたいの場合どこかで行き詰まる・・・。そこで私が立ち上がって「わかった、みんな落ち着け! 最初からやり直そう!」という。教訓:プロットが終わるところから初めて、そこから遡って手前でどんなことが起きる必要があるか考えるほうが容易いときがある。

 とにかく・・・、これらを一通りやり遂げたら、今度はそのすべてをワン・ページャーに小奇麗にまとめ上げなければならない。それが「ピッチ」(売り口上)になるのだ。エレヴェーター・ピッチではなく、本格的なピッチだ。リード全員とプロジェクト・ディレクターを部屋に集め、私から一通り説明する(パワポ万歳!)。インパクト・モーメントには目立つようなハイライトをつけ、みなの質問に答え、みなが興味津々になってくれるように努める。

 大抵ボロカスに言われる。私が答えを用意していない質問が出され、私のプランを遂行するために障害となりうる問題点を指摘される。それら以上に多いのは、おそらく私のプランにインスパイアされたのだろうが、別の追加的なアイデアを思いついたりする者が出てくることだ・・・、だが、どこからかは始めなければならないんだろう? 私はたくさんうなずき、おそらくたくさん反論し、最後にはピッチをチームに持ち帰って、皆で2.0版とか3.0版づくりに取り掛かる。それは、皆がこう言ってくれるピッチが完成するまで続く。「そう、それが欲しいんだよ」

 この時点で、私はライターズ・ピットに戻り準備完了を宣言する。チームの皆は「ィェィ・・・」と言って(皆疲れている)、次の段階に進む。大きなクエスト全部を個々のライターに割り付け、本当に雑なキャラクター・リストから完全なリストを書き上げ・・・、それらを誰が書くかを決めるのだ。ここで、私のチームのライターたち全員がプロジェクトにフルタイムで参加する必要が生まれる。もうブレイン・ストーミングもアイデアの話し合いもいらない。やるべきことが山ほどある。

*****

 レッドクリフの墓石については、調べがついていません。
 レッドクリフの村と城の防衛戦が終わると、住民の遺体はまとめて小舟に載せられて湖に流され、弓兵がそれに向けて火矢を放つシーンがありましたね。
 火葬と水葬の組み合わせなんでしょうか。

 私はてっきり、ブライトの感染を避けるための一時的な措置かと勘違いしていましたが、あの村と城を襲ったのはダークスポーンではない。アンデッドでした。
 あの小舟と火矢を用いた葬儀が、レッドクリフ古来からの風習だったのでしょうか。 そうであれば「墓石」(土葬または火葬が前提)は確かに矛盾しますね。

 

2013年2月19日 (火)

on narrative design 2

 一回目の主題は(というかおそらくこのシリーズを貫く主題は)、「ゲーム・ライターは、ゲームという工業(工芸)製品の制作にあたり協業すべき多数の職能のうちの一職能である」ということでした。
 映画の脚本家との類似にも触れられていましたが、まだしも映画のライターのほうがアドマイアされ、かつ権限を握っているとも思われます。映画の企画は粗々なシナリオの段階からはじまって、オリジナルのライターだけではなく制作サイドの多くの人間が関わりあって何度も何度もリライトされるのが普通と言います。スタッフはプロデューサー、ディレクターの次にスクリーンプレイ(ライティング・クレジット)がタイトルされるのが普通。スタッフの各担当(Departments)から一段上の扱いです。

 文中にもありましたが、欧米のゲーム・スタジオの場合フルタイムのライターを雇わないのが普通。フルタイムで大勢ライターを雇っているBioWareにしても、ライティングはデザイン担当(Design Department)のサブ分野。ゲームのクレジット・ロールではだいぶ後になって登場するのが普通。

 映画のライター、ゲームのライターの地位の違い、たとえば日本のエンターテイメント・メディア(アニメなど)と対比すると面白いはずですが、彼我の各メディアの歴史的発展形態、クリエーターの人口動静(需給バランスか)、異なる労働慣行(日本は得てして「正社員」だったりする)、ギルド制の有無(アメリカには厳格な俳優ギルド、ライターギルドがある)、なども絡んでくるんで一筋縄ではいかないでしょう。

 二回目のタイトルはEarly days、「開発初期段階」というよりも「開発以前の段階」でしょうか。

http://dgaider.tumblr.com/post/36443580428/on-narrative-design-part-2-the-early-days

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 ライターである私はどこかの時点で、あるゲームのシナリオを書いてくれ、と指示される。
 
 普通は別のプロジェクトが終息するあたりのタイミングで指示されるのだが、それも当然のことだ。ゲーム開発前のフェイズ、特にずっと初期の段階では、他のほとんどのコンテンツ・クリエーターがなすべきことは多くなく・・・、まだ「何を」作ろうとしているか何もわかっていない段階だから、みな手持無沙汰で(両手の親指を合わせてくるくる回して)いるだけだ。

 少人数チームが次のゲームのコンセプトづくりを進める間、他の者たちにも何かさせておくほうが望ましいのは確かだ(言うまでもないことだが、大プロジェクトが終わったあとは皆どうしても休暇や休息を取りたくて仕方がない)。だからスケジュールを担当する連中(通常はプロデューサーたち)は、複数のプロジェクト期間をうまく組み合わせて、クリエイターたちの手持無沙汰が最小限になるように常にやりくりに追われている。

 真っ新のゲームであれば、何を手掛けるべきかの議論は上層部で行われる。アイデアはおそらくプロジェクト・ディレクターの階層で生まれ、どんな主要な趣向(the Big Features)を持ち込むかについて上級(シニア)リードの者たち(各担当のボスであるリード・デザイナー、リード・プログラマー、リード・アーティストなどなど)の間で話し合われる。プロジェクトの主たる目標は何か? どこにイノヴェーションを持ち込むか? ゲームプレイの基調はどんな感じか? さらに重要なことには(EA傘下になってからはゴー・サインはさらにずっと上層から出る)、それは売れるのか? 潜在的購買層はどれくらいか? 我々社員を雇用し続けることについてもたまには気に掛けておくのが好ましいと考えられているようだから、開発資金面などのビジネスの側面も同様に検討される。

(これは余談になるが、「ゲームのアイデアがあるんだ! 誰に相談すればいい?」などと私もしょっちゅう尋ねられる。その答えは「誰でもない(nobody)」だ。プロジェクト・ディレクターの階層にいる人物? 彼らはすでに自分でアイデアを有している。真っ新なIP(intellectual property、知的財産、タイトル、ブランド、シリーズ、フランチャイズのこと)を世に出すチャンスになんて彼らのキャリアの間でも滅多に出くわさないのに、彼らが何も考えていないなんてありえると思うかい? 彼らが、いつかこんなゲームを作ってやりたいという何の夢も持たずにゲーム開発の世界に飛び込んできて、これまでなんの役割も果たして来なかった誰かが不意に現れて、「こういうものを作れ」と言ってくるのをただ待っているだけだと思うかい?

 
 あの愛すべき(訳:BioShockの開発者などで著名な)Ken Levine曰く、いや実際には正確にこう言ったわけじゃないけど、彼があるパネル・ディスカッションでこう言い放った光景を思い出すと私は今でもニヤニヤしてしまうんだよ。「お前らのアイデアなんてクソだ」。
 この産業の誰もがアイデアを有している。私だってアイデアを有している。アイデアは安い。もしあなたがアイデアを有していて、それをゲームの形にしたいのであれば、誰にも言うな。自分で作れ)

 ともかく、閑話休題。

 
 もし既存IPのゲームであれば、上述の質問のいくつかにはすでに答えが出ている。その代わりに議論するのはこんなことだ。今度のゲームはどう違いを出すのか? どこを改良するべきか? 繰り返しては「いけない」ことは何か? 前回は何がうまく行った/行かなかったのか? 

 こうしたゲームの基調について、リード・ライターは相談を受けるかもしれないし(他のサブ・リードもそうだ。そしてサブ・リードとは各担当に含まれる様々な分野のプロジェクト責任者のことで、例えばライティング、レヴェル・デザイン、シネマティック・デザイン、システム・デザイン、コンバットなどは皆デザイン担当に含まれる)、相談を受けないかもしれない。私に知見のない分野、たとえばビジネスの側面に関する相談を受けることはない。そしてそれにはホッとするのだ。エコノミクスを語ると、私の眼から血が噴き出してしまうから。

 とにかく、どこかの時点でプロジェクトにはゴー・サインが出る。リード・デザイナーがサブ・リードたちを招集して、そのほやほやのニュース(スクープ)を伝える。我々のプランとゲームの基調をどうすべきかサブ・リードたちに考えるように伝え、一部については方向性を示す。私の場合、リード・デザイナ―からストーリーのパラメーター(制約、範囲、それらを司る要因など)を提示されることになるかもしれない。それは基本的コンセプトかもしれないし、あるいは試すべき新趣向(たとえばDA2における枠物語)などが含まれるかもしれない。

 また極めて重要な「スコープ」についても話をする。どれだけでかく作るのか? ワード・カウントはいかほどか? 開発時間はどのくらいか? スコープはすべてに影響を与える・・・、我々が書いたものすべてが、まるで滴(しずく)が垂れていくように他のすべての担当にいくばくかの影響を与えていくのだ。我々ライターは皆の仕事を生み出す泉、水源だ。我々がタイピングした一つ一つの言葉にドルマークが、それこそ沢山のドルマークがくっついてふわふわ宙を舞っていると想像してみてくれれば、なぜ皆がストーリーを気に掛けるのかお判りいただけるようになると思う。

 そしてサブ・リードたちが「イエッサー、リード・デザイナー、サー!」と叫んで、即座に命令を実行するため散っていくなんてこともなく、我々はまるでインターネット・フォーラムのオタクのように、少なくともそれよりちょっとは自分たちを取り巻く現実を意識はするものの、延々と議論を重ねることになる。協業する意志のない者、それがどんな帰結を必然的にもたらすか理解しない者は、ゲーム開発の世界では長続きしない。かんしゃくを爆発させて、「私が『ライター』だ! 予算やら技術的制約やら何だか知らんが、私の『芸術』に影響を与えることなど断じて許さん! 一体全体、お前たちのような無教養な『俗物ども』(philistine)に、どうして『ストーリー』のなんたるかがわかるというのか! どんな神経だ!」なと叫んでいれば・・・、まあ、うまく行くはずもなかろう。即座に部屋から叩き出されるのがおちだ。

 ゲーム開発の世界に携わる人々は、ゲーム体験を創造したいから飛び込んだのだと言ったことを覚えているだろうか? 最高のストーリーを作り出すプロセスに参加したいからやっているのだと言ったことを覚えているだろうか? 実はそれらは外交辞令でもなんでもない。ライティングにあたっては彼らのそういう欲望をも考慮しなくちゃならない。もちろんそこには交渉の余地がある。今後2年間にわたって彼らが手掛ける仕事を決定づけるゲーム、そのストーリーをまがりなりにも纏め上げなければならないからだ。だから、そうだ、彼らはストーリーを気に掛けている。当たり前だ。そして私が最初に競わなければならないのがリード・デザイナーで、なぜなら私がどんな議論を吹っかけても、彼はすべて却下できる権限を有しているからだ。戦っているわけでは必ずしもないが・・・、理想的には同じ波長を有しているはずだから・・・、だがゲームの箱に名前が載るのはリード・デザイナーだ。これは『彼の』ゲームだ。私は彼の人生を楽にし、かならずしも私個人のものではない、彼のヴィジョンを実現する手助けをするために存在しているわけだ。

 リード・ライターの役目について人々が混乱している部分に話が行き着いた。おわかりのとおり、私はリード・デザイナーではない。プロジェクト・ディレクターでもない。私は大きなチームの一員である。協業によってたくさんの良いことを手に入れることもできるが、同じだけフラストレーションも溜まる。人生のほとんどの物事と同様、それがトレード・オフってやつだ。

 ともかく、リード・デザイナーや他のサブ・リードたちと話し終わったら、私は基本的なパラメーターをまとめる。リード・デザイナーが「私の」考え方の大枠に賛同したら、私は自分の机に戻ってそこから本当に愉しい作業をはじめる。私はまず、様々なゲーム趣向群、ぼんやりしたアイデアの数々、指示や制約などを取り上げて、それらを「ストーリー・コンセプト」に紡ぎあげることに取り掛かる。ライティングが始まるのはそこからだ。

2013年2月18日 (月)

on narrative design

  “On Narrative Design”、「物語のデザインについて」。ゲイダーさんのTumblrでずっと気になっていた記事ですが、とても長いので躊躇していたもの。すでにパート10まで書かれているので、一気に紹介というわけにはいきませんが、ことが「物語」について。根幹をなす話題ですからいつまでも放置できない。ぼちぼちとやっておくことにします。

http://dgaider.tumblr.com/post/36331574543/on-narrative-design-part-1

(陳謝)いきなりシリーズの表題を間違えていました! 直しました。

 なお、narrative、story、dramaなどは区別が難しいですね。このブログでは意図的に「物語」、「ストーリー」、「ドラマ」と区別するつもりなのですが、なかなか徹底できない。
 narrativeとstoryはインターチェンジャブルに用いられたり、区別されたりする。storyとdramaもそう。「ドラマ」は「演劇」を指す場合ではなくて「人間ドラマ」などの用法のときに絡んできます。「ストーリー・ドリヴン」なんて、言ってしまえば「ドラマチック重視」のことだから。

 そもそもなぜ、人は物語(ストーリー、ドラマ)を語ろうとするのか。なぜ人は他者の物語を聴こうとするのか。一説によれば、すべての人は「常習的な」(inveterate)ストーリーテラー(語り手、語り部)であるそうです。そこらのうんちくは別の機会に。

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  ゲーム・ライター、とりわけBioWareのようにストーリーが作品の中心的な役割を占める会社のライターに対する誤解をよく目にする。セリフとキャラクターを見て、それを書いているのはライターだから、当然ゲーム開発プロセスの頂点に位置していると考えているんじゃないかい? ライターがストーリーを書き、他のメンバーがそのストーリーをゲームに仕上げていく。ライターが背景を設定し、コーデックスも書き、すべてのキャラクターの喋る言葉を書く・・・、私が好きな部分だが、それらに責任を負っているのはライターに違いないと考えているんじゃないかい?

 もちろん責任はあるが、ごく一部分だけだ。ゲームづくりは大勢の人々が参加する途方もなく大きな取り組みであって、その性質上協業(コラボレーション)プロセスでなければならない。ゲーム・ライティングは小説を書くことよりも映画の脚本づくりにより近い。ゲームのストーリーテリングには、ライティングのみならず様々な要素から組み上がっている。そして決して容易い仕事じゃない。我々ライターの書いた言葉が、キャラクター・デザイン、レヴェル(マップ)・アート、音楽、シネマティックス(ゲームプレイや、その他私が失念していることもまだたくさんある)などをうまく補強できなければ、ただ単に失敗するだけだ。

 とどのつまり、他の担当の人々もライターと同様ストーリーテラーであるのだ。我々ライターと同じ理由でゲームに取り組む。キャラクターを書いてはいないかもしれないが、「ゲーム体験」を創造しているのだ。レヴェル・アーティストは自分で造ろうとするレヴェルについて驚くべきアイデアを有している。キャラクター・アーティストは新しいクリチャーに関する素晴らしいアイデアを有している。デザイナーは新しいクラフティング・システムやコンバットをより愉しめるものにするアイデアを持っている。プロジェクトのリード(訳:各担当のリーダーたち、たとえばリード・アーティスト)たちが、それらすべてのアイデアをひとつにまとめ上げ、ゲームに持ち込むのだ(ストーリーについて我々ライターたちが有しているアイデアも含む)。すなわちコンセプト。そしてそこから我々のすべての仕事が始まるんだ。
 でも、どうやってやるの? それが、私が一番よく受ける質問かもしれない。連携しなければならない情報はとてつもなく多く、ゲーム全体を貫くストーリーがまだぼんやりとしか整合していないときに、それらの情報をまとめあげるなんてとてつもない努力を要する。どうやって「始める」の?

 簡単な答えは「ミーティングで」だ。事実、自分の時間の半分はミーティングに費やしているような気がする。もちろん、より複雑な答えもある。個人的には、ここに記述しようとすること自体が恐ろしく退屈なプロセスだと思うのではあるが、いつまでも同じ質問を受け続けてきているので、自分でほんとに説明できるかどうか試してみようと思う・・・。もちろんBioWareの場合である。会社によってプロセスはそれぞれ異なり、ほとんどの会社はフルタイムのライターたちを雇ってはいないんだが、BioWareのプロセスが自分にとってとても馴染み深いので、それで試してみよう。

 少なくとも次回誰かに同じ質問を尋ねられたときには、ここのリンクを教えてあげることができると思う。「またそんな質問ですか! その答えはTumblrに、シリーズでとっくに書きましたよ」

2013年2月16日 (土)

DA2版けいおん

 わ、この記事8日前?! “This article is bloody eight days old!” (出典:映画「レッドオクトーバーを追え!」)

 ああ、きっと先越されてるな、これ。ひとまずよそ様は見ないで書こう。

http://dgaider.tumblr.com/post/42444312492/dragon-age-rock-band

 
「これまで、ずっと真面目な質問にばかり答えておられるので、私としては敬意と畏怖の念がますます増すばかりです。さて私の質問は、前から友達の一人と議論していた次のようなものです。ホークを含む(双子のいずれか/どちらも含むかどうかもお任せします)DA2のパーティー・メンバーでロック/メタル・バンドを編成するとしたら、それぞれどのパート?」

 うむむ。やってみよう。

 ホーク:もちろんリード・ヴォーカル
 フェンリス:ドラムス。憤怒のドラムス。
 アンダース:ソウルフルなサックス。作曲も彼
 イザベラ:リード・ギター。メチャクチャでワイルド
 アヴェリン:ベース・ギター。ソリッドなサポート
 メリル:時折タンバリンを叩きながら、ステージ中を跳ね回る
 ベサニー:バックアップ・ヴォーカル。スポットライトが当たるたびに緊張で縮みあがっている
 カーヴァー:舞台の袖に立って、ホークを睨み付けながら「どうして僕はロックスターになれないんだ?」とひとりごちる。自分がいなればバンドは到底成り立たないのに、などとブツブツつぶやきながら時折機材を運んだりしている。

 そしてヴァリックは腕利きのバンド・マネージャー。んなところかな。

 修正)おおっと、セバスチャンを忘れてるか? 劇場外で抗議のピケを張っている集団の中にいるんだろう。こういうプラカードを持って。「ロックはひとごろしだあああ」

 ファン・アート求む。

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 なにをおいてもゲイダーさんが、セバスチャンをすっかり忘れているところがサイコーです(笑)。影うすっ。

 そして、その要求に応えて送られてきたファンアートもなかなか笑えるのですが。気合入りすぎなものもあるし。
 フェンリスが「俺のドラムソロをなぜ入れん?!」とアンダース(作曲家)に迫っているところとか超受ける。
 ドラムソロは退屈だしなあ。ドラムス経験者の私がいうのだから、そう。

 フェンリスがドラムスはぴったりですねえ。ドラムスとかベースボールのキャッチャーをデブ(失礼)がやるのはオールドスクールで、しばらく前からデクスタリティ重視。プロ・ドラマーはどちらかというと小柄な人が多いね。ゲイダーさんはツイン・バスドラのレイジ系をイメージしてるのかもしれないが、彼の場合はシャッフル系なども似合いそうだ。
でもファンアートで描かれているようなベーシックなドラムセットではないでしょう。要塞型。タムは最低でもオクターブ揃えて、シンバルなんてものすごい数必要かな。
 ドラムソロが熱を帯びると、レリウムの入れ墨が光り始めるとか。ピンクフロイドもびっくりの舞台効果?

 
 ベーシストは個人的には女性に決まっているのですが、キャラクター的にはアヴェリンですかね。リジットだけどバッキンバッキン鳴らしそうですね。グルーブ感はさほどないんだろう。

 イザベラのギターはどうなんでしょう。ゲイダーさんはディストーション系をイメージしてるのかな。
 どうせひとりでつっぱしりまくって、いつもアヴェリンと喧嘩になるんだな。「このビッチ! いつまでソロやってんだよ!」
 つうか、朝まで飲んだくれてリハとかにちゃんと来ない。ステージも平気でぶっち。

 メリルは説明不要(笑)。ヴァリックも説明不要。

 ベサニーは「引っ込み思案」というキャラクター造形だったんですか・・・。初めて知った。でもバックアップ・ヴォーカルはお似合い。オルガン/キーボードでもよかったかも。
 
 カーヴァー。バンドのローディーかよ。

 そこで、アンダースがサックスってのは、どうなんすかねえ。「スピリット」、「ソウルフル」からの洒落なんだろうけど。
 いっそアンダースをリード・ギターにして、フェンリスとの即興の掛け合いが最高潮に達すると、二人ともブルーに光るとか、ピンクフロイドも(もうええちゅうねん)。
 サックス・プレイでジャスティスが登場するとは思えんのですよね。少なくともメタルにサックスはないような。プログレならあったけど。
 
 ホークは男女あるので、どちらがリード・ヴォーカルかで微妙に違った感じになりそうですが。
デフォルト・ホークの顔からだけ想像すると、野郎ホークはサザン・ロック、カリフォルニア・ロック? US系。メタルであってもメタリカ。
 女性ホークの場合はヨーロピアン系、東欧・北欧かなあ。スラッシュ系。

 そもそもアンダースがどんな曲書くんだろう・・・。

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 それに直接は答えていないが、(おそらくゲイダーさんの)「イザベラかメリルが曲を書いたらどんな感じ?」という質問に、BioWareの誇る邪悪な女性ライターふたりが答えている。

 シェリル:メリルは「羽のサーガ」(Saga of Feathers)、イザベラは「お前のものはあたしのもの」(I Want Your Stuff)
 メアリー:それはシングル・カットされたヒットナンバーのタイトルだね。アルバムのタイトルなら「死ね、それでお前のものはあたしのもの」(Die. So I can take your stuff.)

 シェリル:「お前のものはあたしのもの、あたしの、あたしの、ぶん殴ってでも、足を払ってでも、お前のものを奪ってやる、激しいのは嫌いかい?」

 とびっきりいけてる(killer)ダンス・ビートの曲。 
 Ke$haみたいな。

 メアリー:他のナンバーはこんなの。

  「あなたの死体を漁らせて」(I’m Gonna Loot Your Corpse)
  「鏡はステキ ― たとえ邪悪でも」(Mirrors are Pretty (Even if They’re Evil))
  「お前のボスはどこにいる」(Tell Me Where Your Boss Is)
  「道に迷わずに」(Follow the String)

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 残念ながら、最後の”Follow the String”だけ真意がわからない。
 もともとの意味は「この紐をたどれ」なんですけど。そんなシーンあったっけ?
 イザベラが拉致られた跡をつけるときの「跡」のこと?
 メリルの歌だとしたら、なんだろう。

 

 (修正)コメントいただいて謎が解けました。メリルとヴァリックのバンター由来。

 ロウタウンにやってきたメリルが都会で道に迷わないように、道しるべとして使えとヴァリックが糸玉を渡したのでした。

 あのミノタウルス(ミナター)が潜むクレタ(クリート)島ミノス(マイナス)の迷宮(ラビリンス)の伝説に倣ったジョーク。 

 シモネタだったら、意味は色々思いつくのですが。そもそも”I Want Your Stuff”だってシモネタだからねっ。

 そしてLaffyさんとこに思いっきり先越されていた。これから読ませていただきやす。

2013年2月14日 (木)

【DA3】まゆつばも込みの新情報

 次のニュースは旧聞も旧聞、一週間近く放置してしまいました・・・。
 ただ内容の精度の低さからして、それでよかったかもしれません。

 DA Wikiのファンブログから、DA3に関するいくつかの新情報(まゆつば含み)。

http://dragonage.wikia.com/wiki/User_blog:IlidanDA/Some_new_information_about_Dragon_Age_III

 もともとはBioWareのスプリント・レヴュー(に出席している開発関係者ツイッター)からのネタ。
 たった一言の発言から推測しているものもあり、確からしさは全体的にかなり「低い」。
 とはいえ、ネタもないから、つっこんどいておこう。

(なお、DAWikiファングログは「スプリング・レヴュー」(春季レヴュー)と間違えているが、これは”spring review”ではなく”sprint review”である。ゲーム開発期間を通じていくつか設定された大きな工程の区切りであるマイルストーン(milestones、一里塚・里標)をさらに細分化したものがスプリント(sprints、短距離走のイメージ)。BioWareでは、ひとつのマイルストーン期間に3回程度のスプリントが設定されるという。ざっくり予想すればマイルストーン期間がクォータリー(3か月)、スプリント期間が1か月のタームくらいかもしれない。あちらは「月」ではなく「週」で管理するようだけど)

 
・"Minion"

マーク・ダラー氏(エグゼクティヴ・プロデューサー)のこの一言から、プレイヤーのミニオン(子分)が登場するかもしれないとか。

訳:どうですかね。コンバット・システムのレヴューの際のツイッターなのですが。子分登場はまゆつば?

・"Fear Demon"

ダラー氏の発言。すでに公開情報となっているデスペア(絶望)ディーモンに加え、フィアー(恐怖)ディーモンが登場する?

訳:一方でプレスリー氏(PR)は「あんなのだったっけ?」"Fear demon? That isn't the fear demon I remember."と言っているので、これはどうなんでしょうか。検討はされていたのか。

 登場するとすると、ディーモン序列問題がまた騒がしくなりそう。「恐怖」こそ、それ以上分解できないすべての感情の根底にあるもののひとつですから、悪徳の序列では一番上にないとおかしくないかい?

 美徳との関係で言えば、「恐怖」(fear)は「勇敢」(bravery)、「大胆不敵」(fearlessness)と対になり、「怯懦」(cowardice)の裏返しが「勇気」(courage)。そんなかな。

 恐怖(フィアー)? 絶望(デスペア)? 傲慢(プライド)、欲望(デザイア)、怠惰(スロス)、貪欲(ハンガー)、憤怒(レイジ)。

 「傲慢」(自我極大化)と「絶望」(自我極小化→ある意味極大化)って裏腹の関係ですよね、きっと。

 「世界」は「自分」がすべて支配(コントロール)してやるんだ、と思うのが「傲慢」で、「世界」に「自分」はすべて支配(コントロール)されているかのように感じるのが「絶望」。「傲慢」は「世界」と「自分」を同一視しているのだから自我極大化。絶望は「世界」の中に「自分」の居場所がないと感じることだから自我最小化、なんだけど結局興味・関心の中心は(外界を無視して)「自分」だけになるわけだから、ある意味自我極大化。

・"Tactical combat shown"

キャメロン・リー氏(プロデューサー)。戦術的コンバット。

訳:DA2だって最初は「戦術的」と呼んでいたので、これはまだ怪しいが、「押すたびに何かワンダフルなことが起きるボタン」も「シャカ・シャカ・バーン!」も廃止されるということでしょう。ポーズ・アンド・コマンド方式を強調するとすれば、コンソール版との折り合いどうつけるか。

・"I think DA fans will be pleased with the amount of customization in DA3."

プレスリー氏。「カスタマイゼーションの量の多さにファンは満足するだろう」。

訳:すでにアーマーまわりのヴィジュアル・カスタマイズについては素案が示されていましたが、これはカスタマイゼーション担当のレヴューに対して。

・"DA3 is going to be a gorgeous game. DIFFERENT areas, environment types, lighting, flora & fauna, scenery, etc. big improvements easily seen."

プレスリー氏。レヴェル・デザインのレヴューに対して。DA3は「ゴージャス」なものになる。「さまざまなエリア、環境タイプ、ライティング、植物相、動物相、風景などなど」

 Skyrimを意識した発言でしょうか。個人的にはDA:Oの世界に回帰するだけでもかなりの部分達成可能だと思う。

・"Lots of new characters and places, but some familiarity too. Can't forget what has happened prior, but DA3 is a new game."

 プレスリー氏。多くの新しいキャラクターと場所が登場するが、何人かの旧友にも再会(馴染みの場所にも再訪?)する。

 訳:前作から誰が登場するかという、この手の予想は残念ながら当たったためしがない。カッサンドラとキャプテン(あるいはコマンダー?)カレンくらいが今のところ確実なんでしょうかね。

・"Sweet rocks now can be wet."

ダラー氏。「乾いた岩々がときには濡れることも」。天候の変化(雨や雪)を実装するかもしれない?

訳:ダラー氏の発言はdynamic weatherのことではないかと予想する声があるが、これも確からしさ低そう。仮に実装されたとしても最近でもFFXIIIなどがあり、決して目新しくはない。

・"Now our animations aren't racist."

プレスリー氏。アニメーションはもはや「種族差別風には見えない」。
 

訳:そんな議論があったのでしょうかね。走り方などがエルフ、ドワーフと違うから? たとえば女性ホークの走り方や指示待ち(アイドルタイム)のアニメーションなどについての批判はあったでしょうけど。

 
・"Discussing eye blink animations"

キャメロン・リー氏。キャラクターの瞬き(まばたき)について議論中。

訳:DA2のキャラクターがカットシーンでは瞬きしすぎる一方、フィールドでは瞬きしない(しないよね)点を言っているのでしょうか。
私が紙芝居用の画像を大量に撮影しなければならなかったのも、キャラクターの瞬きが多いことが一因。結構苦労させられた。

・"Now THAT guy is going to be a challenge for our cosplayer fans.”

プレスリー氏。「DA3のキャラクターのうちひとりは、コスプレの難易度がかなり高い」。

訳:えーと・・・、コスチュームの再現が難しいということかな? それとも複雑なタトゥーとか、妙に凝った生地柄の衣裳とか。でもJRPGのメチャクチャ凝りまくったのもコスプレイヤーは再現しているしな。あるいは、流体や水銀のように不定形とか?

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 レヴューされた主要分野をツイッターから拾ってみると、開発インフラ、コンバット・システム、オーディオ、カスタマイゼーション、レヴェル(マップ)、デジタル・アクティング、ストーリー・キャラクター(ナレイティヴ)、アート・テック、キャラクター・アート、ローカリゼーション。

 文中何度もdub-stepという言葉が出てきますが、ダブステップはベースを中心に据えたダンス音楽のジャンルですね。正規のサウンドトラックがない段階でヴィデオをレヴューしているため、開発者が思い思いに埋め合わせでBGMを入れている。それがダブステップに偏っていたということのようだ。ま、実際ゲーム・ミュージックに用いられているし、人気あるんでしょう。

 ということで、DA3はまだまだ開発真っ盛りということのようです。

エイジェンシーなど

 エイジェンシーについては次回といいながら、約一週間放置。
 書いている途中で中身がこんがらがったのではないのですが(それもあるか)。
 ここのところ休みも含めて、見事に自分ちのPCの前にいない時間が続いている・・・。
 ・・・いい年こいてDQ7の3DSリメイクにはまったともいえないしなあ・・・。

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 ヴィデオゲームというメディア、とりわけ他ジャンルに比較して「世界」(注1)をできるだけ「総合的に」模倣しようと試みるRPG(注2)においては、エイジェンシー問題がひときわ重要と考えていいでしょう。

(注1) 当然ながら、この現実の世界をそのまま模倣するRPGのほうが実際には少なく、その場合はそもそもRPGとは呼ばず、シミュレーションなどと呼ぶ場合がほとんどである。ここでいう「世界」の意味は次。人類が築き上げてきた文明、社会、文化などをひとまとめに「歴史」と呼び、それと現実の(時間軸も含めた宇宙規模での)「自然」(天然)をあわせて「この世界」と呼び、ファンタジー世界が舞台のRPGであればこの世界の模倣あるいはそれからの類推によって、未来世界が舞台のRPGであればこの世界の外挿として、あるいはやはりなんらかのアナロジーを用いて導かれた空想上の世界を指している。

(注2) 「総合的に」の意味は過去記事「RPGのあり方」でも紹介しましたが、この世界を構成する要素をたとえば未来と過去(時間性)、自然と身体(空間性)といった四つの「混沌」とした場合、そこから「秩序」を切り出す際にできるだけまんべんなくそうしようとすること。
 RPG以外のジャンルのゲームではこれらのうち一部あるいは多くを完全に欠いている場合がほとんどである。

   もちろん、RPGのサブジャンルによって切り出しに濃淡が出るのも当然なことで、BioWare作品などは未来・意思決定を(選択と決断)、ハック・アンド・スラッシュやダンジョン・クロウラーであれば過去・慣習を(クラス、狭い意味でのビルド)、オープンエンドRPGであれば自然・適応を(ワールド)、あまり数はないものの善悪などの価値観を揺さぶることを目的とした、たとえばBravely Defaultなどが試みようとしたものでは身体・潜在的価値の維持(キャラクター像)を、それぞれ強調しようとしている。

 
 エイジェンシー(Agency)はもともと哲学用語、転じて社会学用語。日本語で言いたいなら行為者性、行為主体性。
 堅い話から済ませましょう。

 Wikipedia(en)。
 

「哲学、社会学の分野におけるエイジェンシーとは、エイジェント(人物またはその他の存在(エンティティ)(訳:たとえば組織・法人など)、人類または生き物全般、あるいは宗教上の霊的存在を覚知する者)が世界の中で行動する能力のこと。哲学の分野においては、空想上のキャラクターやその他の実在しない存在を示すエイジェントもまたエイジェンシーを有しているとみなす。行動する能力は、行動を起こす選択をなす能力に特定の倫理的側面を付加することは含意しておらず、よってモラル・エイジェンシーとは区別される概念である。

 社会学の分野におけるエイジェントは社会構造と関わりあう個人を指す。ただし、社会構造と個人能力のどちらが優越すべきかという論点について、社会学分野で議論が続いている点には留意すべきである。この議論の少なくとも一部は、エイジェントが有しうるリフレキシビティのレベルにかかわるものである」

「ヒューマン・エイジェンシーとは、人間が選択を行う能力。通常、思考を伴わない決定論的なプロセスのみに由来する自然力(ナチュラル・フォーシズ)と対比される。この観点からエイジェンシーは、人間の選択は因果の連鎖によってもたらされるものではなく、顕著な自由を有しているかまたは不確定であるとする哲学的規範、すなわち自由意志(フリー・ウィル)の概念とは微妙に区別される。ヒューマン・エイジェンシーは、人間は現に決断をなし、世界に対して働きかけているという主張を伴う。人間が「いかにして」決断をなすのか、自由な選択か、またはその他のプロセスによるものなのかはまた別の論点である。

 人間がエイジェントとして行動する能力は当該人間にとっては個人的なものであるが、そのヒューマン・エイジェンシーの特定の行動がもたらす結果を考慮すれば、あるエイジェントが行動した当該状況に対して倫理的要素を持ち込む発想が生まれ、よってモラル・エイジェンシーが関与することになる。もし、ある状況が人間の意思決定の帰結であるとすれば、各人は自らなした決断の帰結に対して価値判断を適用する責務を負い、そうした決断に対する責任を負う」

 まあ、なんつうか、わかりましたかね?
 RPG分野だけを考えても、重要な要素はこれだけではなくどんどん広がっていく。たとえば、モラル・エイジェンシーは「広く共有された価値観に基づいて善悪の判断をなすエイジェントの能力」のことであり、それはもちろんRPGの世界でもよく用いられる「エシカル・ジレンマ」(倫理的な葛藤)であるとか、「モラル・チョイス」(道徳基準の選択)などの趣向につながる。

 ここでまた上述の四つの「混沌と秩序」が関与してくるともいえるわけで、人間が未来(意思決定)を選ぼうとする際には、過去(慣習)を踏まるべきかどうか、踏まえるとしたらどの程度どのように解釈するのかを考慮したうえで、とりまく自然(適応)に対してどのような影響があるかを検討するのかしないのかも含めて判断する、そのこと自体が人間すなわち自然と対比される理性と感性の基盤としての身体(潜在的価値観の維持)という混沌をいかに秩序に向かわせるかということになるわけです。

 
 言い換えるなら、人間が未来という混沌に対峙する際にはその想像力をもって、過去という混沌からの記憶に頼りつつ、自然という混沌への感覚を研ぎ澄まし、理性と感性の源である身体という混沌に立ち向かう。

 足下の核燃料発電問題などを考えれば、こうした発想がいかに有意義であるかをお分かりいただけると思う。

 RPG(に限らずヴィデオゲーム)の世界においては、プレイヤー・エイジェンシーとは「プレイヤーあるいはそのアヴァター(エイジェント)が仮想ワールド(世界)の中で行動する能力」のこと。だけど、これだとスーマリもBF3もスペースインヴェーダーもなんでも入っちゃう。

 もう少し定義を狭くして上のヒューマン・エイジェンシーにならえば、一般にRPG(およびその他一部のヴィデオゲーム)の世界においては、プレイヤー・エイジェンシーとは「プレイヤーあるいはそのアヴァター(エージェント)が仮想ワールド(世界)の中で選択を行う能力」のこと。
 そして、昨今のRPG一般に関する議論の中では、この場合の「選択」は当該空想ワールドにしかるべく重大らしい影響を与えうる(という幻想をプレイヤーに抱かせるに足る)もの。

 ゲイダーさんのコメントを繰り返せば、オーディエンス(観客、読者、プレイヤーなど)にエイジェンシーがない状態とは、「受け身でのぞき見している立場」。小説、映画、ほとんどの演劇(そうでないものもある)などがそう。

「インタラクティヴィティがない」場合はエイジェンシーもないのは間違いないが、インタラクティヴィティがあるからといってエイジェンシーがあるわけじゃない。スイカなどの発券機だって、テレビの情報発信だってインタラクティヴだ。少なくとも私はあんまり選択の余地があるとは思えないし、第一愉しくはない。

 (日本ではエイジェンシーに乏しい状態を「やらされ感」などといいますね。任天堂が3DSのDQ7を説明する際にその払拭を目指したと使っていたのでちょっと笑ってしまいましたが)

 そしてこのエイジェンシーは、ゲイダーさんが言うように物語のリニアリティとの間で配合の連続体(配合割合が0-100(%)から100-0(%)までどこでも存在しうること)を形成しているという作り手にとって重要な(面倒な)問題があるのでしょうが、それと等しく、あるいはそれ以上に重要かもしれないのは、ゲームのオーサーシップに深くかかわる問題であることでしょう。

 それに関連して、先日のニューズウィーク日本語版に面白い記事がありました。長く続いている「ヴィデオゲームはアート(芸術)か否か」という議論に関する話題です。
ニューヨークの近代美術館(MoMA)がパックマンやミストなどの主には古典的なヴィデオゲームを14本所蔵・公開することになり、今後もドンキーコングなどを含めライヴラリを増やす計画であるそうです。詳しい方はD.C.のスミソニアン博物館でもすでにヴィデオゲームが展示されていることはご存じでしょう。

 その記事の中で「ゲームはアートではない」と主張する意見のひとつにこんなのがあった。

「電子ゲームの世界は、プレイヤーとプログラムの相互作用で作られる遊び場だ。プレイヤーも製作者も、ゲームに個人的な人生を反映させているわけではない。つまり誰もゲームを『所有』していないので、芸術家も存在しない。だから芸術作品にはならない」

 きっとここでいう「所有」はオーナーシップではなく、オーサーショップのことだと思う。「ゲームのオーサーシップ」(ゲームは一体誰のものか?)に関する問題も長い間続いているテーマである。

 
 オーサーシップの問題は、ゲームに限らない。映画「スターウォーズ」シリーズのコンテンツをオーサーでかつオーナーでもあるルーカス本人がBD版発売にあたって一部修正したところ、ネットではコアなファンから轟轟たる非難が巻き起こった。
 話はインターネット時代にも限らない。日本の小説「山椒魚」の結末を作者である井伏鱒二氏が全集版のため書き直した。もはや国民的作品になってしまった小説の結末を書き換える権利(オーサーシップ)は作者にすらないのではないか、と筒井康隆先生が述べている。(一方でStar Warsのエピソード7以降を手掛けるとされているディズニーは、世界の古典の結末を平気で書き換えることで悪名高いのですが)

 もちろんインターネットが、そしてインターネットが前提としている自由主義経済が、こうした問題の影響を過剰なまでに拡大していることは、Mass Effect 3のエンディング騒動をご存じのみなさんには説明不要でしょう。

 ここで、一番はじめに引用した文中に登場するリフレキシヴィティ(再帰性)が関係する。
この「再帰性」は、文法でいう再帰代名詞や再帰動詞(Reflection)、数学やITでいうRecursivity(簡単に言うと入れ子状態)の訳語だった。Reflexivityの訳語にされて、色々使いまわされてしまったことを心底毛嫌いする人も多いようですので、注意。

 元々は、ある予言がなされたがゆえにその予言が的中してしまうことを指していた(自己達成的予言、self-fulfilling prophecy)。
 例としては、自分の結婚は間違いなく失敗すると予感した女性が、その恐怖が元になって結局自らの結婚生活を破たんに追いやっていくような場合。
 定義上は、最初の「予言」は状況認識を誤ったもの(偽)であるが、それによって新しい種類の行動が引き起こされ、当初の誤った発想が実現する(真になる)こと(あるいは真が偽になること)。結果が見かけ上正しくみえることから、誤謬は永続的に連鎖することになり、また予言の主は、ことのはじまりから自分が正しかったと主張することになる。

 たとえばアベノミクスが発動すれば円安になり景気が上向くであろうという「予言」がなされたがゆえに、まだ通貨量の緩和も予算の執行も何もされていないのに、すでに景気の好転が達成されつつある状態はどうか。こればかりは最初の予言の真偽がわからないし、本当に景気が良くなればもう検証のしようもないのですが。

 ここで用いたい意味はそれとは少し異なり、一言でいうのは難しいのですが、こんなんでどうか。広くは原因と結果が循環関係にあること。フィードバック・ループの一例。ある規範に基づく理論群がその規範そのもの、あるいはその規範の実践者(たとえば学問で言えば研究者)にも等しく適用される場合に起きる現象。

 社会システムに対する観察あるいは観察者の行動そのものが、まさにその観察対象自体に影響を与えること。あるいは客観的モデルを構築するために形成された理論が世の中に広まると、その客観的モデルの対象であったはずの個人やシステムの行動自体に影響を与えてしまうこと。たとえば、未開民族集落の生活を客観的に観察したかった人類学者が、まさにその孤立した村に訪れたことによって、集落の住民たちの行動に影響を与えてしまうようなこと。

 
 そのリフレクティヴィティにかこつけて言えば、JRPG以外のRPGが絶滅危惧種となっていた時代に中興の祖となったBioWareやBlizzardが、当時まともに売れるかどうかわからないで作った作品を一部好事家(こうずか)のプレイヤーたちは有難がって褒め称え、やがてそうした作品がRPGというものの規範を形成し、そこからオールドスクール派をはじめとした様々なプレイヤーの「学派」(ストーリー・ドリヴン、ハック・アンド・スラッシュ、オープン・エンドなどなど)が生まれていったわけです。

 
 環境(あるいは社会、この場合RPGゲーミングの世界)のリフレクティヴィティが低水準な場合、プレイヤーたちはこういったあてがいぶちのゲームによって、RPGとはこういうものだという規範を形成していく。つまり与えられた環境(社会構造)が個々人の規範を形成していったわけです。そこでは「気に食わないんだったら、お前らゲーム作ってみろや」という某メーカーがのたまったとされる無理を承知の暴言が成立していた。
(ただしこの暴言がなされたという時期は話によればずっと最近、リフレクティヴィティが高くなった時代であり、それだからこそ問題視された)。

 
 送り手側は権威を有し、ゆえにカリスマを有し、か弱くいたいけな下々の民である受け手側との間に与える者と与えられる者という厳然とした区別があった。そして受け手側は送り手側の権威やカリスマを疑うこともほとんどしなかった。

 リフレクティヴィティが高水準となっていくにつれ(インターネット、自由主義経済が加速してきた面はある)、個人が各個に規範、嗜好、欲望などを形成していくようになる。今度は個人が環境から与えられていた規範の根拠を疑いはじめ、自ら思い思いに規範を形成しはじめる。

 今起きていることは結局これなのですね。別にRPGにもヴィデオゲームにも限らないのですが、DA2、Mass Effect 3、それからBF3やCoDなど著名ヴィデオゲームに対するヘイトの嵐の根底にはこれがある。そして作り手側の権威もカリスマも一般に剥落してしまい、「だったらお前が作れ」などとは口が裂けても言えない状況になり、BioWareなどはついにエンディングのリメイクまで強制されてしまった。
(実は、たとえばBlizzardの一部のゲームが一部の国や地域などで厳然たるカリスマをまだ有しているのは、国や地域別のリフレクティヴィティの水準の違いによるのではないかと疑っているのですが、残念ながらここに示せる証拠がない)

 ジャンル小説やゲームなどのメディアも含め、たとえばロマンスを例にとれば、ヴィクトリア朝風に描いていれば誰も文句を言わず済んでいた(リフレクティヴィティが低かった)時代から、いまや何をどう描いても「陳腐」であり、唾棄すべき商業主義であり、お仕着せのカジュアル化であり、薄っぺらいお子ちゃま向けとみなされる時代となった。「陳腐」というレッテルを避けるために(BioWareのように?)キンキーでピーキーなロマンスを描けば、それは芥川賞やオスカーは取れるかもしらんが(知らない)、今度はなんでわざわざそんなしょうもないロマンスにつきあわなきゃならんのだ、という批判が巻き起こる。

 ゲイダーさんがよく言うように「ひとつの作品で万人を納得させることはできない」というのは真実なのかもしれないが、ではなぜ、過去「到底納得できない」と非難轟轟浴びた例は数えるほどしかなく、一方、現在ではほとんどの人気作品にそうした非難の声があがるのか。

  FF2のオリジナル・リリースは1988年。シナリオは寺田憲史氏が書いた。こてこての人間ドラマいうんですか? 個人的には「汗臭くておえんなあ」と呆れたのですが、当時誰も文句は言わなかったですよね。というか文句を言う手段がまだ一部好事家にしかなかった。インターネットなにそれ?という時代。そんな意見を「ファミコン通信」(1986年創刊)に投稿したってボツったでしょう。

 FF7がほぼワン・ディケイド後の1997年リリース。インターネットが(ダイアルアップとはいえ?)かなりの市民権を得ていたこともあり、例の中盤のわけわからん展開がそこここでボロカスに批判された。その頃には誌名が「ファミ通」になっていた雑誌にも堂々と批判が載ったでしょう。繰り返しますが、FF2のお話のほうがずっとベタでこてこてなのですが、そういうことだった。   

 またワン・ディケイドが過ぎ、ネットはすでに空気と一緒で、モバイルに移行し始めた頃。2009年リリースのFF13は、ついにプレイヤーから「ヴィデオゲームのシナリオはちゃんとしたプロが書け」と注文を付けられる始末。まあ、確かに私もお話についてはわけわからなかったんですけど・・・。どうですか、このファンの物言い?

 今では、プレイヤー・エイジェンシーが前提としていた、物語世界で実現できる選択と決断という「幻想」が、プレイヤーからすっかり見透かされているからなんですね。

 「DA2の作りはおざなりで怪しからん」という意見に「だって納期がきつかったみたいよ」などと反論する私なんかも含めて、そういう態度。

 敢えて「見透かす」のが正しいという風潮でしょう。アイロニカルでもニヒルでもなんと呼んでもいいでしょうが、そういう根深さ(というか根のなさ)は深刻な状態にまでなっているのだと思います。

2013年2月 8日 (金)

【DA3】On Novels vs. Games

 小説とゲームのライティングの違いについて。

 これも、ゲイダー・ファンにとっては何が書いてあるのか読まなくてもだいたいわかりそうなお題。ただ「エイジェンシー」の話題はやっぱ重要でしょうかね。
 ご承知のとおり、ゲイダーさんはDAシリーズのリード・ライターの役割(ご自分でもシナリオを書き、ライターチームのリードでもある)のほか、DA関係の小説を3冊(Originsのプリクエル2冊、DA2のアフターマス1冊)、DAコミックの原作をすでに数編書いている。そういえば、DAコミック”Until We Sleep”の第一巻がそろそろ発売になってるかな?

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「今クリエイティヴ・ライティングのクラスを取っているのですが、小説のライティングと、本の形にならないプロット・ドリヴン・スタイルのライティングの違いがテーマでした。後者は映画、テレビ、ヴィデオゲームなどの作品のこと。あなたは小説とヴィデオゲームのプロットの両方を書いていますが、両者の違いについて教えてもらえませんか」

 おそらく、これが私への質問で一番多い・・・、少なくともDAの小説とコミックを書いてからインタヴューで一番聴かれたであろう質問だね。決して悪い質問ではなくて、両方のメディアには顕著な違いがある。用いるメディア自体が色々な面から、そこで語るストーリーを決定づけるんだ。

 小説から行こうか。人々が一番馴染みのある手法で、ライティングと言われたらほとんどの人が真っ先に思いつくものだろうし、実際、ライティングのもっとも純粋な形式だ。ライターと読者の間に直接的な結びつきがある。ライターの意図は言葉で書き込まれると同時に、読者の想像世界にも直接描きこまれる。「物語」へのアクセスは登場人物の内面にも、全知の立場にも可能で、どのキャラクターの視点かも簡単に切り替えることができる。読者はエイジェンシー(agency、訳:後述します)を求められず、受け身の立場でのぞき見しているのであり、参加者ではない。ライターの書いたキャラクターの個性・人格を読者がおのおの気に入るように膨らませることは、読者の愉しみを広げることになるだろうが、厳密に言えばそれも必要とされない。ライターは読者がストーリーを通じて辿る道程を正確に知っているし、それぞれのシーンを必要なように配置することができ、読者はライターの書いたものをそれぞれ独自に解釈できる一方で、ライターは自分が読者を向かわせたい方向にずっと容易に誘導できる。

 ヴィデオゲーム、特にBioWareが出しているようなRPGと比べてみよう。主人公について何ら明確な人物像を思い描いていない状態でストーリーを書くことを考えてみてもらいたい。主人公について少しのことはわかっており、ライターが主人公の個性・人格づけを行えば行うだけ、ストーリーの手掛かり(hooks)を数多く手に入れることができるのは間違いないが、主人公はしばしばほどんど完璧な白紙状態である。キャラクターの視点を切り替えることは理屈の上では可能かもしれないが、そうすることでプレイヤーはアヴァター(原注)とのつながりを維持することが難しくなってしまう。

(原注)GDCにおけるマチアス・ウォーチの話(リンク)は、ゲームにおける個性・人格のコンセプトに関する優れた情報源だ(訳:PDFファイルへのリンクはこちら)。

 なにをするにしても、主人公がストーリーについてどう「感じるか」についてはライターもあずかり知らないし、主人公に選択の機会を与えれば、どうして主人公がそれらの選択をなしたかの本当の動機は決してわからない。

 ライターは出来事の順序を支配することはできるが、そうすればするだけ、物語は一本道(リニア)になっていく。一本道のストーリーは必ずしも悪いわけではない・・・、そして一本道であること(リニアリティ)によって、少なくとも従来の発想に基づく優れたストーリーを書くことも可能になる。ただしそうした物語は、同時にエイジェンシーも提供しようとするとうまく配合できないため、リニアリティを求めればそうするだけ、エイジェンシーを与えることができなくなっていく。一方で、リニアリティを抑えるためにはより多くのコンテンツを用意しなければならない。すべての考えうる選択は、「もしかしたらあったかもしれないこと(a might have been)」ではなく、どれも等しく有効なものとするため、ライターが実際に書き、しっかりした内容に仕上げなければならない。そうした選択の結果を完全なストーリーの分岐とせず、手間を減らして書く手口もあるが(ボトルネックを用いて、すべての選択の結果をクリティカル・パスに戻す方法など)、あまり多用するとプレイヤーが享受するエイジェンシーの感覚が影響を受けてしまう。

 そしてコンテンツ「こそ」気を配らなければならないものだ。小説と異なり、ストーリーは一人で書いているのではない。ただ単に「ドラゴンの待つ城まで彼らは馬に乗って行った!」と書くだけでは済まず、馬のモデルが必要だし、キャラクター・モデルを馬に乗せるようにしなければならいし、馬を走らせるエリアが必要だし、向かうべき城が現に見えなければならないし、ドラゴンのモデルと、それほど大きな生き物と戦う様子を描くコンバット・システムがなければならない。

 チームが集まると誰かが「キャラクターに城の外観を見せようとすると手間が大変なんだけど・・・、ほんとに必要なの? もし必要なら他のマップを少し削らないといけない」などと言う。そこでライターが「彼らは馬に乗って森の中を疾走し、夜のとばりが下りた頃、城の中庭に到着した。そこにドラゴンが待っていた!」と書き直す。

「ふーむ。ドラゴンは必要なの? 馬のモデルをそれらしく見せようとすると本当に複雑な作業が必要で、すべてのキャラクターモデルが乗馬するアニメーションを作らなくちゃならないとなるとなおさらだ。さらに、ジョウスティング(騎乗槍試合)もさせるって? それだけで丸々ひとつのシステムがいるぜ。それでドラゴンも追加しろ、さらにドラゴンと戦闘させろと? さてさて」

 そこでライターがまた書き直す。「彼らは森の中を疾走し、夜のとばりが下りた頃、城の中庭に到着した。そこにドラゴンが待っていた!」

「マップを減らさないといけないんだ。城の中庭のシーンは高くつく、しかもひとつのシーンにしか登場しないんではなおさらだ。つまり、そこに行って、戦って、後は立ち去るんだろう? それってほんとにそんなに重要なのかい?」
 

 またライターが書き直す。「彼らは森の中を疾走し、夜のとばりが下りた頃、森の中の空き地(クリアリング)に到着した。そこにドラゴンが待っていた!」

 ゲームのシナリオづくりは、このように行きつ戻りつ継続的に妥協を重ねていくプロセスであり、一回良い物語を書き上げ、チームメンバ-たちの支持を取り付けたとしても、開発中に変更を重ねなければならない。プロットの中を巨大なダンプカーが走りすぎるくらいのどでかい修正が必要かもしれないし、その後でプロットの穴を埋めるような時間的余裕がないことだってある。

 もちろん、すべてのヴィデオゲームに様々な主人公やノンリニアな(一本道ではない)プロットを持ち込む努力が求められるわけではない。すべてのゲームが同レベルのプレイヤー・エイジェンシーを求めるわけでもない。私の念頭にあるのはHeavy RainやUncharted 2などだ。それらは素晴らしい、だが極めて一本道の物語であるが、だからといってゲーム体験を損なうことはない。Skyrimのようにオープンエンドを徹底したゲームだってあり、たとえ物語が損なわれることが避けられないとしても、そこではエイジェンシーがすべてである。それもまた悪いわけでもなく、そういうゲームは物語を語ることを主眼としているものではなく、プレイヤー自身が物語を紡ぐものである。ゲームのプロットを考える場合、リニアリティとエイジェンシーの間には、すべての配合割合がありうるし、ゲームがそのどこにでも着地しうるという事実が事態をおそろしく難しくしている。

 だが、そのすべてにおいて物語へのアクセスは欠けているのだ。セリフしかない小説を思い描き、それでどんなことまでできるか考えてみてほしい。ゲームが物語を「語れない」のではなく、悲しいことにゲーム内のテキストが時代遅れと考えられているのが昨今なのであり、そのため伝えたいことすべてを実際に見せなければならなくなるのだ。そういう環境でストーリーのどれだけの部分を伝えることができるだろうか? 複雑な感情をキャラクター・モデルの顔で表現できるだろうか? シネマティックやアニメーションにどれだけ頼れるだろうか?

 RPGストーリーを一つにまとめる手法に関するセオリーはたくさんあるし、ワン・サイズ・フィッツ・オールな、便利な万能解決策など私も持ち合わせていないし、そもそも存在しない。だがそれはプレイヤーというマウスを走らせるための迷路を作っているようなものだと言ってほとんど間違いない。ひとつの道しかないことだけだってありうるが、それは迷路としては貧弱だ。逆にあまりに紆余曲折を繰り返させると、マウスは途方に暮れてしまう。どちらの方法でも経験を積むのはあくまでマウスのほうであって、迷路作者は歩くことのできる通路を作り上げることを除けば、マウスがどんな理由でどんな行動をとるかについてほとんどコントロールすることができない。ライターはそれを予見して、自分のストーリーで重要な役割を占める場面を配置していくのだが、そのインパクトは正確には分からない。できることと言えば、実際プレイヤーにコンタクトして、ストーリーの中でどのように振る舞ったのか聴いてみることくらいだ。

 小説を書く方法もまたたくさんあるが、そこには独自の諸制約とルール群がある。インタラクティヴ性に欠けているということが意味するのは、愉しみを生み出す責任はすべてライターが負っているということである。踊りも曲芸も全部自分でやり遂げて、かつ黙って観ているだけの観客にもっと見たいか聴くこともできない。さらに小説にはヴィデオゲームに比べてより長い歴史、さらにライティングの良し悪しに関するより多くの学派があることも間違いない。実のところ、ライターが唯一のストーリーテラーであるのだから、成功も失敗もひとえにライターだけの肩にのしかかってくるのだ。

 個人的に自分にとってどっちが好ましい手法かわからない。自分自身の出だしはゲームのシナリオだったので、そのメディアには十分詳しくなったが、独自の制約に苛立つこともとても多い。繰り返しになるが、そこではライターはコラボレーションの一部であり・・・、うまくいったらひとりきりで成し遂げるよりずっと素晴らしいことができるのだが、そもそもなんでそんなことがしたいんだろう? ひとつには、棚に飾ったゲームを眺めて、この記念碑的なストーリーづくりには自分も参画していたと思えるのは素晴らしい感覚である。またそれはグループが成就した達成でもあり、潜在的にはプレイヤーをずっと深い個人的なレヴェルで惹きつけることができる可能性も有している。

 一方で、自分ひとりで小説を書き上げることからも大変な充足感を得ることができる。 ”The Stolen Throne”が私の最初の小説だが、あの作品は果たして自分に小説を書き上げることができるかどうかを見極めるため手掛けたようなものだ。過去にも手慰みに書いていたことはあるが(そうじゃないライターがいるかい?)、一冊書き上げたことはなかった。それができる気力が続くかどうかわからなかった。結果的にできることがわかったものの、自分がその向きに極めて優れているともいえない。そういうと喜んで賛同する、アマチュアの努力を非難することに情熱を傾けたがる者たちには事欠かないのもわかっているが、それは気にしない。書き上げたこと自体がハッピーで(誰もがチャンスを与えられるわけじゃない)、それ以降の小説で自分の技巧が向上して行ったと考えている。

 小説を書くということは自分ひとりで手掛けるには大変骨の折れる(herculean、ハーキュリーズ(ヘラクレス)のような)作業で、それをまがりなりにも成し遂げたという事実があるから、ネイセイヤー(naysayers、なんでもダメ出し屋)たちのことは喜んで無視することができる。私の小説をとても愉しんだと伝えてくれる読者もおり、書き続けるためにはそれで十分なのだ。

 今はコミックの原作を書けることがハッピーだが、これもまた全く別種の生き物で・・・、長大で込み入ったプロットが求められる小説やゲームで慣れ親しんだライティング・スタイルをもって、予めサイズが決まっていて複数巻に分かれているメディアに無理やり詰め込むことを想像してみてもらいたい。必要に応じてページを追加して増やすなんてできないんだよ? ううう。私があまり踏み込む必要のない世界かもしれないが、これもまた異なる種類のチャレンジなんだ(マラソンのような長丁場にならないことが、ある意味で救いなのかもしれない)。 

 まあとにかく、ライティングがんばってくれ! ここに書いたことで全て言い尽くしたとは思っていないが、異なるプロセス同士の違いについて、何か君が得られるものがあればいいと願っているよ。

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 エイジェンシー(ここではプレイヤー・エイジェンシー)について文中で少し触れられていますが、説明がいるかな。
 長くなりそうなので、次の記事にしましょう。

2013年2月 6日 (水)

【DA3】On Opinions

 なんだか知らないけど忙しくて忙しくて、Mass Effect 3の紙芝居がなかなか前に進まない。

 実は次はジェイコブとの再会編。画像をKindle(HDのほう)に落として(一つのミッションで一千枚以上!)寝る前に台詞もチェックしたのですが、どうも彼が絡むミッションはMass Effect 2を含め、どちらもしっくりこないんですよね・・・。
なんでサーベラスに入ったんだっけとか、なんでサーベラスやめたんだっけとか。だいたい応援団とか暴力団と一緒で、一度はいったらやめられないはずだよなあとか(画像を眺めて、身を隠していることは思い出したのですが、ユニフォームはサーベラスのままだし)。
別にイヤなやつではないのですが。
先にサマラ編をやる手もあるんだけど。

 
 とはいえ、あんまり翻訳していない日が続くと中毒の禁断症状が出るので、ゲイダー節でお茶を濁すことにします。

彼のTumblrのブログ、The Bittersweetest Thingから。

On Opinions- As in Mine

http://dgaider.tumblr.com/post/42360116412/on-opinions-as-in-mine

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 意見について - 私の場合

 
「この手の質問には答えることが許されないのかもしれないけど、インターネットのように酷評が渦巻く環境で何かに意見を表明するのはどんな感じでしょうか? たとえば何かを『好きではない』ような場合でも、『好きだ』と言わなければならないことはある?」(匿名)


 好きでもないものに対して好きだといったことは、たぶん一度もないと思う。それはもちろん、あくまで私の個人的経験であって、他の企業ではそうではないかもしれないが、いままで誰かが私のところにきて、何かについて好きだと発言しろと言われたことはないし・・・、あるいは表明した意見について叱責されたこともない。

 公共の場で発言していいことといけないことの「ルール」は間違いなくある。たとえば、公表されていないプロジェクトについての発言はできない。公表されたプロジェクトであっても、まだ公共の場で議論されていない趣向(フィーチャー)やものごとについても発言できない。公開時期のタイムラインは、そのプロジェクトのマーケィングに携わる者たちが決めるのだが、誰かが許可もなしにべらべら喋るのは彼らにとって非常に不快なことだ。株式公開企業の場合は、なおさらそうだね。

 私が公共の場で会社にとって望ましい決まり文句を喋れなどとは、誰からも決して命じられない。そもそも開発者がその仕事として公共の場で喋るのは、マーケティングの者たちから要求されたときだけだ。インタヴューとか、コンベンションの場でね。
 
 とはいえ、私が公共の場で発言しているときに、自分の会社やチームが決定したものごとについて、たとえ私が同意していなくてもバカにするようなことはしない。プロとしての姿勢にもとるだけじゃなく、それはとても疑わしい行動だからだ。

 一つ目の理由は、私もそこにいたわけだから。どうやって決まったか知っているから。その決定には厄介な問題が潜んでいることに気が付いていても、ひとたび決定がなされた後では、いくらダメだと叫び続けても、公衆の面前で汚い洗濯物を虫干しするみたいに人前で暴露しても、もうなんの意味もない。もしそんな仕事の仕方をするなら、なにひとつ完成なんてしない。我々は、プロジェクトの進む道について、絶えずてんでに好き勝手な方向に引っ張ろうとして口げんかに明け暮れる子供の集団に成り下がってしまう。ファンのフォーラムでやるなら最高だろうが、製品を完成させて出荷するためにはそうじゃない。

 二つ目の理由は、私が話題にする誰であっても、その決定を下した誰であっても、反論する機会が与えられないからだ。チーム外の人々は私の意見を耳にして、話の半分だけ聞いて、解釈する際には自分たちの主張を埋め込んで、それで一足跳びに結論を出すだろうが、その結論はおそらく間違っている。そうした情報を有意義なものと受け取る者もいるかもしれないが、私のインターネット上の経験から言えば、非常に多くの投稿者(ポスター)たちが、ようやく立って歩けるようになった赤ちゃんレベルの文章読解力と自我しか持ち合わせていない。だから自分の同僚をそうした批判に曝される立場に売り渡すのは、ありえないほどアンフェアな行為だ。

 そしてまたしても、私が喋った「どんなこと」であっても、ファンは極めて容易に、私個人の支援とか私個人の非難を伴っていると考える(インターネットにおける文章読解力についての上述のコメントを参照のこと)。私が「我々がやっていることはこうで、その理由はこうだ」と述べれば、私個人がそれを大変素晴らしいと思っていて、かつ私自身のアイデアであるとファンは考える。さらに、それを許してくれる会社も大変素晴らしい。そしてそのことに反対するような者はよくない人である。そんな場合のほうがきわめて稀だ。ときには、あるアイデアが優れていて、他の手法(アプローチ)を上回ると思うことだってあるし、そのときはそう言うが、通常は単に説明しているだけである。

 ほとんどの場合、ある特定の手法には良い点もあれば悪い点もあり、良い点が全体的に上回るかどうかは、ひとえに文脈(コンテクスト)に依存する(あるプロジェクトとそこにおける他の趣向、加えて読み手の嗜好による)。だが私がそれに気が付いていて、まるで私がBioWareと等価であるかのように考えている多くの者がおり、私が話していることがなんであろうが、私がすべての支配権を握っていると信じている。
 私は巨大で凶悪なゴッズィーラ(Godzilla、日本語:ゴジラ(笑))で、回りの皆の感情なんてお構いなしでキタギタに踏みにじるってことだ。さあ、恐れよ、逃げよ!

 

 まあそれはそれでいい。怒りをぶつけるゴジラがいれば気分が良くなる人たちだっているわけで、顔のない人々とはコミュニケーション自体が成り立たないわけだから。もし私がこの手のことに慣れていなければ、他の多くの人たちと同じように、ハンドルネームの影に潜みつつ意見を述べるだろうね。

 「他の」ゲームについて意見を述べようとするときに限り、こうした立場もややあやふやになる。なぜか? プロとしての礼儀が理由の大半を占める。他の開発者たちが彼らのゲームを完成させるために潜り抜けてきた試行錯誤や艱難辛苦について詳しく知るわけもないのだが、他の多くの人々よりは正確に推測できる。そうであるのに、彼らのゲームがひどいであるとか、ここが気に食わないなどの不平不満を投稿(ポスト)なんてできるだろうか?

 もし私の指摘が当たっていたとしても、私個人の意見だとは受け止めてもらえない。多くのファンは開発者同士がライヴァルの関係であるという発想をこよなく「愛して」いる。ある企業がBioWareの手法に異議があるなどとほのめかすと、突然その企業はBioWareを「嫌い」だということになり、われわれも売られた喧嘩を買わないわけにはいかなくなるんだ!

 そんなことはありえない。開発者同士は一般に友人としての付き合いをしているし、他のチームが新しい物事に取り組むときには協力関係でもある。たとえば、世の中にわれわれのものとは異なるタイプのRPGがあるのは素敵なことだ。すべてのRPGが同じであるべきでもないし、BioWareの手法をとる必要もなければ、BioWareのことを気にする必要すらない。競争関係だったらお互い注意を欠かさないだろうが・・・、いまの市場には多くのRPGが共存できる余地がある。わかるよね。
 

 だが、たとえば、私は先日の記事でThe Witcher(ウィッチャー)のセックスカードについて、それがないほうがより愉しめたはずであったとコメントを述べた。それによって、私があろうことかCD Projektを貶めたことに「激怒」し、そして自分たちの好きなゲームに対して私が批判したと感じた以上には私の書いた文章を読み解く時間もかけていないことが間違いないファンたちの怒りのメールを受け取った。アンフェアの極みだ、BioWareのゲームも同じことをやっているのに気が付かないのか、CD Projektは怒るべきだ、などなど。

 何が言いたいかって? 私見によれば、人々は私が喋ったことを勝手に解釈したうえで、あたかも私がそう発言したかのように取扱う・・・、BioWareは批判を受け付けない至高な存在であり、CD Projektの気のいい人たちは性差別主義のクソ野郎の集まりで、私をひどく不快にさせたのだから黙っていればいい、などと私が思っているかのように。そんなことは思っちゃいない。

 たとえばThe Witcherのようなゲームに対する批判のリスト、どんなゲームをプレイしていても思いつくかもしれないようなリストを投稿したらどうなるんだろうか、と想像してみたくなってしまう。皆は単なる私の考えと受け取るだろうか? 私はそれらの不満があるにも「関わらず」そのゲームを楽しんだと思ってくれるだろうか? あるいはそれは糾弾のためのリストであり、人によってはそのすべての点においてBioWareのゲームだって等しく劣っていると考えているにも関わらず、我々のゲームの(異なる理由ではあっても)ダメな部分を嫌うことが私には許されない、より悪いことにはBioWare自体からの批判が許されないというのは、とんでもなくアンフェアなことであるとみなすだろうか?

 うーん。すでに激しく行われているファンの論争に加えて、また開発者がもうひとり揉める種を追加する必要があるのか?

 だが・・・、まあいいか。これらはごく当然のことだ。なぜ開発者たちが公共の場での発言を注意深く行うか、少なくともそうしようと振る舞うかの理由でもある。私自身もいつもうまくいくわけじゃない。他の人と同様に頭にくるし、避けるべきだとわかっている議論に引きづり込まれることだってある。酔った勢いでツイッターにしょうもないことをつぶやくこともある(I drunk tweet.)。そして突然、誰かが怒っている何かについて、私がまったく発言してもいなければ、議論に参加すらしていない物事であっても、私が「個人的に」責任を負うことになる。

だが、公共の場ってのはそんなもんなんだと思う。

(ここで”life of a gangsta”の楽曲スタート)

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 今回の文章はいつにもまして、ややこしい。
 ただ内容は「インターネットでは言ってもいないことがいつのまにか言ったことにされ、それが原因で怒りや不満や、支持や賛同を集めてしまう」といういつもの愚痴。もうひとつは「ゲイダーさんとBioWareが等価であるとみなす輩」。
 そして、ネット上の文章読解力のなさ。自我・自意識の低さ。

“…but my experience on the Internet has been that a great many posters have the reading comprehension skills and self-awareness of a toddler.”

   “Toddler”はヨチヨチ歩きの赤ちゃん。文章読解力も自我もほとんどないだろう。
  何度読んでもおかしくて笑ってしまう。

 The Witcherのセックスカードに対するゲイダーさんのコメントはどこかに訳しましたね。そちらでコメントの趣旨はお分かりいただけると思う。ここか。

http://vanitie4.cocolog-nifty.com/rain_dancing_vanity_13/2013/01/on-romances-in.html

 登場人物のうら若き女性はほぼ全員、ゲラルトとエッチすることができる。そうすると、エッチなカードがいただける。そういう趣向がゲーム内に存在すると知ってしまったら、(ゲイダーさんの場合も私の場合も)カードを集めることが前面に出てしまい、登場人物の女性を物語上の存在とみなさなくなる(懸念がある)。そんなことでした。たしかThe Witcher 2にも似た趣向があったような気がする。そっちは一周で疲れてしまい、あまりやりこまなかったので全貌がわからない。

 “I drunk tweet.”、ドランク・ツイート(「する」で動詞ですね)は、Urban Dictionaryのお世話になりました。

 「酔った勢いでツイッターにしょうもないことをつぶやくこと」

 「酔っている」と「しょうもない」の両方が揃ってないといけないようだ。
 日本で通じない新しいスラングは説明がめっちゃ長くなるね・・・。

 私はツイッターはやりませんが、酔っ払いメールを送って痛い目にあったことは何度かある。気をつけねば。むしろめちゃくちゃで読解不能のほうが結果的に無事なんだよな。

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